第百七十六幕 暗い部屋の片隅

「相変わらず、首座は心配性だな」


そっと、幼女姿のエノは部屋の片隅で膝を抱え。


その様子は何処か、達観していた。


「怯える位なら、向かって来ぬだけで良いと言うのに。そうは思わぬか?」


その言葉に二つの、エノの魔眼が反応する。


「人は絶望を貪る様に、罪も構わぬと気に入らぬものを攻め。そして、その先に待つ破滅を恐れず崖から飛ぶもの」


一つは、エクリプス。

もう一つは、アジフ。


「ほう、エクリプスが私に意見があるのか」

エノの魔眼は十三、その内三つが主格のもの。


両肩の十の魔眼はそれぞれ一つづつ補佐の役割を持つ、いわゆる連動コアの類。


スァティーンコアCPUの主格を三コアが担う、それにより一つのコアにつき一つの権能を持つに至っている。


エクリプスとは、デメリットを殺す「死神」を司る魔眼。


「はい、主格」


漆黒の貴族服に、金のライン。所々に紅で曼殊沙華が刺繍された男性が目の前で一礼した。


但し、声が男性なだけでエクリプスは骸骨なのだが。

全ては、自分自身の力が馬鹿でかくてそういう存在だと定義しなければ小さくするのにも不便だと言う事。


独り言だと以前言ったのは、眼の前にいるこの骸骨さえ自身の力の残照に過ぎない。


「黒貌様が、今日の日替わり定食はすき焼きにすると申しておりました。そろそろ行かなければ」


瞬間眼が点になる、そして二秒。


右手をノの形に、左手を駆け足の様に水平に腕を曲げたポーズになる。


「まずいまずいまずいまずいまずい」


その様子をみた、アジフが瞬時に引っ込み。

エクリプスも、一礼して優雅に消えた。


爆発的加速力で最下層から一気に走り出す、ここで思い出してほしいが彼女は転移等余裕で出来る。


だが、それを忘れ走り出してしまった。


「ファイヤー!ファイヤーっ!」


階段途中でぜーぜーはーはー言いながら、百万階層以上ある箱舟の非常用連絡階段を走って昇っていく。


「大ピンチっ!」


だが、少しは考えても見て欲しい。


そして、途中で気が付く。


「ノーン、財布忘れたぁ!!」



疲れとヤバさで両膝をついて項垂れるが、直ぐに転移で戻ってがま口のいつもの財布を乱暴にポケットに突っ込む。


「よし、行くぞっ!」


そして、また最下層から走り出す。


さっき戻るのに転移したのをすっかり忘れ、素晴らしい忘却力で頭からすっ飛んでまた走り出す。


否、慌てすぎて考える事すら忘れ走り出してしまった。

頭の中で、紫の着物にシニョンの様に頭の両サイドに紫のリボンをした少女の声が響く。


「あのぉ、主格」


顔を必死の形相にして、今なら顔面だけで人が殺せそうな程の顔で自分の副コアに怒鳴る。


「何だ、煩いぞ」


走りながら、口と鼻と顔中から水を垂れ流しながらみっともなく叫ぶ。


「転移で行った方が楽で速いと思うのですが、差し出がましい事を」


副核がそれを言いかけて、再びエノが両膝をついて項垂れた。


「もっと早く言えよぉぉぉぉ!」


既に、自分の足で五十万階層以上昇ってしまったあとでそれを言われしかも財布を忘れて二回目の為余計に精神的なダメージが大きかった。


エノは神としては三指に入る程位が高く、実力としても上の上だがエタナの姿の時はぽんこつである。


自分の副核にまで突っ込まれ、顔中が水だらけなので当然顔から突っ込んで床と顔がぐっちゃぐちゃになる。

当然の様に潤いは足りているが、それに汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま地面にスピードそのままで突っ込めばそれは悲惨な事に。


