第二章 天を継ぐ者、地を統べる者

第1話 贅の中に咲く花 

 百二十七万坪の広大の敷地に三重の堀を巡らした、難攻不落の巨城の主はまだ五才の少年だった。豊臣朝臣藤吉郎秀頼は、従二位言中納言にて、天下人豊臣秀吉の唯一の後継者であり、祖父浅井長政譲りの五才とは思えない堂々とした体躯をしていた。

 秀吉亡き今、天下の最高権力者を継ぐ者であることは間違いないが、そこはまだ幼い子供ゆえに、実権は秀吉が死の間際に任命した五大老、五奉行に委ねられている。

 豊臣政権は、秀吉の独裁政権の色合いが強く、それ故に全国規模の検地や刀狩りと呼ばれる農民の武装解除など、合議制では決断できない政策が断行できたが、全権を握ってきた独裁者がいない今、政治機構が未整備のまま、法の強制力も怪しくなってきていた。

 このような脆弱な政権基盤の上に立ち、不安定な立場にある秀頼だが、頼りに成る後ろ盾も決めかねる状態だった。その原因は母である淀殿に起因していた。

 秀吉亡き後の実力から見て、徳川家康を信用できればことは丸く収まるのであるが、戦乱の世を生き抜いた戦人の腹の底など、二度の落城を経験したとは言え、深窓の姫として複雑な人間関係に晒された経験のない淀殿には読めるわけもなく、むしろ対面の度に威圧感を覚えて息苦しく感じた。となれば亡き秀吉の僚友であり、実力的にも家康に次ぐ前田利家を頼るしかないが、こちらは尾張出身者で、淀殿よりも正室である北政所に近い。浅井長政の娘で織田信長を伯父に持つ淀殿は、家来筋の北政所と協調することは気が引けた。

 そうなると秀吉子飼いの家来衆と言うことになるが、戦で頼りに成る武断派は福島、加藤を始めとして北政所に近い。近江出身の石田三成を中心とする文治派は、いざ戦という場面では、実績的な面で心許ない。

 つまり、淀殿が本当に信用できる者が誰もいないことから、秀頼の後ろ盾も定まらない状態が続いてしまった。そんな複雑な人間関係が渦巻く大阪城に、太郎は秀吉へのお悔やみを伝えるために、代表である土屋長安と共に大阪城に赴いた。



「この世の贅を全て集めたような城ですね」

 金箔の貼った襖によって仕切られ、秀吉生前の頃は何十人もの大名が並んだ大広間に案内された、太郎の第一声はそれだった。

「そう思われるか」

 贅沢や富貴について、さして興味のない長安は素っ気ない。むしろ民から集めた血税が、このような生産性のない使われ方をされていることに眉を潜める。そんな長安の思いなど毛の先ほども慮ることなく、太郎は目を輝かせていた。太郎は今年二五才、父には自由連合の創設者である真野勝悟、母には武田家直系の血筋の光を持ち、自連でも生粋の貴種と言えるが、勝悟は自連の経営、光は慈善活動に夢中で、二人とも自家の繁栄にまったく興味がないため、贅沢は知らずに育った。身近で唯一贅を知っているのは、今川家の血筋である氏真であるが、通人だけに理解できる彼の贅は、幼い頃から贅を知らずに育った太郎にはわかりにくいものだった。しかも晩年の氏真は蹴鞠の普及に夢中で、その方面の興味と情熱は消えていた。このような環境で育った庶民中の庶民である太郎にとって、大阪城はまさに夢の国と言えた。


「秀頼様のお成りです」

 侍女の合図と共に、大柄で太った少年が入ってきて、小上がりに成っている上座についた。平伏して秀頼を迎えた太郎が、「面を上げよ」の言葉と共に顔を上げてまず驚いたのは、秀頼の側に佇む淀殿の絢爛豪華な美貌だった。

 淀殿は二人の子供を産んだとはいえ、まだ二九才。母お市の方譲りの美貌はいささかも衰えることなく、天下人の寵愛を一身に受けた身体は甘くて妖しい芳香を放ち、朴念仁の代表とも言える長安さえも、思わず息を飲んで目を離せずにいた。ましてや二五才にして、まだ女を知らない太郎では、その姿を見るだけで狂おしい思いが身体の中を突き抜けるのを止めることができなかった。


「そなたが、自連の代表か」

 淀殿の声はどこか湿り気があって、身体を擽られているような気がした。そんな太郎のふわふわした気持ちとは対照的に、長安は既に落ち着きを取り戻して、低い声で答えた。

「はっ。自由連合代表の土屋長安と申します。隣に控えるのは先の代表の一子で、事務官の真野太郎でございます」

 長安が太郎の紹介をすると、淀殿は目を細めた。

「良き若者じゃ。そなた年はいくつに成る」

「二五にございます」

「そうか、秀頼殿は心許せる友が少ない。年は離れておるが、ぜひ良き友人となっておくれ」

 甘い声音に痺れるような快感が全身を駆け巡る。太郎は至福を感じながら、「ははあ」と頭を下げた。当の秀頼は、太郎のそんな姿を、一言も発することなく、熱の籠もらない目でじっと見つめていた。


