第三十二幕 始まりの靴
黒貌は腕輪を見つめ、願う。
主に、問い乞う。
「私の靴を、磨いて頂きたい。その値を」
腕輪から返答が即時に返ってくる、それは透明なガラスの様な画面に映し出された。
「梅コース二百ポイント、竹コース三千ポイント、松コース四万ポイント」
黒貌は、迷わず松コースを選択する。
黒貌の前に、野球帽と茶色いおっさん腹巻をしたエタナがまるで酔っ払いの土産もののように箱をぶら下げ薪でも背負ってるかのような荷物を持って現れた。
即座に黒貌はその場で跪いて、自身の靴を両手で差し出した。
「お前は、相変わらず変わらんな」
優しい笑顔で、それを受け取る。
荷物をゆっくりとおろし、まるで時計屋が使う拡大鏡を左目にはめ靴の隅々をチェック。
丁寧に、丁寧に……。
左の靴から、紐をほどかれ皮の状態や靴底の状態をチェックしては紙に羅列していく。
右の靴を手に取って、左の靴同様にチェックをしては同じように紙に書きだしていく。
紐の一本、皮の穴一つ一つ、靴底の溝一本に至るまでチェック項目に応じて補修、手入れをゆったりと行う。
紐を構成する糸一本の繊維の単位でチェックを入れ、必要があれば洗浄や編み直しまでを行いながらエタナはまるで姿が幼女なのにくたびれた老人の様な表情で黒貌を見つめた。
「お前の靴は、丁寧に使われているな。道具から喜びの声が聞こえるぞ、この程度の補修であれば竹でも良かったはずだがな」
手を止めず、意識はしっかりと靴に向けながら。
「昔はセールスマンでしたから、スーツと革靴を丁寧に使う事は最低限にございますよ」
黒貌も優しく微笑みながら、背筋を正して答える。
「自動化する事や効率化する事は、ある意味では正しい。しかし、不便な手作業で無ければ出来ない技術というのは確かにあるのだ。元来道具というのは力持たぬもの達の為のもので、技があれば更に道具は輝くというだけに過ぎん」
エタナは、様々な粗さの布を変えその靴の面に対して最適な角度と力加減で磨いていく。
補修の後に、磨かれワックスをかけられた革靴は顔が映りこむ程度に輝きこれが新品であってもこんな仕上がりには到底なりえない領域に完成された状態で左の靴を置いた。
エタナは、まだ紐を通していない左の靴を持ってきた箱の上に置きながら答えた。
そして、右の靴も同じようにチェックした場所から新品よりも素晴らしい出来栄えに頼んだ黒貌ですらその出来栄えを見る度思うのだ。
(やはり、貴女に頼んで良かった)
エタナは力無き神だった頃は、こうして路上で靴を磨き内職をしあらゆる知識を貪欲に学んでいた。
それでも人並み以下にしかならなかった、それでも今出来る限界まで誠実に対応してきた。
力無き頃は、それで頼りにならないと陰口を叩かれ。
役に立たないとなじられ、口さがない事を言われ。
言葉を発する度に疑われ、それでも永遠の日々を生きていた。
神は死ねないのだ、どんな力無き神であろうとも。
存在値がゼロにならなければ死ねない、消えない。
存在値は奇跡を起こさなければ、減らないのだ。
だから、日々を生きる事が辛くて逃げる様に学んだ。
貪欲になんでも出来るようになろうとした、なんでも出来れば誰かが望んでくれれば。
エタナは消える事が出来ると信じて、無情にも力無き彼女に何かを望んだものはたった三体しかいなかったが。
彼女に望んだ、男の名は黒貌。
始まりの一人、彼は路上で靴を磨いているエタナに初めて靴を磨く事を望んだ。
エタナが位階神になって、全知全能となっても尚彼は彼女のその手で磨いてもらう事を望んだ。
奇跡でも、術でもなく。
その手で、あの頃と同じように磨いてもらう事を望んだ。
