虚栄の中庭

『ゴミ捨て場』がなんなのか説明するためには、まず『中庭コート』の話をしなければならない。


キューブ』とか、あるいはもっと洒落て『虚栄の中庭ヴァニティコート』などと呼ばれるこの世界について。

 ダックスバックを出てまず目に入るのは、流れ着いたゴミの山がうずたかく積み上げられている光景だ。


「もうあんなところにいる……!」

 

 ゴミの山と一体になったいくつかのビルのひとつ、屋上に伊緒楽が飛び乗るのを見上げて、アレックスは思わず声を上げた。

 左手にまだ紙袋を抱えているのを遠目に確認すると、すっかり小さくなったその姿を追って、『ゴミ捨て場』を走り出す。


 すべて、よその世界から流れ着いたゴミだ。

 例えば、トレー、タイル、コンロ、ホットサンドメーカーにドリンクサーバー、椅子、紙袋や紙コップにストロー、パンに野菜、支払うコイン、白衣、だれかのために作られた眼鏡、鉄パイプ……

 ここに立ち並ぶビルも、建設されたものではなくどこかから流れ着いたものだ。

 ディブロたちもそう。ほかの世界からある日突然、この『中庭』へやってきて閉じ込められたのだという。

 流れ着いたものを集積し、外に出さない立方体キューブ。だれかの作ったものだけが資源となり、自分たちでは何も生み出せない、いつからあるか誰も知らない、いつ滅んでもおかしくない『虚栄の中庭ヴァニティコート』。

『ゴミ捨て場』とは、『中庭』の生命線であるゴミたちの流れ着く内周部を指す。『中庭』のほとんどの人間はここに住み、ゴミを拾って売ったり、利用することで生きている。『ゴミ捨て場』で生まれたアレックスもご多分に漏れない。

 例外は、魔法使いだけだ。


「うわっ……とと」


 埃まみれの黒電話につっかかり、転ぶまいと踏ん張って足を止める。

 ぜえぜえと息を切らせながら顔を上げると、伊緒楽の姿はさらに小さく、小指の爪ほど遠くなっていた。食べたあとですぐに走ったからか脇腹が痛く、とても追いつけそうにない。……さすがに、今日は諦めた方がいいかもしれない。

 思った途端、鳴り響いた警報にアレックスは顔を輝かせた。

 ぐるりを見回し『中庭』の壁を探すと、空の一部が歪んで『鯨』が頭を現そうとしているのが見える。

 膝にかけた手にぐっと力を入れて身を起こし、アレックスはそちらへ向けて走り出した。

『ゴミ捨て場』じゅうに響き渡る警報に対抗するように、『鯨』が甲高い鳴き声を上げる。

 雲が凝り固まったような白い巨体が、じわじわと『中庭』に入り込む。下手なビルよりも大きく、その位置はずいぶん低い。このままだと、腹がビルの上の方をいくつかかすめそうに思えた。そうなればビルは崩れて、下にいるものもただでは済まない。

 しかし、アレックスは疲れた脚に鞭を打って、『鯨』の進行方向へと向かっていった。

 何事にも例外はある。伊緒楽たち魔法使いがそうであるように、あの鯨もまた『中庭』の例外だ。

 流れ着いたすべてを受け入れ、外には出さないこの立方体の中で、『鯨』だけは壁をすり抜けてゆく。

 あれが一体どういう生き物なのか、そもそも生き物なのかどうかもアレックスは知らない。ただ、時々ああやって『中庭』の低空に現れて、建物に被害が出そうな場合は、避難を促す警報が発せられる。アレックスが生まれるよりもう少し前ぐらいには、警報を聞けば着の身着のままで慌てて逃げて、死人もずいぶん出たらしい。

