第9話 戦場の波紋

 じりじりと胸が焼け付くような戦況だった。島津はよく戦っているが、輸送船ゆえの装甲の弱さと強力な射手が少ないことから、時が経つに従って劣勢になってきた。ここに来て義弘は乾坤一擲の大勝負をかけてきた。陸戦での一騎駆けにも等しい、自身を頂点にした突撃を仕掛けたのだ。狙いは明の総大将陳璘。宗茂はすぐにも加勢に行きたいと思ったが、李舜臣の動きが気になり自制した。

 李舜臣は開戦以来、二番手の位置につけたまま微動だにしない。同じく二番手につけている自分を、意識していることは間違いない。この戦の戦略的目的は、この戦の勝利ではなく、順天城で海上封鎖を受けている小西行長を救い出すことだ。もはや朝鮮撤退が決まっている以上、行長が脱出できれば順天城は敵に奪われてもかまわない。

 ここで行長脱出の方法を考えてみる。奇襲部隊を含む朝鮮の艦隊が八十隻余りということは、残りの百二十隻は以前として、順天城を封鎖しているとみていいだろう。おそらく海上封鎖の指揮官は李莞だ。もし、李舜臣を討つことができれば、李莞は封鎖を解いてこちらを攻撃に来る可能性が高い。封鎖さえ解ければ、機敏な行長はすぐさま脱出するだろう。

 つまり、この戦の戦略的目的を果たすためには、この戦場において李舜臣を討つことだと考えればいい。ところが李舜臣に動く気配はない。このまま立花隊だけで李舜臣に向かって行っても、絶妙な艦隊運動に翻弄され、時間を稼がれるだけと成るのは目に見えていた。

 宗茂は待った。戦においては必ず予期せぬできごとが起こりえる。それは大きな波紋になって戦場全体に広がっていく。島津義弘もその波紋を起こすために、決死の突撃を始めたに違いない。

 全てのヨミが間違いで自分の独りよがりに過ぎない恐怖を振り払いながら、宗茂はじっと待ち続ける。もう開戦してから一刻半が経とうとしているが、待ち望む予期せぬできごとはまだ姿を現わさない。


 義弘が突撃を初めてから半刻が過ぎた頃、戦場の雰囲気が変わった。それまで執拗に島津軍に側面攻撃をかけていた明の船団の勢いが緩慢になったのだ。明らかに士気が落ちている。何か異変が起きたようにも見える。宗茂は待ち望んでいた予期せぬできごとであることを祈った。


 明軍の動きが変わってからしばらくして、李舜臣の艦隊が動き始めた。しかも宗茂への警戒を振り捨てて、真っ直ぐに島津軍に猛進している。

「見たか、連貞」

 十時連貞は滅多に見ない感情が高ぶったような宗茂の声に、即座に「はっ」と答えた。滅多に表情を変えない連貞が、顔中に闘志を溢れさせている。

「すぐに全軍に追い討ちを知らせましょう」

「いや、速度が命じゃ。我が船だけで李舜臣の旗艦に向かう。他の者は我が船が動き出すのを見て、追従を始めればいい」


 下手に全軍で隊列を組んで進めば、李舜臣に対応されてしまう。それにもし義弘が討たれるようなことがあれば、全てが水泡に帰す。

 宗茂の船は単独で滑るように海上を進んだ。櫂を漕ぐ者は溜めに溜めた力を一気に吐き出すように全力を尽くした。目指すは李舜臣の亀甲船だ。目標まで三町の距離まで近づいたとき、李舜臣がこちらを見た。亀甲船は敵の乗り込みを防ぐために、甲板上に無数の刀錘を埋め込み、中央には帆を操るための十字の板が敷かれている。李舜臣は、既にがら空きになった島津義弘の左翼を突くために、戦場全体を見渡そうとして、甲板にかけられた板の上に登ってきたのだ。

 宗茂の船に気づいたのか、李舜臣と目が合った。燃えるような目の奥に、僅かな恐怖が浮かんでいるように感じた。宗茂は手に取った和弓を引き絞る。矢は自連の合金製だ。耐えに耐えて巡り巡ってきたこの好機に、宗茂は逸る気持ちを静めて静かに弓を引き絞る。

 行長の救出や宿敵を倒すなど、心の中に巣くう邪念が全て消えていく。ありとあらゆる感情全てを超越して、ただこの一射に、悔いの無い最高の一射を放つことに集中する。

 カンという高音が短く響いて、弓から放たれた矢が乾いた空気を切り裂く。そのまま矢は三町先の李舜臣の胸を貫いて海に落ちた。李舜臣の身体が仰向けに甲板の上に倒れ、無数の刀錘が身体に突き刺さる。


 追いついてきた味方の船から、一斉に銅鑼や鐘が鳴らされた。島津軍の船からもヤイヨの歓声が飛んだ。一隻の朝鮮軍の船が宗茂の船目がけて、全速で向かってきた。李舜臣の腹心の李英男の船だった。甲板上に立つ李英男は全身で怒りを現わしていた。およそ一町の距離に近づいたとき、李英男もまた胸を矢で貫かれて甲板に倒れた。射たのは十時連貞だった。

 それを合図に味方の船が一斉に朝鮮軍に接近を始めた。激しい矢の応酬が繰り広げられたが、徐々に立花軍が優勢になってきた。島津軍も勢いを取り戻し、再び陳璘の首を狙って進撃を始める。このまま日本水軍が押し切るかと思った矢先に、明軍の遙か後方に百隻を超える艦影が見えた。


