第二百十三幕 奈落
ここは、箱舟連合の投資銀行。
デットベースマネタリーシステムズ、最上階の巨大な屑の一文字が書かれた額縁の前で邪悪な長老が薄ら笑いを浮かべていた。
「思ったより粘るのぉ…、いや、実に結構」
様々なデータを画面上に並べ、腕を組み紅のワインを口にした。
「物価上昇を抑えるために、利上げをする。当然じゃな、中央が金を絞れば当然現実経済の物価上昇は鈍化する」
しかし、やり過ぎれば債権の価値を下げる事になる。
当然じゃな、債券とはすなわち金を貸して取り立てる権利に他ならぬ。
「金を貸して、現金が戻って来るまでに時間がかかる。そしてその間、金庫に現金は入っておらんのじゃから」
資本主義において、債券を発行する時に担保を取る。
「とりっぱぐれない為の保険だが、それが悪さするわけじゃ。借金が返せなければ担保を取るが取った担保が債権以下なら戻ってくるときにはマイナスじゃからな。これを、含み損と言ったりする訳じゃ」
乃ち、債権とは現金化するその日まで待てる体力。この場合は現金じゃな、それが必要になる。
銀行は客から預かった金を貸す以上、客の引き出しに応じなければならぬ。
「応じないとなれば、金が無いと露呈する様なものじゃからな。そうすれば、大口程自分の金が惜しくて逃げだすわい。そうすれば、更に現金が減り今度は自分達の給料すら怪しくなってくる」
銀行は安心を売りにしておる、すなわち「信用」じゃな。
客の信用を失えば、末路は悲惨じゃ。
じゃからこそ、口座に一定以上入れておる人間は等しく客であり。
その額こそ、銀行によって異なるがその額以上入ってない口座の持ち主など客ですらない訳じゃ。
あくまでサービス、もしかしたら自分達にその一定以上の額を預けて貰えるかもしれんという期待。
来たるべきその日まで、ただサービスを使わせておるだけじゃ。
信用等というものは今日明日で培えるものではないからの、積み上げ重ね合わせていくのじゃよ。サービスによってな…、サービスの悪い場所に預けようと思わぬからの。
会社でもそうだが、現金がなければ首が回らなくなる。
債権を損してでも売って現金を作らねばならなくなるが、その債権を誰が買う?
正しく取り立てる権利であるそれは、借りた相手も自分達も潰れてしまえば意味がない。
「我らが神の様に、己の資産だけで全ての口座を百パーセント保証し。さらに、回収しうるかどうか判るから遠慮なく債権を買いあされるならともかく。そしてワシらの様に、その神に債権をぶん投げればいつ何時でも買ってくれるという保険付きでなければ」
(保障としては最強じゃ、担保すら彼女が許せば取らんでええ)
普通は怖くてそんな危ない橋を渡れん、ワシだって無理じゃそんなもん。
腹だし大の字で、鼻ちょうちんを膨らましながらアホ面さらしてはいるがあんな姿がワシらが崇める邪神な訳なかろうが。
普段のゲームセンターの自販機に顔を押し付け、地面を一体化し汚い十コイン硬貨を手に掲げニコニコと笑う幼女を思い浮かべた。
そして、一つ溜息をつきながら。
(我らが崇め奉るのは、世界で一番邪悪なエノ様じゃて)
「しかし、就職率が落ちてませんね」
部下の一人の呟きが、会議室に響く。
「そう、それじゃな。就職率が落ちてないと言う事は、皆働いておると言う事。男も女も関係なく働いて、賢明に抗っておるわけじゃ」
(仕事があり、雇う会社がありさえすれば経済は中々死なん)
しかしの、普段なら良い事であるそれも視点を変えると必ずしもいいとはいえない。
「欲しがるものが金を持っていれば、物価の上昇は止まらん。止まらなければ、利上げを続けるしかない。そして、利上げを続ければ。特別顧問の息がかかっている所以外は潰れるじゃろうな、我らとて例外ではない」
今回は、クリスタが陣頭指揮をとりその就職率をあげておるのか。
自殺者を出さない為に、箱舟以外の人間を守る為に。
労働市場というのは、賃金平均、雇用、求人数等という数値で大まかに見る事が出来る。
例えリストラされても、次の就職先があれば大丈夫だと言えるな。
それは、善良じゃが悪手じゃぞ。
雇用というのは席で、席はいい席からうまるもんじゃ。
いつか、席はなくなり用意出来なくなってまだリストラが続いてれば無残にも求人数が下落していく。これらは遅行型の数字なんじゃ、今良くても未来は危うい。
だから、何処かで中央は利上げを止めるしかない。
それが潰れまくる前か、後かそれは中央と我らが神位しか判らん。
「今は、他の市場に流れておる。他の国の市場でも、こっちの騒動に引っ張られている所は判断が難しくなっておる」
幾ら利上げをしても、幾ら利下げをしても。
貿易がある限り、世界経済に引っ張られる。
世界の需要に引っ張られて、その引力が利上げの上昇を潰したり。
またその逆に、利下げの下降を越えて利上げまがいの押上げをはじめたりする訳じゃ。
経済とは、人の思惑に他ならぬ。
そんなものは、事実として見える事はあっても読む事は不可能に近い。
その全てをリアルタイムで見て判断しながら操縦し己の望んだ全てを手に入れ、さらにその判断を誤らず勝ち続けるなど神でも危ういわ。
仕掛けるならば、中央が折れて利上げを止めた時じゃな。
「歴史は語っておるよ、デフォルトという名の破産は銀行の貸し出し基準を高め続けそれでも耐えきれなくなった時にやってくる」
インフレ分から賃金を抜いたものがマイナスになっていれば、それは需要そのものの収縮。そりゃそうじゃ、欲しくても買えないんじゃから。
