エディ・ラナウェイの創作論

よるめく

プロローグ

 一枚めくって 二度読み返し


 水茎みずぐきつづって 終夜よもすがら


―――――――――――――――


 汚泥に塗れたエディの人生。それを一変させたのは、ただ一枚の紙切れだった。


 その紙は、“入学証書”という。


 ぼんやりと読んで顔を上げると、青いビロードで編まれた礼服があった。


 さらに視線を上に移せば、恐ろしく高い位置に白い毛むくじゃらの獅子の顔。


 偉人像のように大きな獣人の男は、エディを見下ろして何故か得意げな表情をしていた。


「そうだ。君は今日、ここで、我がグラインランス芸術学院に入学する資格を得たのだ」


「……なんで?」


 エディは半笑いで聞き返した。


 今日ここで、と獅子は言う。だがここは、特別な場所でも何でもない。薄汚い路地裏だ。


 痩せこけた体に服ですらないないボロを纏い、乱れた髪のエディと違って、獅子は立派な服を着ている。体格もよく、健康そうで、しかもいい匂いまで漂わせていた。明らかに場違いなのは、獅子の方なのだ。


 獅子は暗がりの奥を指差した。行き止まりには、ひっくり返ったゴミバケツ。鼻を鳴らすネズミたち。そして、大量の本が詰まれている。


「あれが理由だ。読めるのだろう?」


「読めるけど……」


「なら、充分だ」


 なんだかよくわからないことを言って、獅子はエディの体をまたぐ。


 蹴られるのかと身を縮めたが、そんなことはなかった。


 獅子はびくついたエディを差し置き、路地裏を出る。陽光に照らされた入口から顔をのぞかせ、彼は言った。


「一冊だ。君のコレクションから、本を一冊だけ選んで持ってきなさい。もちろん、後生大事に持っているペンも忘れずにな」


 エディはギクッとして、ボロの下の胸に左手を押し当てた。


 右手には入学証書。ずっと隠していた左手には、浮浪児には似つかわしくない、ぴかぴかの万年筆が握られている。


 裸足で後ずさったエディに、獅子は“ここで待つ”とだけ告げた。


 エディは信じられない気持ちで立ち尽くす。


 物心ついた時にはひとりきり。虫やネズミにかじられそうになりながら、盗みを働き生きてきた。


 これからもずっと、そうなのだろうと思っていた。自分は孤独に、誰にも顧みられることなく死ぬのだと。だが……。


 エディは入学証書を改めて見下ろす。触り心地の良い紙質に、金の装飾が描かれている。大きく、堂々と、力強く描かれた字は、まさしくあの巨漢に相応しい印象があった。


 明るい路地と、暗いねぐらへ交互に視線をやる。ゴミ箱は雨風を凌ぐためのもの。孤独を埋めてもらっていながら、守ることの出来ない本は、見る影もないほどボロボロだった。


 エディは迷った。ためらって、ぺたりとねぐらの方へ歩き出す。


 獅子の男は路地裏のすぐ近くに止めた四頭立ての馬車の中で、日が暮れるまで少女を待つ。焦れた御者が促しても、彼は待った。


 やがて、馬車の扉が叩かれる。獅子は扉を開いた。薄汚い浮浪児が、汚い本と入学証書を胸に抱えて立っていた。


「来るのかね?」


 エディは頷く。獅子は少女を馬車に招くと、御者に合図を出した。


 獅子の正面にエディが座る。後部の窓からねぐらの路地が遠のいていくのが見える。


 ふたりはしばらく黙っていたが、やがてエディが口を開いた。


「あの本……」


「置いてきた本が気になるか? 気にするな。君が手に入るような本なら、この国にいくつも流通している」


「……そっか」


「なに、罪悪感を抱える必要はない。君は、君が置いてきた本以上の芸術を、君自身の手で創るのだから」


 預言者のように、断言された。


 エディは獅子の表情から何かを読み取ろうとしたが、満ち溢れた自信以外、何も感じられなかった。


 これこそが、エディの人生、その書き出しだ。


 彼女が綴る短い生の、ほんの僅かなプロローグ。

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