第1話 もはや既に不安しかない

 エディ・ラナウェイは、入学初日で既に若干の後悔と、嵐の前触れにも似た大きな不安で死にそうだった。


 震える足で馬車から下りると、吹き荒ぶ暖かな風に乗って、淡く柔らかな花びらがいくつも吹き付けてくる。御者は毛づやの良い、黒い二頭の馬を手綱で叩くと、エディを置いてその場を去って行った。


 エディは少し震える胸元を握りしめる。心臓と肋骨が、一緒になってわなないているかのようだ。二頭立ての馬車なんて、それこそ本の中でしか見たことがない。


 紛うことなき春の風が、立ち尽くしたエディの、慣れないスカートを履いた足に悪戯を仕掛ける。


 真新しく着慣れぬブレザーの下、糊が効きすぎて着心地の悪いシャツは、既に汗でびっしょりだ。ぼさぼさに乱れた茶髪に大げさな丸縁眼鏡という出で立ちのエディは、後生大事に両手で抱えた封筒の紐を解いて一枚の紙を取り出す。


“グラインランス芸術学院入学許可証”


“学院長アコーディオン・アームストロングの名に於いて、エディ・ラナウェイを第433代新入生として当学院に入学することをここに許可する”


 固いが、優しい手触りの高級紙に、格式張りながらも優美な紋様と共に書かれた文章を、何度も見返す。


 続いて、新たにやってくる学徒たちを迎えるように咲き乱れる桜並木と、その奥にそびえる混沌とした巨大な建築物を。


 億単位の樹齢を数えるという巨大な樹木に、街の建物を節操なくくっつけたり埋め込んだりしたような外観のそれが、今日からエディの学び舎となる。


 ―――嘘だろオイ……!


 ―――神様があたしにゲロと法螺を一緒に吐きかけて馬鹿にしてるとしか思えねえ!


 ―――出なきゃ、こんなとこへの入学許可書が、あたしなんかに転がり込んでくるもんか!


「はぁ……」


 陰鬱な溜め息とともに肩を落とし、赤い頬を頬を叩いたり、つねったりする。ここ数日で起こった奇跡の連鎖は、まるで意地の悪い夢の如し。目覚めたら、全てが泡のように消え去ってしまっているのではないか。そんな不安ばかりが募る。


 それもそのはず。ここ、グラインランス芸術学院は、この国でも有数の最高学府。


 芸術と銘打たれているものの、カリキュラムには軍事・帝王学・医学・生物学・社会学・魔法学に果てはスポーツの類まで何でもありだ。入学試験は難関で、毎年どこからでも人が来る。卒業すれば、将来は約束されたも同然らしい。……道端でたむろした、皺だらけの醜い顔をケバケバしいメイクと趣味の悪い眼鏡で飾った貴族の奥さんが、繰り返し繰り返し自慢するのを聞く限りは、だが。


 ―――なんであたしは、そんなところに入ろうとしているのだろう?


 ―――いったい、何がどうなってるんだ?


 頬をぐにぐにと引っ張るエディを、怪訝そうな顔をした同級生と思しき者たちが追い越していく。多くは身なりをしっかりと整え、毅然としている。見るからに貴族の子息と言った雰囲気。


 通りすがりの男子と目が合うなり、エディは気圧されたが、向こうは自分の髪型が変だと思われたと感じたらしく、胸ポケットから取り出した櫛で、髪を撫でつけ始めた。流れるような所作は、優雅の一言だ。


 ―――あたし、やっていけるのかな……?


 ―――っつーか、本当に夢じゃないんだよな? 明日目が覚めたら、またあの掃き溜め、なんてことはないよな?


 ぐににににに、とさらに強く頬を引っ張っていると、不意に、後ろから背中を叩かれた。


「うぇひっ!?」


「何してるんですか? 入学式に遅れちゃいますよ?」


 奇声を上げて振り返ると、可憐な容姿の女子生徒がそこに立っていた。


 赤い髪を腰まで伸ばし、制服もきっちりと着こなした、清楚そうな外見。くりくりと丸い瞳は金色で、誰に言われるまでもなく良家のお嬢様とわかる。


 エディは猫背になって、目を泳がせた。今のを全て見られていたのだろうか。


 ―――恥っず! 居心地悪っ!