 ただし、今やあの警報に従って『鯨』の進路から逃げるものはいない。

 視線を巡らせれば、上空には伊緒楽の姿がいた。

『鯨』を待ち構え、パイプを振りかぶる。癖のついた茶の髪が、上着がわりの白衣が、ばたばたとはためいている。

 息を切らせながら走って視界が揺れているのにも関わらず、アレックスは彼女が左手にマクドナルドの紙袋を抱えているところまで、はっきりと見て取ることができた。

 伊緒楽を『鯨』がはねとばす直前に、鉄パイプが振り下ろされる。

 なにも派手な音は聞こえなかった。

 ただ、『鯨』の巨体が、殴られたところから尾まで順に煙のようにほどけて、空に消えていく。

『ゴミ捨て場』で生まれた子供たちのなかに、伊緒楽のような不思議な力を持ったものが現れるようになったのは、ここ十数年のことだという。

 ああやって空を飛ぶのは序の口。人間とは思えない強大な力を操るかれらは、『鯨』に対してなす術のなかった『中庭』の環境を大きく変えた。

 みずからなにも生み出すことができず、ゴミを拾って生きるしかないと教えられて育ってきた『中庭』生まれの子供たちの意識もまた。

 伊緒楽が力で砕いてしまえば、『鯨』はあとはただの水だった。

 降り注ぐ雨に濡れながら、アレックスはゴミ山の間を走る。伊緒楽が降りてくるところに間に合わなければ、またあっという間に見失ってしまう。


「あれ? お前──」


 と。

 頭上から落ちてきた声に、アレックスは心臓が痛いぐらいに跳ねるのを感じて足を止めた。

 毎日ダックスバックに通って、伊緒楽がなにを注文するかを食い入るように見ていたのに、こちらに声が投げかけられるのははじめてのことだった。

「……何だっけ。ええっと、ああ、そうだ。いつもダイナーにいるガキだ」

 顔が上げられなくなる。見つかるとは思っていなかった。そもそも、顔を覚えられているとだって思わなかったのだ。

 三階建てのビルよりも高く飛び上がっていたにしては、ずいぶん軽い着地音だった。スニーカーから新調した、少しごついブーツの靴底が立てる音だ。

 そのブーツの足先が、俯いた視界に入ってくる。ばくばくと心臓が高鳴る。


「で、なに。なんか用? ディブロになんか言われた?」

「ちっ、違くて……!」


 声は調子外れに裏返った。

 息苦しさにあえいで、アレックスは顔を上げる──そこで、さっきまであれほど体に叩きつけていた雨が消えているのに気がついた。

 伊緒楽は濡れていなかった。『ゴミ捨て場』で使える状態で見つかるのが難しいから、下手をするとパニーニやコーラよりも高価なことがある茶色い紙袋も、店から出たときのままだ。眼鏡の向こうから、胡乱な目がこちらへ向けられている。


「い、伊緒楽が食事をしているところを、だれも見たことがないんだって、だから……」


 言い切ってしまってから、もう少しほかに言いようがあったのではないかと思ったが、もう遅かった。

 伊緒楽はアレックスの言葉に、ひどく驚いた様子だった。

 目を見開いて、口を半開きにして、少しのあいだ沈黙する──伊緒楽のそんなところだって、アレックスははじめて見た。他のだれも、彼女のこんなに驚いた顔なんて見たことがないんじゃないかと。ただそれに気づいたのは、ずいぶん後になってからだったが。


「だから、それを言ったのは、ディブロなんじゃねえの」

「あっ」


 反対に驚いた顔をするアレックスへ向けて、伊緒楽はかぶりを振る。


「いや、いい。揚げ足取りだった。話は分かったよ」


 それなら、と身を乗り出す前に、視界が雨で塞がり、ざあ、という音が耳元で聞こえた。

 目に入った水を払うあいだに、伊緒楽の姿は見えなくなっている。


「──!」


 雨の向こうから、しかしすぐそばにいるかのように笑い声が落ちてきた。見回してもどこにいるのか、すぐには見つけられない。


「お前なんかに、魔法使いの秘密を教えたりすると思うか──」


 伊緒楽の姿はもう、ビルの屋上を飛び越えるところだった。声はその姿を見失うと同時に途切れて、雨の音しか聞こえなくなる。

 アレックスは、その雨音がすっかり止んでしまうまで、そこに立ち尽くしていた。


 まだ、どきどきと心臓が高鳴っている。

 きっと伊緒楽こそ知らないのだ。「魔法使いの秘密」なんて言葉を与えられた『ゴミ捨て場』の子供が、どんなに胸を熱くし、ワクワクするか。

 雨とともに、警報もまたいつの間にか消えていた。

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