今のエノは、意識を向ければ如何なる難題をも容易に叶える事ができる。
あらゆるもの達に望まれ、あらゆるもの達の願いを聞く事が出来る。
でも、彼女は余りに長く誰にも望まれなかったから。
最初の三体以外の願いを聞く気にはもうなれなかったし、怒りと不愉快な気持ちでいっぱいだった。
黒貌の靴を台に置いて、ワックスの馴染みやブラシ掛けのムラをチェックしては完璧になっている事を確認する。
乾燥を一瞬で終わらせる事も、指を鳴らすだけで結果を引き出す事も叶う様になった今でも。
彼女は、彼が望んだ松コースの通りに全て肉眼と手で磨き。自然乾燥の湿度や温度を読み切り一切の妥協なく仕上げた。
「黒貌、松コースの仕上がりの確認をしてもらう」
箱の上にのせ、靴を黒貌は眼をこらして確認をした。
「間違いございません、あの時と同じ今の貴女が叶う完璧な仕上がりです」
黒貌は、思う。
やはり、エノ様に頼むに限る。彼女より、完璧な仕事をする職人は居るだろう。彼女よりも早く仕事をする職人もいるだろう。
だが、彼女は今現在彼女に出来るめいっぱいの仕上がりを約束してくれるのだ。
黒貌は、ずっと思っている。
エタナ様の手で磨いてもらう事に意味がある、何故ならエタナ様程私の事を思い私の道具を理解し十全にやってくれるものは居ない。
乃ち、黒貌という客はエタナの仕事を信頼しているのだ。
エタナを幾ら好きであっても、黒貌にとってスーツと革靴はいわば命の次に大事な道具だ。
そこに、妥協などある筈がない。だから、信頼できなければ任せる事すらできない。
力無き神に望むのは、仕事ではない。
力無き神に男が望んだのは、信頼なのだ。
(だから、黒貌はこれまでもこれからも欲し続ける)
「黒貌、この内容で松コースは貰いすぎだ。よって、その差分でサービスをしてやろう。この望みは、権能を使わずに見るとなると自ら手に取るまで状態が判らないのだから仕方ない面はあるのだがな」
スーツの上着を、よこせ。
そのネクタイと、胸のハンカチもな。
そして、スーツもさっきの靴と同様に繊維の一本に至るまで空中でスキャンしてチェックをいれる。
今回は、サービスなので権能を使用してスキャンした内容は直ぐに脳内に反映されそれを修復していく。
そして、ノリもアイロンも折り目も完璧な状態にした後。
黒貌に着せ、ハンカチをトライアングラーに刺して演出した。
「ふむ、こんなものか……。」
エタナは、持ってきた道具を片付け始める。
権能を使えば道具など要らない、意識を向けただけで結果は得られるのだ。
黒貌はそれを望まないだろうが、だからサービスでしか権能を使わなかったのだが。
ここは、怠惰の箱舟。
望みをポイントで叶える場所だ、だから望まれもしないものは決して叶えたとは言わない。
「なぁ黒貌、お前は何も望まないな」
黒貌は、まるで孫を見る様な表情で答えた。
「はい、私の望みはいつでもいつまでも権利だけですよ。権能を使わないで、貴女の手で出会ったあの時のまま今現在できる最高の状態のメンテナンスをと望めばそれすら叶えて下さる。私は、何も望んで無い訳ではない。最高の力を持つ貴女に、手作業をさせているのですから。これ以上無い位、傲慢で我儘だと考えます」
黒貌とエタナの視線があう、ほんの一瞬だが。
「そうか、私は値段を決めその努力に報酬を払い如何なるものでも私が売れるものなら棚には並べてやろう。それが傲慢だろうが、我儘だろうが不可能な事であろうがだ。お前は手作業をさせたいという願いをポイントで叶えたそれだけでしかない」
「はい、ですから頑張って働かねば。私は欲しい権利が多すぎる、あの勇者と何も変わりませんよ」