「あれは?」

 連貞が表情をほとんど変えることなく、突如現われた敵艦隊を指さす。

「順天城沖を封鎖していた朝鮮軍だろう」

 宗茂は予期していたとばかりに答えた。

「ということは、順天城の軍は脱出可能になったのですね」

「この機を逃す行長殿ではあるまい。となれば我らの目的は果たした。長居は無用だ。グズグズしてると、怒り狂った李莞の軍に大きな犠牲を強いられる」

「しかし殿、島津は後一歩で陳璘の首に届きますぞ」

「義弘も戦人だ。戦の目的を忘れて、いたずらに敵将の首を追いかけることもあるまい」


 宗茂の予想通り、島津軍も反転を始めた。ただ、敵軍の奥深くまで突っ込んでしまったので、なかなか抜け出せないでいる。それを見て、再び連貞が訊いてきた。

「殿、島津が敵中に孤立してします。どうなさいますか?」

「心配するな。あれを見ろ」

 宗茂がそう言って指さした先には、味方の水軍が島津軍を取り囲む敵船の壁を取り崩そうと、もの凄い勢いで前進していた。

「おお、あれは宗義智殿の船団ではないですか」

「おそらく、後ろの明軍を秀包に任せて、前進して来たのだろう。律儀なことだ。では、遠慮なく退却しよう」

「殿、あれを」

 上機嫌で退却しようとする宗茂に対し、顔色を変えて連貞が前方を指さす。宗茂がその指さす方向を見ると、李舜臣の死で半分戦意を喪失して押されまくっていた朝鮮軍が、目の前の立花軍を無視して、島津のいる右の戦場へ向かい始めたのだ。

「ちっ、李莞の来援で敵軍の意思が、義弘の命を取ることで統一されてしまったか」


 宗茂は、李舜臣の仇である自分がこの戦場を離れることによって、朝鮮軍の大多数を自分への追撃に振り向け、島津が脱出しやすい状況を作り出そうと考えていた。ところが朝鮮軍は仇をとることよりも、この戦の武の象徴のような義弘の首獲りを選択した。もしかしたら多くの朝鮮の兵士たちは、李舜臣を射貫いたのは宗茂ではなく、島津軍だと思っているかもしれない。そう思ってもしかたないほど、宗茂の船は李舜臣の船から離れていた。

「連貞、朝鮮軍を追うぞ。このまま義弘を見殺しにしたら、生きて日本に帰っても、気持ちよく眠れなくなるからな」

「承りました」

 宗茂の命令変更に、心なしか連貞の声には力強さが加わっていた。


 右の戦場に向かう朝鮮軍の後方を、宗茂の船を先頭にして立花軍が襲う。強力な射手が揃った立花軍ではあるが、敵の軍船の装甲は厚く、矢による破壊がなかなか進まない。それでも立花軍は狙い先を集中して、武気のよく乗った矢を撃ち込んだので、徐々に船体が破壊され、浸水によって傾き始める船が出始めた。宗茂は浸水によって動きの止まった船は捨て置き、島津軍に向かう船を一隻でも減らそうと、迂回しながら進んでいった。

 立花軍の地道な攻撃で、宗義智の軍は迎撃負担が軽くなって、明船の壁をこじ開けることに専念した結果、ついに島津軍の最後尾にたどり着くことに成功した。宗軍はそのまま二手に分かれて左右の敵を押しやるように、島津軍の退却路を確保しようとすると、後方の島津軍もこの動きに呼応して、先頭の義弘の退路を作ろうとした。


 宗茂が何とか退却の道筋が見えたと安堵した瞬間、強烈な圧力が側面から襲ってきた。遙か遠くに見えた李莞率いる朝鮮軍が、立花軍の目の前に迫っていた。既に太陽が大きく西に傾き、西日の影響で敵が捕捉しにくくなった上、風も西から東に向かって強く吹き抜けるように成り、李莞の船団は追い風を受けて速度が増したようだ。

「しんどい流れになってきたな」

「まったくもって」

 宗茂と連貞は向かい合って弱音を吐いたが、その顔は言葉と裏腹に口元を緩めて笑みを浮かべていた。戦の最後にやってきた死地の予感が、宗茂の闘争本能に火をつけ、戦神いくさがみに愛された男の本能が、今の状況を楽しいと錯覚させた。一方連貞は、かって島津との戦で何度も見た、闘神のような主人の姿が心の中で鮮やかに蘇り、再び命を燃やすような戦ができると嬉しくなったのだ。


 宗茂は再び弓を手に取り、李莞の亀甲船に狙いをつけて弦を引き絞った。宗茂の武気を十二分に乗せた矢は、音速を軽く超えて、亀甲船の船首の竜頭に命中し、一撃でそれを破壊した。あまりの衝撃に驚いたのか李莞の船の進軍が止まる。


「挨拶は済んだ。全軍、義弘が囲みを抜けるまで、踏みとどまって李莞を食い止めろ」

 珍しく吠えるような宗茂の声が、周囲に鳴り響く。まるで、その声に呼応したかのように、李莞の船団は前進をやめ、見事な艦隊運動で左右に広がり始めた。どうやら矢戦を選択したようだ。今の宗茂の一撃を見ながら、李莞もなかなかの強情者のようだ。

「隠れた名将がもう一人いたようだな」

 そう呟いた宗茂の顔は、西日に照らされ戦に取り憑かれた赤鬼のように見えた。

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