第2話 太郎の価値

 太郎は自連の大阪屋敷で夕餉をいただいてから、表に出て日課の体術訓練を始めた。兄梨音は常々刺客などとの個人戦闘に強くなるには、体術の向上が最も効果があると勧めている。太郎は兄の教えに従い、体術の師に風魔の中でも特に名人と呼ばれている者を招聘し、手ほどきを受けていた。

 気を入れて正拳を突き続けていると、昼間感じた浮ついた気持ちは次第に消えてなくなり、冷静に豊臣政権に対する対応を見つめなおすことができた。豊臣政権は秀吉の死を乗り越えて、天下に覇を唱えるにはあまりにも脆弱だ。どんなに大阪城を壮麗に築こうとも、中にいる人や人を活かすしくみが伴わない限り、容れ物には何の価値もない。改めて、民の教育というしくみづくりから始めた父の偉大さが身に染みた。


 暗闇の中に人影が見えた気がした。太郎は正拳を突く手を止めて、人影が見えたあたりを凝視する。それは確かに人影で、だんだんと鮮明になっていく。やがて一間の距離まで近づいたとき、その人影が若い女であることに気づいた。

「もしかして、真野太郎様ではございませんか?」

 鈴の音のような声だった。

「私のことをご存じですか?」

「はい、私は淀の方にお仕えする者で、名を彩恵と申します。お方様から太郎様に当てた書状をお持ちしました」

 今夜は月が出てないから女の顔がよく見えない。しかたなく屋敷から持ち出して、地面に置いていた提灯を手に取った。頼りない光に照らされた女の顔は、太郎よりも一つ、二つ年上に見える。涼しげな目と高い鼻梁が、女が相当美しい顔立ちだと示していたが、それよりも唇に塗られた紅の淫蕩な雰囲気が、太郎の心をざわめかせた。



 ふうー、長安のため息が届いたわけではないが、蝋燭の火が微かに揺らめいて、部屋の中の人影が震える。影の数は三つ。土屋長安と大坂屋敷の官吏頭である大道寺直繁、そして太郎のものだ。

 太郎は向き合う二人が、淀殿からの書状を一読した後、次の言葉が出てくるのを、ただひたすら待った。書状の内容は秀頼の学問の師として、太郎を迎えたいという依頼だった。太郎を指名する理由として、自連の外交における基本姿勢や、防衛に関する考え方を知りたいとあった。要求されていることはすごくまともで、軍事に関する代表補佐官を務めている自分であれば、話していい内容や秘密にすべきことを的確に判断できるし、悪い人選ではないと太郎は思った。

 しかし、長安と直繁の二人はずっと押し黙ったままだ。太郎が焦れて口を開きそうになったとき、直繁が静かな口調で言った。


「現在の情勢から見て、これは少々釣り合いをとるのが難しいですね」

 長安は頷きながら、「うむ」と短く答えた。

「私は北条家が信濃諏訪三万石に転封に成ったときに、父政繁と共に徳川家に仕えました。五年後に父が他界した際に徳川家を辞して、自連に来たわけですが、そのときに家康殿はしっかりと天下に対して野望を持っていると感じました。それは形として天下に君臨したいのか、豊臣家の宰相と成りたいのかは分かりかねますが、太閤殿下が亡き今、その野望が姿を現わすのは必定と考えております」

 太郎はなぜそれが自分への依頼とつながるのか理解できず、戸惑い気味に直繁を見た。直繁は太郎の表情の変化に気づき、思慮深そうな顔を向けて説明を始める。

「太郎殿は長安殿の軍事分析の担当秘書官として、公の立場に身を置く方です。その方が大阪城に逗留して、秀頼様と親しい間柄と言うことになれば、少なくとも畿内の民は自連は豊臣に近いと感じることに成ります。それは徳川だけでなく、豊臣政権の中枢部にも悪い影響を与えます」

「悪い影響とは?」

「一番影響するのが経済です。関東や畿内への商いに税がかかったり、流通面でも支障が出たりします。次に徳川、豊臣の双方から、軍事上の立場を明らかにするように強いられます。地勢的にも自連は家康の領国の関東と、豊臣の根拠地である大阪の間にありますから、両陣営共に神経を使うでしょう」

「長安殿もそう思われますか?」

「直繁の分析は正しいと思う。それにわしは朝鮮派兵などと馬鹿な真似をした豊臣家を、あまり快く思ってない。三成殿などの政権執行部はまだしも、豊臣家自体とはあまり近づきたくないのが本音じゃ」