それを、乱暴に貫頭衣の裾でごしごしと吹く。


「もともと、薄汚れたデザインのこれは便利だなっ!!」


尻のアップリケでクズとカタカナの刺繍が入っているカボチャパンツが見えた。

特に気にする事もなく、証拠隠滅と叫んで転移。


それを、ダストは溜息をつきながら無言できちんと掃除していくのだが読者しかしらなくていい事だ。


がらがらと引き戸をあけると、たのもぉ~と叫ぶ。


「あぁ、いらっしゃい。もうそろそろ、来る頃だと思ってましたよ」


そういって、にこやかにおしぼりとお冷をカウンター席のエタナがいつもすわる場所に置いた。


「今日は、日替わりのお一人様用のすき焼きを頼む」


黒貌はお金を受け取ってうなづくと、眼の前にまずコンロを置いた。


次に清潔で年季の入った黒い土鍋を、そのコンロの上に置き。


ゆっくりと準備を始めて、その時を待つ。

基本、飲食店が流行る場合いくつかある。


チェーン店がしのぎを削っている昨今、値段で勝てるわけはない。

だが、個人店には個人店の良さがあり。コスパ以外のものを求めていくと存外穴場というのは存在する。


だが、悲しいかな。余計な事を言って広めるバカが一定数居る以上、穴場が穴場であり続けるには店側や客側が涙ぐましい努力をしている場合が殆どだったりする。


思い出があり、味わいがあり。

そして、店主の人柄もあり。


お皿には、割られていない卵がそっと差し出される。


「食べる直前で、割ってお使いください」


ニコニコ顔で、何度もぶんぶんと風切り音を立てながら首を縦に振る。

その間に手早く、野菜と肉を準備し。そして形よく、景気よく美しく鍋を飾る。


エタナはそれを、いつも左右に揺れながら待つ。



「野菜は少な目でいいぞ」

とエタナが言えば、黒貌はいいえと首をふる。


「こういうのは、バランスが大事なのです。栄養も、見た目もね」


偏ったものは、俺は恥ずかしくておだしできませんよと笑う。


「なら仕方ない、時間はかかっても構わないから綺麗に盛り付けてくれよ」


といえば黒貌は優しく微笑みながら頷く。


それが、いつものやり取りで。

それが、何処までも普通で。


「やはり、肉の日はすき焼きだな」


かつて、水だけだった食事。

靴磨きの老人にも嘘をついて、水だけを貰っていたあの頃。


「皆と、同じことをする必要はない。私は、人ではないのだから」

見えないものに手を伸ばし、掴めないものに手を伸ばす。


どれ程の想いを、どれだけの願いを。

正しくなんて、なりたくない。


ただ、今は……。


「確かにステーキもいいし、焼肉もいい。味噌汁もあれば、豚汁だってある。角煮も粗煮も、今は何でもある。でも、私はお前に食べさせてもらうならやっぱりすき焼きだ」


好きな相手に世話を焼いてもらいながら食べるすき焼きが、何処までも楽しい。


力をどれだけ加減しても、一枚の肉がとれなくて。

まるで、箸で肉を持ち上げれば掃除道具のハタキの様に。


「何処までも、不便だ。そうだろ、アクシス。そうだろ?ヴァレリアス」


それでも、何も言わずただ優しく微笑んで食事を出してくれる。


「私に、何かを言いに来る。そんな、連中は山ほどいる」


しかし、しかしな。


「ただ、黙って微笑み。余計な事を言われない喜びというのは、私にはこれ以上ない贅沢だ」


誰にだって、神にだって。

いい事も悪い事も、永遠に続く事なんて存在しない。


「そう望んでいるのが、何を隠そう永遠の存在などというのは」


ハタキの様に持った、肉や野菜を卵につけては一生懸命食べる。


「〆はどうします?ご飯か、うどんか。それとも、他にご希望がございますか」


ふいに、エタナが顔をあげたら黒貌が訪ねていた。

その瞬間に、眼と眼が合う。


そう、必要な事だけを伝え。

大切な事だけを、尋ねられる。


そして、ふっとお互いに笑う。

「ライスだ、それ以外あるまい。私がここに来て、お前に頼むのは」


無粋でしたねと、微笑みながら樹のしゃもじでライスをよそう。


産地の偽装など決してない、正真正銘の銀シャリ。


箱舟農場フロア産の白い米、それを笑顔で受け取った。

そのしゃもじも昔、削って磨いて渡したものだ。

自分の枝を、けして壊れる事の無いものを。


「それ、まだ使ってくれているのか」


黒貌は笑って、頷くと。


「えぇ、これ凄いですね。頑丈で清潔で、何の樹か判りませんが。これをどうやって削ったのか尋ねても?」


人差し指を口の前に持ってくると、いたずらっ子の様に笑う。


「大切にしてくれてありがとう、だがそれは答えられんな」


万物を見通せる眼をもって、万象を聞く事が出来る耳を持って。

思いのままにする両手があって、凄まじい権能があったとしても。


「すき焼き一つ食べるのに、難儀する。それが、私の真実さ」

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