第5話 奥御殿に住む男

 大坂城本丸は南を除く三方が水堀で囲まれ、南方には馬出うまだし状の曲輪を挟んで空堀が設けられていた。その中に三段の石垣が築かれ、中心部には南から表御殿、奥御殿、天守閣が順に並ぶ。太郎は淀殿が住む奥御殿の一室をあてがわれ、既に十日間も逗留している。逗留中には三度秀頼と対面したが、ほとんど会話がなく終わり、部屋に戻って彩恵の身体に溺れるだけの日々が続いていた。

 彩恵は一日に二回部屋を出て行き、奥向きの仕事があるのかしばらく帰ってこない。その間太郎は一人に成るのだが、頭にもやがかかったような感じで、駿府に住む父母や政庁の同僚たちを思い出すことはなかった。このままではダメだと意識の裏側から声が聞こえるのだが、明日から考えようと先延ばしにしてしまう。毎日それが繰り返されるだけで、ずるずると今に至ってしまい、今ではその声さえも聞こえなくなってきた。


「仕事に行ってきます」

 今日も彩恵は着物を身につけ、裸の太郎を置いて部屋を出る。一人に成ってもいつものように起き上がる気力が湧いて来ない。睡眠はよく足りていて特に眠くもないから、豪華な造りの天井をぼんやりと見つめる。何かしなければと思っても、すぐにだるくなって服をきることさえ億劫に感じる。身体を動かす代わりに彩恵との情事を思い出すと、軽く性欲がうずき始めた。

 ああ、俺はもうこの生活から抜け出せないのだろうなと、時々あきらめに似た感情が走るが、かと言って彩恵と二人で過ごす甘美な感覚を、手放す気にはとうてい慣れない。結局いつもと同じようにだらりと力を抜いて、彩恵の帰りを待つ時間を無為に過ごす。


「入っても良いか」

 不意に襖の外から男の声がした。奥御殿に来てから男の影すら見てないだけに、太郎は身の危険を感じた。すぐに全身に血が回り始め、ぼやけていた頭がはっきりとしてくる。

「太郎殿、おられるのだろう。わしは大野治長と申す。少し話がしたい」

 大野治長、聞いたことのある名前だった。太郎は起き上がって急いで袴を履き、上に小袖をひっかける。肩衣は見当たらないのであきらめ、そのままの姿で襖を開けた。

「突然で申し訳ない」

 最初に非礼を詫びた男は、背が高くて色の白い整った顔をしていた。理知的で真面目そうな雰囲気は、どことなく石田三成に似てるような気がする。


「いいえ、奥御殿で男の声がしたので驚いただけです。こんな陽が高いのに、自分の家のようにぶらぶらしている私の方が、よほど礼を失しています」

 太郎は自身のだらしなさを訴えながら、久しぶりにまともな会話をしていることに気づいた。考えてみれば、ここに来てから彩恵とまともな会話をほとんどしてない。

「外は雲一つない、いい天気ですよ。迷惑でなかったらこの部屋から出て、共に外を歩きませんか」

 その言葉は無気力だった太郎の心に深く染み渡り、せっかくだから外に出て治長と話してみようと思った。



 太郎と治長は奥御殿を出て、西に向かって歩き出す。天守前の木々は冬が近いことを告げるように、真っ赤に色づいている。紅葉の先には二の丸との境界を示す堀があり、秋らしい青空から降り注ぐ陽の光が水面で反射して、透き通った氷の粒が躍っているように見えた。外界の美しさに心を奪われている間に、治長はなぜかほっとしたような表情で語りかけてきた。

「自然の恵みは胃袋だけでなく、心も満たしてくれるものですが、太郎殿の心もそれにしっかり応えているのを見て安心しました。どうか太郎殿の心が壊れてしまう前に、ここを退去してくださらぬか」


 太郎は目の前の美しい風景から目を離し、治長の顔をしげしげと見る。治長は優しそうな笑顔を浮かべているが、目の奥には強い慈愛が籠められていた。太郎はそれを見て今の申し出は、自分に対する忠告なのだと気づいた。

