第3話 暗闘の始まり

 彩恵さえの白い肩が着物の中に包まれていく。裾の乱れも手早く直し、何事もなかったように、この部屋に案内してくれたときの姿に戻っていた。

「お目通りの時間が近づいてます。早くお召し物をお直しください」

 彩恵に促されて、太郎は慌てて脱ぎ捨てた袴を手に取った。自連の影響下にある駿府、遠江では紡績業の発達と共に、南蛮服と呼ばれる服装が主流になってきている。機動性に富む上、汚れても洗いやすく、何よりも裾の広い和服に比べて動きの邪魔にならない点が、庶民の間に広まった理由だ。太郎も普段は南蛮服を身につけていることの方が多いが、こうした外交の場では、さすがに古くからの伝統に敬意を払い、和式の正装を身につけていた。


 居住まいを正して改めて彩恵を見つめる。先ほどまで自身の腕の中にあったしなやかな身体が、何もなかったかのように着物の中に包まれ、彩恵自身も余韻一つ残さず澄ましている。最初は確かに自分から求めたが、経験不足から手順が分からず、ひたすらその細くて華奢な身体を強く抱きしめていた。ところが、彩恵の手が太郎の身体に触れると、たちまち力が抜けて、その後は全てを彩恵に委ねて快楽の波に飲み込まれてしまった。

 全ての欲望は吐き出したはずなのに、彩恵のつんと澄ました美しい顔を見つめるうちに、僅かに身体に残った燻りが再び大きな炎となって、太郎の身体を突き動かす。もう一度彩恵を抱いて甘い声を聞きたいと立ち上がりかけたとき、襖の外から謁見を知らせる声がした。

「お方様のお目通りです。こちらにいらっしゃいますので、そのままお待ちください」

 彩恵が立ち上がり部屋の隅に移動する。太郎は彩恵の身体に未練を残しながら、しぶしぶ彩恵が座った場所に移った。

「お方様がお成りでございます」

 廊下で声がすると、襖が開いてこの城の女主人が入って来た。太郎は畳に両手をついて、頭を下に傾ける。淀殿が太郎の脇を抜けて奥に座る。通り過ぎるとき、昨日とは違う香りが鼻を擽った。やわらかな陽光のような暖かくてやさしい香りだった。ふと彩恵への思いを、今しがた結ばれた行為を、全て打ち明けたくなった。

「面をあげよ。妾の方から頼んで来てもらったのじゃ。儀礼的な挨拶など気にする必要はない」

 淀殿の声は今日も湿っていたが、昨日のようにいきなり心に絡みつくような感じではなく、肌からじんわりと染み入ってきて、少しづつ心に浸透していくような気がした。

「ありがたきお言葉をちょうだいし、嬉しい限りでございます」

「ホホ、まだ硬いのう。まあ良い。早速ではあるが、昨日届けた書状の返事をもらえるかえ」

 どう断るかと、気まずさを意識していたのが嘘のようだった。今日の淀殿には自分の気持ちを素直に話せる気がした。

「はい。たいへんありがたい言葉でありますが、私はここにいることはできません。申し訳ございません」

 どんなに気まずい雰囲気になるかと心配していたのが嘘のようだった。ここに来て太郎は心に負担を感じることなく断ることができた。それを聞いた淀殿も、あまり落胆した様子も見せずに微笑みながら言った。

「やはり無理か。そなたも立場がある。分かってはおったが、もう二度と会えぬかもしれぬと思うと、やりきれなくなって無理を言ってしまいました。忘れておくれ」


 忘れる? 俺は忘れられるのか――淀殿の言葉は少しも責めてる気配がないのに、太郎の心は大きく揺れた。ちらっと部屋の隅に佇む彩恵の姿が目に入る。彩恵はピンと背筋を伸ばし、美しい頤を上向きにして、先ほどまでの痴態が嘘のように表情一つ変えていない。

 生まれて初めて知った背筋を突き抜けるような快感が、ふいに身体の中に蘇ってきた。淀殿の前だ。押さえなければならないと、必死で耐えようとするが、身体に刻まれた目眩めくるめく喜びが理性を麻痺させる。次こそ自分自身の身体で彩恵を屈服させたい。こみ上げる衝動が予想もしてなかった行動に変わる。

「こ、ここに残ります。秀頼様に学問の手ほどきをさせてください」

 太郎の申し出に淀殿は何も言わず、こうなることは分かっていたと、言わんばかりの笑顔を返した。すくっと立ち上がって淀殿は部屋を出た。太郎は彩恵ににじり寄ってそのまま抱き寄せた。



「大阪城に留まるだと」

 淀殿が送ってきた使者の言葉を直繁が伝えると、長安は一声叫んで力なくその場にへたり込んだ。

「分からん。太郎に何が起こったのだ」

 利を極めることについて天才的な長安には、自連だけでなく太郎にとっても利がない行動が理解できなかった。

「長安殿は太郎殿を信頼しすぎておる。どんな賢者も愚者に転落するときがあるではないか」

 直繁の言葉に長安の顔色が変わる。

「欲望か。いやまさか」

「利や情は人の心を動かす大きな要因となるが、同時に観察と分析によって予測も容易い。人の心の内に突然芽生える欲望だけは、他人はおろか自分でも予測不可能で、理解しがたいものだ」

