ドンちゃんのかくれんぼ
青年は今年も大学受験に落ちた。今年こそはと臨んだ試験だったけれど、ヤマカンが外れたんだそうな。幸いにも時は高度経済成長期、大学など出ずとも職はあったが、高慢な両親の手前、大学を目指さないわけにも、大学に受からないわけにもいかなかったのだ。
青年は失意のまま、川辺にある木で首を括ろうと思った。なぜなら、帰っても罵倒されるだけだからだ。
さて、しかし、この木というのは少し謂れのある大木であった。それもそのはず、校長の禿頭のように整備された川辺にドカリと居座っているのだから、何かしら理由があるはずだった。
だが、青年はこの辺りの生まれではない。ただいま不合格のレッテルを貼りつけられた大学の近所というだけで、青年はこの土地のことをちっとも知らない。小さな立て看板など目に入らぬほど、お先真っ暗だったのだ。
青年はその辺に落ちていたロープで持って首を括ろうとしたが、おあつらえの岩から足を滑らせて落ちてしまった。つくづく落ちることに縁のある青年である。
青年は落ちるさなかに、頭に閃光が散った。いや、実際にそうなったかはわからないが、とにかく、それくらいしか形容する言葉のない感覚だった。
閑話休題、青年が再び目を覚ますと、目の前には時代錯誤な、古写真で見た軍人の服を着た子供がいた。何か言っているが言葉まではわからない。しばらくしてようやく、耳の力も戻ってきた。
「お前は誰だ、見たことのない顔だな」
「お前こそ誰だ」
「私はドン、ドンちゃんだぞ、知らないのか」
ドンちゃんと名乗るその子供は、ブカブカの軍帽に、子供用に仕立てられたとみえる軍服を着ていた。辺りを見回してみるが、近くにはその子供と、あの大木しか見えない。不思議なところだった。
「立派な身体をしているのに、こんなところで寝ているとは、なんて親不孝なんだ」
「お前にそんなことを言われる筋合いはないぞ」
「かわいそうなやつめ、それならドンちゃんと遊ぶといいぞ、ドンちゃんのお父さまは陸軍の中尉なんだ」
「お前が何を言っているのかちっともわからないぜ」
「うるさい!ドンちゃんの言う通りにしないとお父さまに言いつけてやる!」
しばらくそんな不毛な会話をしていたが、先に痺れを切らしたのは青年の方だった。
「わかったわかった、日が暮れるまでだぞ」
「まずはだるまさんがころんだをするんだ」
少年は足を引き摺りながら木から離れていった。怪我でもしているのだろう。青年はそんなことにも気づかず、ブツクサ言いながら大木に額をつけた。
どれくらい経っただろうか、いくらだるまさんがころんだと唱えても、少年は近づいてこない。ほんの少しずつ近づいてきているようには思うが、あまりにも愚鈍すぎて、ちっとも進まないらしい。さらに不思議なことには、いくら時が経っても、日が落ちないのである。そしてなまじっか大学受験を3度受けた青年は気づいていた。元いた場所は確かに霰の降るような真冬だったのに、ここは真夏で、日が照りつけていることに。段々と朦朧としてくる中、青年はとある悲しい話を思い出した。
数十年前、まだ戦争をしていた時分のこと。かくれんぼで鬼をしていた男の子が、けたたましいサイレンが鳴り響く中逃げ遅れて、大木の下で機銃掃射の弾に当たって死んでしまったんだそうな。それ以来、その大木の下に行くと男の子に攫われて遊びに付き合わされるという。
ようやく自分の立場に気づいた青年は、とたんに振り向くのが恐ろしくなった。しかし、ドンちゃんは早く早くと急かしてくる。そうこうしているうちにドンちゃんに背を叩かれた。
「次はかくれんぼだ、ドンちゃんはいい子だから、鬼をしてやるぞ」
「いいや、僕が鬼をしてあげよう」
「だめだ、順番だ、大将は常に平等じゃなきゃいけないんだ、兵隊の手本にならなきゃいけないんだ」
ドンちゃんはそう言うと、間髪入れずに数を数え始めた。
青年は狼狽したが、何をすることもできず、ひとまず近くの草むらに身を潜めた。
「もういいかい」
「まぁだだよ」
青年は思い出した。
少年の手を逃れるには、「もういいかい」に応えなければいいということを。答えないまましばらくすると、無事に元の世界に戻ることができ、間違っても「もういいよ」だなんて言ってしまうと、永遠に遊び続けることになってしまうらしい。
「もういいかい」
「まぁだだよ」
「もういいかい」
「まぁだだよ」
青年は答えない勇気も、「もういいよ」と言う勇気もなかった。
青年は哀れに思った。馬鹿げた戦争の時代に取り残された少年の魂を。
「もういいかい」
「もういいかい」
「もういいかい」
少年を思い涙している間に、青年は応えることをすっかり失念してしまった。だんだんと、少年の姿が遠くなっていく。
気づけば、青年はもといた河原にいた。辺りはすっかり日が暮れている。間抜けなロープが木にぶら下がっているのが見えた。
青年は翌年、ようやく大学に合格して、機械工学を学んだ。再び彼がドンちゃんの木の側に来たのは、ソ連が崩壊した次の日だった。
「もういいかい」
「もういいよ」
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