大小は関係ない、判断を誤ればそれだけで簡単に潰れる。
確かに国債は安全じゃ、国が潰れなければまず返ってくる。
「ただし、その国債を現金化できるのは額面に書かれた年数の後。それまで、自分達が生きのびなければただの紙切れでしかない」
ましてや、十年国債の利回りが二年国債を下回る等は論外だ。
十年待つより、二年待つ方が利益になるというのならだれが十年も待ちたいものか。
他にも土地を担保に取ったとしよう、土地の価値は変動する訳じゃな。
駅が近くなれば、価値は上がり。建物が古くなれば、価値は下がる。
誰もがそこに住みたいと思えば価値は上がり、誰も使わないいらないものに値段なんかつかんわい。
乃ち、不動産の担保というのはその借金の満額より下回った時点で赤字が確定するわけじゃ。
光の速さで値段が落ちていく、誰も買えない程貧乏になり誰も欲しくない用途にしか使えないのなら猶更じゃ。
この世の中に、債券や先物等は山ほどあるが結局経済とは欲しいと欲しくないの世界じゃ。
基軸通貨は何故強いのか、答えはみんなが欲しがるからじゃ。
欲しがるものを持っていればコントロールは容易いが、欲しく無いと言われた時にそれをもってたらそれはただの残骸で在庫の山。
有利だったはずのものが、ただのじぶんを潰す為の重りに早変わりという訳じゃな。
小難しい理屈を並べ、分析を死ぬほどやり、情報を数多集めまくって脳みそが焼き切れる程努力を重ねたとしても。
(我らの神以外にそんな真似が出来てたまるか)
表示される数字はただの事実であり、パニックや深層心理。各人の思惑に、今どのタイミングで値段が変わるかなど。
「判りようがない」その、一言に尽きる。
じゃが、見比べると見えてくるものもある。
乃ち傾向じゃ、事実を並べたグラフがあるのなら比べてみればいいのじゃよ。
幾らAIが発達したとしても、幾ら値段が乱高下したとしても。
よくよく見れば、歴史は規模こそ違えど繰り返しておる。
眼を凝らしてみれば、何の思惑も挟まず。じっとその事実を見てみれば、驚くほど繰り返しておるのじゃよ。
(そこに参加するモノは欲深い、なら当然心理もタイムスパンも似通ってくる)
「後は、欲を出さないかどうか。その、しかるべきタイミングまで待てるかどうか。そして、その判断を信じ切れるかどうか」
どんな事を言っても、どんな事をやっても。
多少負けが続いても、多少勝ち越しても。
調子にのらず、天狗にならず。
どの様な雑音にも、心を動かされる事無く。
ただ、待てるかどうか。
機械の方が強いのは道理じゃ、機械は愚直にルールを守る。
人の方が、容易くルールを破るのじゃから。
「何故、七十パーセント以上の人間か勝てないか知れたこと。まてんからじゃよ、その瞬間を待てずに欲を出す。それを、続ける事が難しい。そして、負ければ取り返そうとして余計に待てずドツボにハマる訳じゃ」
真のスナイパーは食わずにただ息を潜め、その場と一体化し。
出すものは全て垂れ流しで、その不快感にすら眉一つ動かさずただその時を待ち。
一撃で狩る、何の喜びも怒りも悲しみも無くの。
スナイパーはバレなくとも、発砲したその瞬間からバレたら絨毯爆撃を浴びるのじゃから当然じゃ。
そして、殺したのち走るのではなくゆっくりとナメクジの様な速度で遠ざかる。
その域に到達できうる人間が少ないからこそ、その域に無いものはただ運がいいだけの獲物に過ぎん。
金をかけずに、ただ分析を繰り返してただ待つと言う事が出来んのじゃ。
金持ちが強いのは、資金があるからというよりも資金があるからこそ待てる時間が長い。知識と自制の無い金持ちなど存在せん、存在していればただのカモじゃ。
要するに、人の思惑で振り落とされたのちに動かしても待てる時間が長いから何の支障もない。
待てる人間は年単位で待てるが、焦り失う人間は僅かな時間も耐えられない。
そこで振り落とされた人間は、ただでさえ少ない資金を搾り取られて養分になり労働市場に戻っていくわけじゃな。
「失意と失望を抱えて、待てない己が悪いというのに養分にした連中を恨むわけじゃ。首を吊るやもしれんし、壊れるかもしれんがな」
だからこそ、本当に勝っているプレイヤーは経営者の様に派手にはふるまってなどいない。
本当に勝っているプレイヤーは真実を喋ったりはしないし、勝てる手法があったとしても余程の変人でなくば赤の他人に話したりはしない。
「おにぎりをかじり、蕎麦を食べ。億単位のもうけを出しながら、明日は死ぬかもと怯えながら節約し。待てる時間を、増やす事に邁進しておる。時にはスーパーの袋麺を小分けにして具なしで食べておることも珍しくない」
ティッシュを濡らして口にして、コスパが良いなどという壊れ方をしていなければ到底己に耐えきれん。
そして、その心を普通の人間が持てる事は少ない。
勤め人よりも、遥かに慎重に生きのびる事を重視しておる。
何故なら、派手に使う事がどれだけ自分の首を絞めるかしっているからじゃよ。
そこで、一つ老人は眼を閉じる。
杖に顎をつけ、不敵に邪悪な笑いを浮かべた。
「手を突き上げ、虚無を歩き。手探りで重油の中を歩く、その覚悟無きものに神はその言葉すらかけては下さらぬよ」
この世の誰も、彼女は愛して下さらないのだからな。
(ただ、そうさな…)
彼女は、一生懸命生きようとするものには微笑みかけては下さるだろうが。
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