第18話

 


「セリーヌ、ほんとに大丈夫カ? 医務室行くカ?」


 とうとう足に力が入らなくなって、ついその場にしゃがみ込んでしまった私の背中を、メイリンは優しく撫でてくれていた。

 どうしようもないくらいの恐怖、無力感、そして、後悔の念が、洪水のように押し寄せてくる。

 もう、なにも感じなくなっていたはずなのに、どうして?


 呼吸が上手くできない。息が、苦しい。


 なぜこうなったのかも、わからない。だけど彼女には、メイリンにだけは悟られたくなかった。こんな、こんなにもぐちゃぐちゃな私を。


「ご、めんね……、わたし、人に、酔っちゃった、みたい」

「あヤー、ココ、人多いもんネ……、ヨシ、ボクに任せテ!」


 無理矢理作った笑顔はとても歪だったはずなのに、メイリンは気にせず心配そうに私を見たあと、自信たっぷりにそう言って、すうっと息を吸い込んだ。


「センセーイ! 大変ヨ! 体調不良者!」

「なんだって!? 大丈夫か?」


 メイリンの大声での呼びかけで、二人の先生がこちらに来てくれたらしい。だんだんと視界がぼやけてきたせいでよく見えない。きっと私は今、息苦しさに泣いてしまっているのだろう。呼吸さえままならなくて、表情を作ることも上手く出来ているのかすら分からなかった。


「この子! 人混み慣れてなくテ、気分悪くなったッテ!」

「あぁ、なるほど。……もしかすると、人の“気”に当てられちまったのかもしれんな」

「たまに敏感な子が居ますからね」


 慌てたような先生たちの言葉は、私にはあまり意味が分からなかった。“気”ってなんだろう。学園では授業を本格的に受け始める前に辞めてしまったから、私には分からないことばかりだ。


「この学園、ただでさえ凄ぇのばっかり集まってるからな。しゃあねえか」

「そうですね、じゃあアルベルト先生、お願い出来ますか?」

「わかった。あとは頼む。……あぁ、可哀想に、真っ青になっちまって。動けそうか?」


 そっと肩に手を添えられて、優しく問いかけられた。父とはまったく違う、落ち着くような声だった。先生の内のひとりだというのは分かる。

 だけど、無くなってしまったはずの感覚が恐怖を呼び起こした。


 なにがこんなに恐ろしいのか分からない。なのに、恐怖が消えてくれない。


「すみ、ません……! ごめ……なさ……」

「…………なるほど」

「……え?」


 口からひとりでに謝罪の言葉がこぼれ出たその時、先生が小さくつぶやいた。なんだかよくわからないまま、背中をぽん、ぽんと一定のリズムで、そっと労るように優しく叩かれた。


「大丈夫だから、安心していい」


 優しい声と、優しく背中を叩く大きくて暖かい手に、少しずつ呼吸が安定していく。頭の中は混乱しているのに、なぜこの人は私に優しくするのだろう、という考えなくてもいい疑問が、意味もなくよぎっては消えていく。だめだ、今は息を、息をしなくては。


「ゆっくり呼吸するんだ」


 吸って、吐いて。優しく背中を叩かれるそのタイミングでゆっくり繰り返すと、崩れていた呼吸のリズムが整っていく。この人の優しい声が、行動が、感情の波を鎮めていった。


「そうだ。それでいい」


 そのおかげでか、どうしようもなかった息苦しさがだんだんと消えていって、ようやく少し楽な状態になってきた。……だけど体の内で渦巻く、胃の中の物が全て出て行ってしまいそうなほどの気分の悪さは変わらないようだった。これはいったい、なんなんだろう。


「……センセー、セリーヌ、なにがあったヨ?」

「ン。お前は気にせず教室に行け。この子は俺が見とく」

「……ウン……、セリーヌ、またネ」


 口を開けば嘔吐してしまいそうで、心配そうにこちらを窺うメイリンに声をかけることさえも出来そうになかった。力の入らない手で、小さく手を振ることが精いっぱいだ。


「ね〜せんせ〜、その子ど〜したの〜?」

「具合が悪くなったんだ。ほら、お前らも教室に行けー」

「はあ〜い!」


 元気な新入生に声をかけられても、吐き気のせいで何か言葉を返す気力もない。

 本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。

 あの、綺麗な男の子のせいなんだとは思いたくなかった。だって、そうしてしまうと私は、全てをなにかのせいにして諦めていたあの頃の私と大差が無いように思えてしまうのだ。


 これもきっとなにかが間違っているんだろう。だけど、今はそうとしか思えなかった。


 考え事をしている間に、ふと気付いたときには誰もいなくなっていて、ここには先生と私だけが残されていた。

 がらんとした講堂が、どこか寒々しく見える。


「……なにがそうさせたかは知らん。だが、この学園にお前を害す者は居ない」


 ぽつりと呟くみたいなその言葉で顔を上げる。目の前に居たのは、青い髪をした、青い瞳の男性だった。この人が先生なんだろうけれど、なんだかとても、悲しい顔をしていた。


「どう、して」


 そう問い掛ける私の声は、吐き気のせいでか掠れていた。


「……フローラテイアのセリーヌ。ここは学園だ。お前の敵は別に居るんだろう?」

「……あ……」


 静かで、諭すような言葉が、心配しているみたいな優しい感情と一緒に、すっと入ってくる。少し、気分が楽になった。


 そうか。私は、あの頃の自分に戻るのが嫌なだけだったのか。


「思い出したか」

「先生、ありがとう、ございます。でも、ひとつだけ、間違ってます」

「なんだ?」

「私に、敵は居ません……」

「……内にそこまでの感情を溜め込んでなお、敵は居ねえと言うのか」


 先生はどうして、そんなにもやるせないような、悲しい顔をするんだろう。

 私には分からないことが、この先生には分かるのかもしれない。だけど。


「麻痺、してしまっているから、わかりません……」

「……なるほどな……まあいい。まだ顔色が悪いな……立てるか?」

「はい、もう、だいじょうぶです」


 差し出された手を取って立ち上がる。少しだけふらついてしまったけど、この程度は平気だった。


「……それが大丈夫な顔か。どうせあとは注意事項と、簡単な日程の説明だけだから、カティアに来てもらおう」

「え……、でも」

「でもじゃねえ。今日はもう帰れ」

「だけど……」


 食い下がる私に、先生は大きなため息を吐いた。びくり、と肩が震える。失望させてしまったのだろうか。


「明日は今日と同じ時間に自分の仮組に行きゃいい。場所はカティアが知ってるから教えてもらえ。どうせどの組も開花や開眼、覚醒系の授業しかねえからな。教師にゃ伝達しといてやる。帰れ」


 予想外な答えに、何度か瞬きを繰り返して、そして、ようやく私は先生に言われた言葉を理解した。


「え……、あの、えっと、せ、成績には、響かないんですか……?」

「体調不良はそれに含まれねえ。分かったらおとなしく迎えが来るのを待ってろ」

「……はい」


 なんだか的の外れた質問をしてしまったけれど、諭されるような先生の言葉におとなしく従ったのだった。



 

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