 上司である長安にそう言われては、太郎もそれ以上反論できない。

「分かりました。では明日大阪城に赴き、私の口からお断りしてきます」

 二人の言い分に同意した上で誠意を示そうとする太郎に対して、直繁はそこまでしなくてもと言いたげな表情を見せたが、長安が同意したので特に異を唱えることはなかった。



 翌朝、大阪城を訪れた太郎を出迎えたのは、昨夜書状を届けた彩恵だった。案内された部屋に入ると、部屋中に淀殿との謁見で感じた香の匂いが漂っていた。部屋の中で彩恵と二人で向き合うと、太郎は淀殿に感じたとき以上の衝動が身体の中を駆け巡った。昨夜は辺りが暗かったためはっきりとは分からなかったが、陽が差し込む明るい部屋で見ると、彩恵は想像以上に美しかった。細面の顔形と細い鼻梁は儚さを、涼しげな目は知性を感じさせ、口元の黒子が妖艶な色気を漂わす。

「太郎様はお方様の申し出を断られるのですね」

 今日聞く彩恵の声は悲しげな鈴の音色に似ていた。

「どうして断ると思うのですか?」

 太郎は気後れしている感情を顔に出してしまったかと、内心狼狽しながら尋ねた。

「太郎様のお顔を見ていると、拒絶されているような気がして」

 彩恵が悲しそうに項垂れると、白い首筋が目に入り、太郎はますます慌てた。

「いや、彩恵殿を拒む気持ちは一切ございません」

「でも、次はいつお会いできるか分からないのですよね」

 大きめの声で取りなそうとする太郎に対し、彩恵の目から涙がこぼれる。

「な、なぜ泣くのです」

 自分に対する女のこういう涙など見たことがない。太郎の混乱は頂点に達していた。

「分からないですよね。昨夜お会いしたときから、彩恵の心にはずっと太郎様がいるのです」

 彩恵の告白に頭の中がカッと熱くなった。気がつくとそのまま彩恵の方に近づき、その細い肩を抱いていた。いつの間にか胸の中に飢えた獣がいる。その獣が彩恵を食らおうとして暴れ回っていた。太郎の意識がその獣に飲み込まれていく。



「本当に一人で行かして良かったのでしょうか」

 大坂屋敷の一室で、直繁が長安と向き合いながら、胸の中に芽生えた不安を訴えていた。

「それは仕方あるまい。太郎殿も独り立ちして政権に参加した限り、単独で他国との交渉に臨まねばならない場面はある。ましてや自分のことであればなおさらじゃ。保護者のような者が付き添っては、本人の尊厳を傷つけてしまう」

「それは分かりますが、今回の相手は今天下に影響を与えている三勢力の一つ。太郎殿一人ではやはり荷が重いかと思われます。それに――」

 直繁は、何か恐ろしい言葉を飲み込むように、話すのをやめた。長安は気になって、「それに何だ」と続きを催促した。

「太郎殿は神の目の血を受け継ぐ唯一のお方。また母君の光様は、かの武田信玄の直系のお血筋でございます。豊臣の戦神として掲げるには、これほど適した者はいないかと存じます」

「太郎が自連を捨てて、豊臣の臣に成るとお主は申すのか?」

 長安の声には珍しく怒気が交じっていた。直繁はそれを正面から受け止めて、長安を見つめた。その目は使命感からか、一切の迷いが消えている。

「人を思い通りに操った例など、古くは源義経が後白河法皇に取り込まれた例など、数えれば切りなくあります。方法だけ上げても、催眠、洗脳、位打ちなど人は弱い者だとつくづく思い知らされます。ましてや大阪城は女人が統べる城。傾国の美女という言葉があるとおり、美しい女は男を溺れさす不思議な力を持っております」

 長安の目に狼狽の色が浮かんだ。急に大阪城が魔女の集う城のように思えてきた。

「太閤殿下の好みゆえか、淀殿の周りには側仕えとして、公家の娘も多く入っていると聞きます。それこそ平安の頃より、公家の世界では武士が武芸を習うかのように、房中術を授けると聞きます。何百年もの間に磨き抜かれた技に、太郎殿があがらえるとは思えませんが」


 それだけ言うと、直繁はピタリと口を閉ざした。長安もまた何も言わない。大きな不安が芽生えつつあるが、今更どうこう言っても仕方がない。もう太郎は行ってしまったのだ。もう今は太郎を信じて待つしかない。二人は祈るような気持ちで、不安と一心に戦っていた。

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