「治長殿は不思議な方ですね。優しそうなのに強さがある。あなたと一緒にいると、駿府の兄を思い出します」

「常勝を誇る自連軍の将軍と比べられるとは、恥ずかしい限りです。私にはそのような強さはありません」

「戦場に立つ兄と比べたのではありません。家の中でいつも私を見守ってくれていた兄の優しさと強さを、治長殿と接するうちに思い出してしまったのです」

「世に名高い真野家の兄弟の関係は、私などには想像もつきませんが、私にも三人の弟がいます。どれも気が強くて思慮が足りない一面があり、危なかしい弟たちですが、どこか愛嬌があり捨ててはおけない思いに駆られます。そんなところが梨音殿と被ったのでしょうか」

「今の私は兄から見るとまさにそんな感じでしょうね。先ほどの言葉は兄の声のように感じました」


 二人は再び無言で目の前に広がる美しい景色を見た。雲が動いて堀に注がれていた陽の光を遮ると、水の上で躍っていた光の粒が消えて、代わりに水面に波紋が浮かんだ。先ほどまでは気づかなかった冷たい風が吹き抜けてきて、肌に突き刺さるように感じた。辺りも少し暗く成って、赤く染まった木々の彩りがやや輝きを失っている。太郎は景色の変化に、言葉にならない寂しさを感じた。再び治長がポツポツと語り始める。

「淀殿と母は二度の落城を経験して、心の中に鬼を飼いました。その鬼は自分たち以外の者の幸せを踏みにじっても、誇りと虚栄心を満たそうとします。私はいつかこの鬼が、この国の民を食らってしまうのではないかと、不安になってしまいます」

「治長殿の母とは?」

「大蔵卿局です」

 大蔵卿局は大阪城の奥周り一切を取り仕切る立場にある。長安と二人で謁見した際にも淀殿の側に控えていた。太郎は、治長が奥御殿にいた理由をようやく合点できた。

「しかし民を食らってしまうとは、なんとも不穏です」

「言い過ぎかもしれませんが、ここが天下の乱れの素を作っているような気がして、私は不安になるのです。第一、太郎殿がここに逗留されていることで、天下は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっています。五大老、五奉行共に大阪城と自連の真意を探ろうと、謀議に明け暮れています」


 治長の言葉に、太郎は改めてこの国で最強と謳われる自連の国力と、父勝悟の影響力を知らされた気がした。土屋長安と大道寺直繁の心配は、見事に的中したわけだ。

「これは私の勝手な行動であって、自連は何も関係ない」

「しかし、世間はそうは思わない。悪いことは言わない。あなたは愛する国や家族のためにも早くここを立ち去った方がいい」


 治長の顔は真剣だった。言葉には誠意が満ちあふれている。太郎はありがたいと思いながら語り始めた。

「治長殿。あなたが声をかけてくれるまで、私は自堕落な考えから抜け出すことができなかった。こんなことは生まれて初めてです。しかしながら今は冷静に自分を見ることができます」

「おお、それでは――」

「私はここを出て行きませんよ。せっかく生まれて初めての経験をしたのですから、これは何だったのか見極めるつもりです」

 すっかり立ち直った太郎に、喜びの声をあげた治長だったが、ここを退去しないと言われて、再び心配が顔に出る。

「しかしそれでは天下の情勢が――」

「心配ご無用です。中心に自連がある限り、そして父が健在である以上、どのような難局に陥っても、きっとうまく乗りきります」

 国の強さを知り、父を信じる太郎は自信に満ちあふれた顔を見せ、それを見た治長は説得することの無駄を悟った。


「太郎殿、あなたと言う方は」

 治長は呆れたように太郎を見た。

「どうして彩恵殿に異様な執着を抱いたのか、私自身が納得のいく回答を得なければ、逆に父に合わせる顔がありません。神の目の後を継ぐ者として、ここは意地でも私が狂ったものの正体を見極めなければと思います」

 治長には太郎が知りたがっているものの正体が分かっていた。またこんなに躍起になって、太郎がそれを知る必要があるとも思えなかった。しかし、太郎ならば自分とは違う答えを、引き出すかもしれないとも思った。

「では存分にやってください。もしあなたがまた無気力になったときは、今度のように私がまた外にお連れします。是非、納得がいくまでやってみてください」

 治長の申し出に対して、太郎は最高の笑顔で応えた。

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