 謁見が終了し、秀頼親子が下がると、長安と太郎は別室に通された。そこには京に入るはずの石田三成が盟友の大谷吉継と共に待っていた。長安は三成には不思議な同族意識があるのか、代表就任以来の再会に相好を崩した。

「これは石田殿。京にて激務の中にいるとばかり思っておりました。何用で大坂まで参られたのか」

「いや、あまり京にばかりいると、御袋様のご機嫌を損なうのでな、十日に一度はこちらに顔を出すようにしている」

「ご機嫌を損なうとは」

「二心ありと思われるのじゃ」

 長安の眉根が激しく寄った。確かに融通の利かぬ男ではあるが、石田三成ほど裏切りという言葉と縁遠い者はいないと思っているからだ。

「おいおい、長安殿が戸惑われるではないか。いや、三成が二心あると疑われたことは一度もない。ただ、淀殿は今の状況に気を病まれているところがあるゆえ、ご安心させようと配慮しておるだけじゃ」

 吉継が慌てて取りなす。お互いに気心が知れているとは言え、長安は自連の代表だ。淀殿が三成を疑う可能性があるなどと、知られたらまずい男の一人だ。


「お前は気の回しすぎだ。長安殿は事実を確かめる前に人に吹聴する方ではない」

「いや、吉継殿の懸念も分かる。本日お会いして思ったが、御袋様には確かに危うさを感じる。お心の内がどうあれ、秀頼殿が一言も発せぬまま全てを取り仕切る姿は、いくら何でもまずい。豊臣は早く然るべき後見人を立てて、秀頼殿を御袋様から引き離した方がいいのでは」

「それができぬから困っておるのだ。御袋様は二度の落城を経験されておる。そのためか他人に秀頼様の運命を委ねることを極端に拒まれる。北政所様に対してさえ、差し伸べられた手を払われる始末じゃ。ましてや我らになど、託されるわけがあるまい」


 悲観的な三成の姿に、長安は心の奥底にある苦悩を感じて、言葉が出なかった。これは既に豊臣家が危険な状態にあるとして、ここに来る前に議員たちと話し合った、様々な事態を想定した対処を、早めなければならないと思った。一人今後の対処を考えていると、呆けたような表情で物思いに耽っている太郎の姿が目に入った。

 どうも淀殿と謁見してから様子がおかしい。太郎の良さはどんな事態に成っても、冷静さを失わずに、父親譲りの頭脳を駆使して、二手も三手も先を読んだ打ち手を繰り出せるところだ。ところが、これほど危険な状況を見たというのに、どうも頭を働かせている気配がない。帰国すれば最も働いて貰わねば困る男が、どこか頼りない様子を見せることに、長安は言い知れぬ不安を感じた。



「そなたはどう見た」

 淀殿は奥の殿に戻るとすぐに、謁見中も側に控えていた大蔵卿局に感想を訊いた。大蔵卿局は淀殿と秀頼の乳母を務めた、淀殿が最も信頼する側近である。

「自連の代表様は、あまり頼りになる感じではないように思いました。まったく神の目の後を継がれた方と聞き、どのようにご立派な方かなどと期待しておりましたのに」

「フフ、あの冴えない男のことを訊いたのではない。私が訊きたかったのは、その神の目とやらの息子の方じゃ」

「ああ、あの若い男の方ですか。見目はすっきりとして良いのですが、どうもぼんやりして優れものには見えませんでしたが」

「そなたにはそう見えたか。あの男、わらわを見てのぼせておったようじゃ」

「まあ、何と言う不敬な」

 これまでの半生で、天下第一の美人として常に男の熱い視線に晒されてきた淀殿は、その内にある感情を見抜く技を身につけていた。それを知る大蔵卿局は、淀殿が怒っているのではないかと、思わず非難を口にしたが、淀殿は艶然とした表情でそうではないと否定した。


「あれは使えるかもしれぬのう」

「使えるとは」

「おそらく女を知らぬ。今までそういう女を見たことがないのであろう」

 大蔵卿局はようやく淀殿の意図に気づいた。

「そういうことでしたら、彩恵さえが適任かと存じます」

「ふむ彩恵か。確かに適任じゃな」

「すぐに仕掛けますか」

「うむ、帰国させてはならぬ。今夜にでも彩恵を使者に立てて、ここに招くのがよかろう」

「では秀頼様のお話相手をお願いする名目で」

「よいか。今は亡き殿下のお話では、自連の武力はこの国全てを相手にしても、屈することない精強さということだ。ここで自連の有力者の息子を取り込めれば、秀頼殿のために大きな力と成ることは間違いあるまい」

「さすがのご慧眼でございます。自連は領土欲も国是として持たぬ国と聞きます。我らの盾とするにはうってつけかも」

「そうなると彩恵の役目は大きいのう」


 二人は顔を見合わせて、にんまりと笑顔を交わした。その姿は戦国の軍師が主人に調略の術を語る姿を彷彿とさせた。大蔵卿局は早速段取りを進めようと、いそいそと立ち上がった。その姿を最近にない上機嫌な表情で、淀殿が見ていた。

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