「い、いやぁ……その、なんていうか、まだ実感が湧かないっていうか」


「もう、またそんなことを言って。現実ですよ、安心してください」


 整髪を知らない頭を掻くエディに、赤毛の少女は微笑みかける。


 安心しろと彼女は言うが、到底そんなことはできない。エディに夢を見せるものの筆頭である彼女こそ、きっと最も都合の良い夢の産物だと思うから。


 赤毛の少女は、両手で持った手提げ鞄を少し持ち上げ、抱きかかえた。ぬいぐるみを抱いて眠る少女のような所作が可愛らしい。


「でも、気持ちはわかります。それに、緊張しちゃいますよね。私も、昨日からずっと眠れなくって」


「あたしもだよ。眠れるわけねー……」


「はい、そうだろうと思いました。仲間ですね」


 赤毛の少女は微笑んで一歩踏み出し、エディに手をつかんで引っ張り始めた。


 一挙手一投足が、自分とはまるで異なる世界に暮らす人間のそれだ。完全に気後れし、危うく転びそうになるエディに、笑顔を見せる。


 彼女の名は、ルビー・クリフ。文字通り、エディとは比べるべくもない、お嬢様だ。


「そんなに遠慮しないでください。今日からは、同じ学び舎で暮らす仲間なんですから。ね、エディさん?」


「あ、ああ、うん」


「そんな気の抜けたような返事をして。さあ、急ぎましょう。入学式に遅れてしまいますよ」


 エディは落ち着きなく目を逸らしたり、そわそわしながら、ルビーに手を引かれていく。


 気付けば、さっきまで周囲に大勢いた新入生と思しき人々は、もうまばらになってしまっている。既にほとんどが、会場で入学式のスタートを待っているに違いない。


 ルビーから逃げるように学院へ続く道を見まわしていたエディだが、やがて沈黙を持て余してしまう。


 けれど、なにを言えばいいのかもわからない。初対面から多少の時間は経過したが、ルビーとなんの話をすればいいのか、未だにつかめていないのだ。


 それを察したルビーから話題が飛んでくるのは、もはやお約束のようなものだった。


「それで、エディさん。何をするか、決まりましたか?」


「いいや、まだ全然。パンフレットを見たけど、色々ありすぎてわからないよ」


「それなら、とりあえず全部回ってみるのがいいと思いますよ。ここにはなんでもありますから」


「あ、うん」


 ―――会話、ミミズの穴掘りよりも進まねえ!


 ―――ろくに世間話なんてしたことねえから当たり前だけど!


 エディはまともに口も利けなかったが、ルビーはそんなエディをどこか面白そうに眺めていた。


 入学早々、難儀なことである。無事に入学することが出来ているのならば、だが。


 ―――この入学許可証が、偽物だったりしなければだけどなぁ!


 ―――あの脳みそ代わりの大胸筋、これで嘘だったらゼッテーただじゃおかねえぞ!


 心の内で罵声を上げつつ、ふたりは目的地の講堂へと足を踏み入れた。




 入学式は粛々と、なんのトラブルもなく進み、校長からの祝辞が促される。


 やたら大きなステージの上にちょこんと置かれた講演台に対して、その男はあまりに大きすぎ、そして筋肉質だった。


 片方につき人間が二、三人座ることの出来そうな肩。エディの頭よりも巨大な大胸筋。ただでさえ背が高く、同じ足場に居ても首が痛くなるほど見上げねばならないような身長が、ステージの上ではさらに際立つ。


 中年を超えて初老と思しい校長は、魔術式の小型拡声器を使うことなく、大音声を吐き出した。


「諸君、入学おめでとうッ!」


 ―――うるっせぇぇぇぇぇぇ!


 ―――声の風圧だけで物理的に退学しそうだわ、ボケが!


 キーンと耳鳴りをする耳を抑え、体を低くしながらエディは毒づく。


 それは周囲も同じようで、新入生たちは皆、衝撃を受けているようだ。その様を見まわした校長はニヤリと笑うと、少し声量を下げて続ける。


「このグラインランス芸術学院の門をよくぞ叩いてくれた。知っての通り、この学院は“芸術”学院だ! 絵画、文学、音楽、演劇、あらゆる創作活動がここでは肯定される。社会風刺も好きにやるといい! カリキュラムも君たちがより良いものを作れるよう、ありとあらゆる教師と学部を取り揃えている。この学院以上に数多の情報を備えた施設は世界を探せど他になし、ただしッ!」


 岩石のような拳が講演台を殴りつけ、一撃のもとに粉砕したばかりか、ステージの床までもを凹ませる。


 講堂脇に立つ教頭が死んだ目をしてその様を見つめ、新入生たちも震えあがった。


「一年に一度、学期末には君たちの成果を見せてもらう。形式は問わないが、見せられないなら退学となるッ! 入学試験で既に燃え尽き症候群を発症した、バースデーケーキのろうそくほどの耐久性も無い者は、容赦なく叩き出すので覚悟するように! 君たちの情熱に期待する。以上ッ!」


 言いたいことを言うだけ言って、校長はステージを下りていく。


 その所業に若干引いていた進行役は、気を取り直して次のプログラムを読みあげる。在校生代表、生徒会長からの祝辞だ。


 壇上に上がった生徒会長は、足で講演台の残骸を掃くと、凛とした言葉を発する。


「えー、新入生の諸君。エキセントリックな校長でさぞ驚いたことだろう。毎年誰もが受ける洗礼なので耐えて頂きたい。そして私からは手短に、本来は校長が伝えるべき校訓を新入生諸君に預けたいと思う」


“人よ、おのが輝く舞台で輝くべし”


「かつてこの学院は、様々な理由で戦争に参加出来ない者たちが、なんらかの形で貢献するために作られた場所だ。いわば、戦えない者の掃き溜めに過ぎなかったのだ。では、彼らはただの敗残者だったのか? ……否だ。彼らは今日こんにちにまで伝わる文化を根付かせ、生み出してきた。誰もがそれぞれの分野でスターになれると証明したのだ。


 知っての通り、グラインランス芸術学院は多くの著名な芸術家を輩出している。彼らは自らの輝く場を見つけ、その身を燃やして生きている。新入生の皆にも、願わくば、己の輝く道を見つけ、邁進してほしい。我々上級生、教員一同、君たちを支える用意は出来ているので、遠慮なく頼ってほしい。……入学、おめでとう」


 生徒会長の降壇は、校長と違い、拍手を以って見送られた。


 これから学園生活が始まる。すごい人たちでしたね、と耳打ちしてくるルビィにげんなりと頷き返しながら、エディは将来の不安に思いを馳せた。


 ―――あたし、芸術どころか学の“が”の字も無いんだけど、それは?


 前途はあまりに多難であった。

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