 直繁は長安から視線を外し、何かを思い出そうとして目を閉じた。

「わしは父の仕事の手伝いで、川越の罪人の詮議をしたことがある。人が罪を犯すとき、たいていの場合理由があるものだが、時として何の理由もなく何人もの命を奪う者がいる。物盗りでも恨みでもなく、その者の欲望が人を殺めることなのだ」

「まて、太郎の行動がそのような狂人と同じと申すのか?」

「わしの知る限り、欲望によって人を殺める者は、食うに困るわけでもなく、普段の暮らしにおいて気が触れてるわけでもないことが多い。むしろ太郎殿のような、理想的な生き方をしてる者に多く見られる」

「しかし、あの太郎が――」

「太郎殿だけではない」

 長安の言葉を遮るように直繁が言葉を放った。長安は続ける言葉を失って、この人生経験豊富な官吏頭の顔を凝視した。


「私にも長安殿にも、人であれば誰でも心の内に理を超えた欲望を持っていると思った方がいい。それはきっかけさえ有れば、あっという間に顔を出して人の心を支配する。人とはそういうものなのだ。長安殿とて、一つ間違えば富裕を謳歌し女に溺れる者に変わっていた可能性があるのだ」

 長安はがっくりと肩を落とした。勝悟が民政を始めて以来、長安の心の中には人に期待し確かな未来を信じる気持ちが芽生えていた。だからこそ難題に突き当たっても、それをやりがいに感じ、努力を続けてきたのだ。しかし、直繁の言はその原動力足る気持ちを否定する言葉だった。


「長安殿、落ち込んでいるときではないぞ。人がそうであればこそ、勝悟殿が目指された教育と殖産による国造りは面白いのではないか。そうだ、我が子の狂態を知ったとき、勝悟殿ならまず何を為されると思う」

「おお、神の目か」

 一声唸ったあとで、長安は勝悟の半生を思い出していた。丹精込めて強国に建て直した武田が滅びに向かったとき、主君勝頼の不可解な行動や周りの裏切りは放っておき、自ら目指した国造りの夢が途絶えぬように、多方面に打つべき手を尽くしていた。そんな勝悟であれば、例え我が子があらぬ方向に走り出したとしても、ただ驚きその原因をあれこれ詮索などすまい。起こった現実を冷静に捉えて、今何をすべきかをまず考え実行に移すはずだ。


「経済だな。まず手を打たねばならぬのは、自連の流通網の確保と、商いの打撃を最小限に留めること。わしはすぐに駿府に戻る。戻って友野宗善殿と対応策を協議せねばなるまい」

 長安の力強い決意に、直繁は目を細めた。長安が対応に走るならば、自分は太郎の今後の行動を探らねばなるまい。決して小さくない使命を己に課して、直繁もまた動き出した。



「真野太郎が大阪城に入り、秀頼の後ろ盾に成っているだと」

 太郎が大阪城への逗留を決めて数日後、本多正信はこの天下の情勢を左右しかねない大事を知った。形の上では自連と秀頼は大きなつながりを持ち、家康と五奉行の傑出した二大勢力と肩を並べる存在と化した。実際に戦が生じたとき、自連が武力でもって秀頼の肩を持つかは不明だが、多くの大名たち、特に秀吉子飼いの武断派は秀頼を助けることに異を介さぬだろう。五奉行との関係が深い、毛利、長宗我部、立花、島津と言った西国の諸将も、秀吉個人との関係の深さもあり、武力的な背景を持った秀頼を軽視できなくなる。

 逆に単独では日の本最大の勢力を誇る徳川の味方は一気に減る。会津の上杉、常陸の佐竹と関東東北の大名の中には、容易には徳川に屈せぬ勢力が現存し、加賀には前田利家がまだ生きている。

 家康の胸の内にある天下への野望を知る、数少ない側近の一人である正信は、今この事態にあって何をすべきか、迷うことなく決断した。

「お主はすぐに江戸に行って、大久保殿に仔細を告げその指示に従え。わしは殿にお目通りを願い、大久保殿への対自連対策の権限委譲を上申する」

 父の指示を受けて、本多正純はすぐに江戸に発つべく、伏見城から本多屋敷に向かった。その道すがら関東経済を牛耳る男の顔を思い浮かべる。

 大久保慎、観世黒雪の手の者によって自連から連れ去られた男は、その天賦の才を発揮して江戸を駿府、大阪に劣らぬ経済都市に築き上げた。その功により、徳川譜代の名門大久保一族の名跡を家康より与えられ、細野の姓を捨て大久保慎と名乗るようになった。

 自連と秀頼の接近に対し、父の初手は大久保慎の起用だった。経済を国力強化の第一とする父ならではの打ち手だ。

 天下取りに続く道のりの第一歩を記すべく、正純は屋敷に向かう足を速めた。

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