第4話 赤い灯の少女

 実のならない考え事をする暇は、時間経過とともに失われていった。


 夕方に差し掛かってからというもの、書店は急に客が増えて来たのだ。


 客層も、買っていく本も様々だ。料理のハウツー本、小説、絵物語コミック、思想書、その他もろもろ。


 だがそれらのタイトルや買って行った客の顔など覚えている余裕はさっぱり無かった。


 何せ、エディの経験する労働はこれが初めて。ある程度簡単な計算は可能だが、それでも間違えないように気を遣うのは大変だった。


 ゴミを漁り、物資を盗み、ボロ布を服の代わりに纏っていた少女には荷が重い。


 おかげで、釣銭用のボックスに入った硬貨からちょろまかそうとか、そういう雑念が入る隙間も無かったのは、ある意味僥倖と言えなくもないか。


 ―――いや僥倖じゃねー! これじゃあ先輩風に振り回されてんのと変わらねーじゃねえか!


 頭の中で悲鳴を上げ、がちがちに固まった営業スマイルで慣れない接客をしながら、エディは腹の底でボコボコと湧き上がる苛立ちと焦りを抑えきれずにいた。


 ありとあらゆる事柄から“物語”を読み解いて、自分の物語を作るとっかかりにするべし、と教えをもらったのはいい。しかしそのための労働で、そんな暇も与えられないのでは、本末転倒というやつではなかろうか。


 なんとかしてベル先輩とバトンタッチして、一個でも多くヒントを。そう思って対して広くもない店の中を見まわすと、新しい客がやってきた。


「あの、これをお願いします」


「はっ、ひゃひっ! おきゃっ……お会計ですねっ!? ……って」


 びくっとして受け取った本から顔を上げてみる。そこにいたのは、赤い髪を伸ばし、おっとりした笑顔を浮かべた、制服姿の少女であった。


「る、る、ルビィさんっ!?」


「こんにちは、エディさん。なんだかお久しぶりですね?」


 思わずガタガタと椅子を鳴らして立ち上がったエディは、顔面に羞恥心を爆発させた。


 慣れない店員姿を見られ、散々噛みまくり、あまつさえ動転してしまった姿を見られた。それも、数少ない友人と呼べる人物に。


「うわああああああああ! 違うんだ、人違いだぁぁぁっ!」


「エディさん!?」


 背を向け、受け取った本を頭にのせてうずくまったエディに、ルビィは驚いて身を乗り出してくる。


 書店にいた客たちが一斉にカウンターへと視線を向ける。何があったのかとすっ飛んできたベルは、エディとルビィを見て一瞬で何かを察したらしく、ふたりを店の裏側へ追いやり清算業務を引き継いだ。


 蔵書や注文書を積み上げた裏のスペースに行っても、エディは目を見て話せない。


 入学してから半年、ルビィとはちょくちょく顔を合わせる機会があった。


 人付き合いのスキルなどひとつとして持たないエディは、親切にしてくれるルビィとおっかなびっくりながらも世間話をしていたが、逆に彼女以外とはあまり深く関われなかった。相手が口下手なエディを根気強くフォローし、意を汲んでくれるルビィだからかもしれない。


 そんなルビィは、目を背けてしまったエディの背を優しくさすりながら、柔らかに尋ねてきた。


「驚きました。エディさん、ここで働いていたんですね」


「は、働いてたっていうかその、先輩に引っ張り込まれて手伝わされてたっていうか……」


「そうだったんですか。大変みたいですね」


 エディはガチガチになりながら、ゆっくりとルビィの方を振り返る。


 しっかりと櫛を通された赤い髪を流した少女は、相変わらず薄汚いエディの目には眩しすぎる。見れば見るほど、住む世界が違う人物なのだという認識が強まった。


 小脇に抱えている本は分厚く、“ディスターブド・フォレストの魔華”というタイトルがついている。植物の本だろうか。


「え、えと、あの……」


「?」


 間を繋ごうと、エディは懸命に口を動かした。


 だが、上手く言葉が出てこない。出せるものがないのもあるが、僅かな語彙も喉奥につっかえてしまっている。


 ルビィは首を傾げながら待っていたが、やがてバツが悪くなったエディが目を逸らすと、向こうから口を開いてくれた。


「エディさんがここでお手伝いしているのは、やっぱり取材のためですか? 確か、特待生でしたし、お金の方は心配いらないはずでしたよね」


「あ、うん……。そのつもり……」


「やっぱり。私も似たようなものなんです。今、書こうとしている小説のアイデアが欲しくって。エディさんは、もう何を書くのか決まっているんですか?」


「……全然。何書いたらいいのか、さっぱりで……」


「そうだったんですか」


 ルビィはゆったりとした口調で、問いを投げかけてくる。


 気を遣わせていることに情けなさを覚えつつも、エディはなんとはなしに彼女の話し方に甘えてしまっていた。


 半年経って何も書けないこと、忙しく振り回された今日一日、断片的なヒントをもらっても活かせない焦燥が、エディを弱気にさせていたのだ。受け答えにも覇気がない。


 とはいえ、流石にルビィにやりとり全てを主導させてしまうのも、何か違う気がする。エディは思い切って、どもりながらこちらから話題を振ってみることにした。


 別の何かの物語を読み解いて、自分のものにする。先ほどベルに教えてもらっておきながら、考えてもさっぱりわからず、実践する暇さえもなかったこと。ルビィとふたりきりの今なら、出来そうな気が、ほんの少しだけあった。