視線を合わせたまま、お互いの意思を確認し合う。
「きちんと、休みを取り十全な気力で行うのなら私は頑張れとしか言えないな」
エタナは苦笑いを浮かべながら、先日の失敗を思い出していた。
権能を使わなければ、力を行使しなければやはりエタナはあの頃と大差ない。
「はい、頑張って買わせて頂きますよ。俺は、おっと言葉が昔に……」
会話をしている間に靴の飾り紐を取り付けていく、それは最初に手渡された状態に戻す作業。
「働きたい時には無力で、働きたくない時には万能で。望まれたい時には陰口を叩かれ、意識を向けられるだけでうっとうしいと思う頃には誰からも望まれる私にはお前らの気持ちは永遠に判らん。だがな、黒貌」
そこで言葉を区切り、真剣な眼差しで黒貌に顔を向ける。
「お前らが眷属で良かった、お前達が箱舟を望んでくれて良かった。お前らが折れずに努力し、お前らが生きる事を喜んでくれる事は私自身が初めて叶える事に喜べる内容だ」
黒貌は、一つ頷く。
「万能である貴女には永遠に判らないでしょうが、私の様ないっぱんぴーぽーは。どこまでも欲深く望みをもち怨嗟の声を押し殺しながら、それでも毎日を必死に生きてるものですよ。どのようなものであれ、その生を支えるものは希望です」
(黒貌は、思うのだ。神も人も何も変わりはしない、希望を持って生きると)
「貴女の希望も私の希望も、希望があるから生きる事が楽しい。生きる事に喜びがある、希望無き生などあっても存在しているだけの空気と同じです」
黒貌はふと、何かを思い出す様に宙に視線を一瞬だけ向けた。
「貴女は言ったではありませんか、適切な報酬こそが原動力だと。それは商品や値段だけではありません、心も保証も報酬が釣り合わないから不満がたまるのです。貴女は納得できる評価と報酬を用意して下さる。それが出来ているからこそ、少なくとも私は希望を持つ事ができる。次も、買うぞと希望を胸に生きられる」
黒貌は出会った頃からずっと、今までエタナが報酬を踏み倒した事が無いのを知っている。だからこそ、彼は明日も明後日もと希望を持つことが出来た。
「そうか、では黒貌。私から、お前に注文を出そう。ワラビ餅を黒蜜で、頼めるか……。」
黒貌は営業スマイルを浮かべる、そしてこういうのだ。
「毎度ありがとうございます、ワラビ餅三百と出前賃四百で七百ポイントになります」
即座にポイントが腕輪に振り込まれる、それを黒貌は確認した。
「出前賃の方が、高いとは。まぁいい、一括先払いだ」
エタナは持ってきた荷物を、背中と右わきに抱えると背を向けた。
そして、黒貌に背を向けたままこうぽつりと言った。
「私にとっての希望は、お前らだ」
黒貌もその背中を見ながらこうぽつりと言った、その顔は営業スマイルなどではなく。疲れた老人の様な、そんな表情をしていた。
まぁ実際に、彼は老人そのものなのだが。
「俺にとっての希望は、貴女ですよ。貴女は努力さえすれば何でも叶う事を保証してくれる。俺みたいなセールスマンやってると飛び込みで弾かれて、現場から喚かれて外をかけずりまわっても商品が魅力的であっても信頼で負けたりと結果に繋がらないで病んでいく」
黒貌がエタナにあったのは、路上で靴を磨いてもらった時。
彼女が神だなんて思わなかった、泥がついたからそれを拭いてもらえればそれで良かった。
ほんの軽い気持ちで頼んだ、こんな長い付きあいになるなんて思わなかった。
でも、時々思う事はある。
「もっと、頼んで下さいよ。俺は、欲しい権利が沢山あるんですよ」
その、笑顔と呟きは宙へ消えた。
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