電話ボックス


ある苦学生が予備校の帰り道に電話ボックスを見つけた。苦学生は不思議に思った。自分は昨日もその前の日だってこの道を通ったけれど、あんなものはなかった。いや、自分がこの道を通るのはいつも夜だから見当たらなかったのかもしらん。しかし、今日のような雲の多い日には見えたのに…(小考)。

考えてみても埒があかないので、苦学生はそろりとその電話ボックスに近づいた。不思議なことにあちらから近づいてきたようにも思えたが、それはこの暗がりで目が参っているからそう見えただけにちがいない。


苦学生が中を覗き込むと、それはいやに古臭い、昔、大庄屋の家にしかなかったような電話だった。木箱の頭にどら焼きのようなベルがふたつ慎ましく並んでいる。左耳にはのカナヘビの尾を引き延ばしたようなコードと、その先に小さなラッパ型の受話器がついている。いや、珍しいこと。苦学生はそう思って中を見回すが、天井に蜘蛛の巣が張り、床になんとかという虫の亡骸が転がっているばかりである。

入ってみようか、彼がそう思うや否や、ベルがけたたましい音を立てて震えだした。こんなにうるさい音を立てては、火事か何かかと怪しまれるやもしらん。苦学生は慌ててその中へ入って、ペンだこのできた骨張った手で受話器を取った。


「もしもし、三郎かい」


受話器の向こう側から聞こえてきた声に苦学生は驚き飛びのいて背を打った。その表紙に天井を這っていた芋虫が落ちてきたが幸い踏まずに済んだ。


「もしもし、三郎かい」


その鈴のなるような幼い声色には確かに聞き覚えがあった。若くして嫁ぎ、子供を産んでもおぼこいと言われていた母親のものに違いなかった。

しかし不思議なこと。あれほど、いわゆる機械的なもの…例えば機関車(母はいまだにあれを陸蒸気と呼ぶ)なんかを嫌う母が電話などするはずがない。貧乏で仕方ないあの家に電話があるわけでもなし。そしてなにより、自分が立ち寄った折に運良くベルが鳴るなんてことがあるだろうか。

しかし、苦学生はその口に乳を含んだ時から恋しい母からの電話を切るわけにもいかず、話を続けた。


「もしもし、三郎だよ」

「あんたまぁこんな時間まで何してるがね、はよぅ寝んといかんちゃ」

「うん、…うん」

母親らしき声は、いつか聞いた、いつも聞いていた小言ばかり言った。苦学生は昔と変わらず、うんうんとうなづくばかりだった。

畑を耕す土臭い手の香りがする。叔父の家から送られてきた玉葱の香りだったかもしらん。古新聞のような手が、見事に刈られた坊主頭を擽る。遠くの方からまだおねしょが治らない妹の泣き声が聞こえ、私は母の着物の裾を掴んで寝こけたふりをした。


「無理しちゃいかんちゃ、いつでも帰って来んね」

そう言う声が聞こえて、ぷつりと電話は切れた。


苦学生は電話ボックスを出ると、いの一番に参考書をドブへ捨てた。



数日後、参考書を積むばかりで物を持たぬ彼だったから、父しかいない生家に送られてきたのは端の少し焦げた鞄ただ一つだった。始発列車とレールの間で擦れて焼けたんだそうだ。

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