「あ、あ、あ、あのっ……! ルビィ、さんは……それ、なんの本……?」


「これですか? ずっと西の方の国にあるという、星骸の呪いで歪んでしまった森にある本です。今月分は、これを題材に短編を書いてみるつもりでして」


「……今月分……?」


「はい。毎月、一本ずつ完成させるようにしているんです」


 エディは胸を撃ち抜かれたような衝撃に、半歩よろめいた。


 ―――毎月に一本? あたしは半年かけて何にも出来てないのに?


 ―――その間、定期的に出し続けたって?


 ぐらっ、と視界が歪んでしまう。なんでこんな衝撃を受けているのか、自分でもわからないままに。


 ルビィはエディの手を引くと、心配そうに顔を覗き込んできた。


「だ、大丈夫ですか? 働きすぎなんじゃ……」


「あ、いや……そういうんじゃない……。あ、あのさ、どのくらい、書いてんの……?」


「どのくらい? うーん、一作につき、原稿用紙二百枚ぐらい……でしょうか」


 顎が外れてしまうかと思うぐらい、愕然とさせられる。


 ヨサ先生のお情けで原稿用紙一枚分を、一年の成果として出せと言われて苦労している自分とは、全く以って次元が違う。


「……学期末の、提出は……?」


「うーん、それまでに完成したどれかをお見せすることになるとは思います。どれにするかは、まだちょっとわからないんですけど」


「あ、うん……そっ、か……」


「エディさん?」


 エディは再び頭を抱え、その場に座り込んでしまった。


 目が熱くなり、涙が湧き出してくる。その原因がなんなのか、説明できない。


 不安、焦り、情けなさ。それとも絶望と呼ばれる感情の類だろうか。いずれにしても、湧き上がってきた黒く濁った気持ちに浮かぶ言葉は、“無理だ”という、この上なくチープな一言だった。


 ルビィが屈み、エディの肩に手を置いて揺する。何を言っているのか、わからなかった。


 物心ついた時には狭く、ひどい匂いのする路地裏にいたエディは、訳も分からないまま、あらゆることをして生きてきた。


 ゴミを漁り、野良犬や野良猫の残飯を横取りし、時には食料品店から盗みを働いては暴行を受けたりした。


 心の慰めといえば、雨風にさらされたり、ゴミ箱に混ざっていた本だけ。それを頼りに言葉を覚え、最低限の知識を身に着けた。


 それが、まるで奇跡のように、グラインランス芸術学院への入学の話が降ってきて、現実のものとなったのだ。


 たくさんの本。暖かくて柔らかなベッド。涙が出るような香りと味の食事。真新しい服。


 全て、失われてしまうのか。なにひとつとして書けないのに。


 仮に今年を乗り切ったとして、来年は? 再来年は? 今年と同じように、原稿用紙一枚で済むだろうか。同じ年に入学して、自分よりもっとたくさん書いている人が目の前にいるのに、エディにばかり温情をかけ続けられる、そんなことがあるだろうか。


 狭く、暗い箱の中に閉じ込められたような気分だった。出る方法もわからない、固い無知と無能の檻だ。


 ―――嫌だ! あんな生活に戻りたくない!


 ―――追い出された冬の空の下で、雪に紛れて野垂れ死ぬなんて嫌だ!


 いつか読んで、自分もいつかこうなるのか、と夢想した本のことを思い出す。


 あの本の少女の手には、微かな幻の火種があった。火種を灯す手段があった。エディには、無い。


「エディさんっ!」


 はっとして上げた顔を、ルビィの両手に捕まえられた。


 不安そうな眼差しが、至近距離から覗き込んでくる。ルビィは何も言わず、エディをじっと見つめていたが、やがてエディの手を取って立ち上がった。


 恐ろしい夢が、打ち切られる。


「お仕事、もう終わりですか?」


「え? い、いや……わかんないけど……」


 今日はこれで最後、とだけ聞いているが、具体的な時間はわからない。


 するとルビィは悪戯っぽく笑って、エディの手を引いた。


「じゃあ、帰っちゃいましょう」


「え? で、でもンなことしたら……」


「いいよー!」


 ひょこっと顔を出してきたベル先輩がウィンクをする。


 何が何だかわかっていないのは、どうやらエディだけのようだ。ルビィは笑顔でベルに会釈すると、エディの手を引いた。


「それじゃ、行きましょう!」


「え、ええっ……?」


「んじゃねー! また明日!」


 助けを求めるようにベルを振り返るが、エルフの少女は手を振って、来た時と同じく前触れなく引っ込んでしまった。


 ルビィはエディを連れて、書店の裏口から外に出る。


 暖かい夕日と爽やかな風が、ふたりの家路を出迎えた。

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