第8話 釣り野伏
「こんままでは互いに船を消耗するのみ」
長寿院盛敦は前線の激しい矢戦を睨みながら、自軍の損耗を嘆いた。
「我らは生粋ん水軍じゃなか。敵に動きが出っまでは、焦らんで耐ゆっしかない」
盛敦と同じく苦虫を潰したような顔で、島津義弘はうめいた。それは自分自身に言い聞かせるようにも聞こえた。
目の前の明水軍の士気は高い。特に鄧の一字の旗艦に指揮された船団の動きがいい。島津軍は船を近づけて接舷を果たし、一気に敵船に乗り込んでの白兵戦が強い。しかし、船を敵船に近づけようとすると、たちまち周りの敵船に取り囲まれ、嵐のように撃ち込まれる矢によって乗り込みを阻まれてしまう。敵船の旋回性能が自軍を上回っているため、この攻撃を阻むような連動した動きができず、止む無く矢戦に戻ってしまうが、生粋の軍戦に対して自軍の船は輸送船ということもあり、装甲面で著しい差があるため、火矢などの船に対する直接攻撃が耐えられずに沈められてしまう。
それでも勇敢な島津兵は、大きな犠牲が出ても怯まず乗り込みを成功させ、敵船の制圧を果たしている。つまり自軍の船が沈められても、敵船の奪還にも成功することによって、辛うじて今のところ損耗率は拮抗している。その様子を見て、盛敦は消耗戦と言ったのだ。
時間の経過に伴い、徐々に敵船を奪取するよりも、味方の船が沈められる数の方が多くなってきている。奪取はしたものの明船の操舵に慣れないために、敵の攻撃をうまく回避できないからだ。
既に戦闘が始まって一刻が過ぎようとしていた。敵船を五十隻程度制圧したが、味方の艦船の被害は、奪取した明船を含めて百隻に達しようとしている。
まだだ! 二番手に控える立花隊に、援軍を頼もうとする気持ちを必死で押しとどめる。正面の明軍は約二百隻。その後ろに控える李舜臣の朝鮮水軍五十隻は、まだ動いていない。
一方、後方の宋、寺沢、小早川の船団は、後方と側面からの奇襲に遇ったが、うまく捌いて前線に関与させないように立ち回っている。立花隊も側面から奇襲を受けたが、一部の船を割いて他の部隊への関与を封じ込み、残った七十隻程度の船は前線への介入を窺いながら後方に待機している。
ここは我慢だ! 島津はこういう戦い方に慣れていた。前線が押し込まれて潰走するように見せかけて、深追いしてきた敵を伏兵が討つ。釣り野伏せと呼ばれたこの戦法は、十一年前に夭折した弟家久が特に得意とし、大友と一大決戦となった耳川の戦いでも、この戦法を駆使して多数の大友の有力武将を討ち取っている。
この局面で釣り野伏を完成させるには、義弘が目の前の明軍に孤軍奮闘して、李舜臣に自分が加われば止めが刺せると、本気で思わせなければならない。その展開になる前に、伏兵の役割を負う宗茂の軍が出てしまっては、意味がないのだ。最も宗茂に義弘の意図が伝わっている保証はないが。
義弘は難しい顔で戦況を見ている盛敦の方を向いた。
「全将兵に伝達せんか。我ら島津軍はこれから魚鱗の体制を作り、明の総大将陳璘に突撃すっ。魚鱗ん先頭はわしが務む。他ん隊はわしん刃が陳璘に届くように、ごつ必死で支援せーと」
「かしこまった」
盛敦は赤色の狼煙をあげた。陸地戦ではこの狼煙が上がると、義弘自身が先頭に立って一騎駆けを行った。他の兵士は義弘を助けようと脇を守りながら、側面からの横槍を相打ちも辞さない覚悟でその身をもって防ぐ。義弘の脅威の正面突破力があればこそできる戦法だが、水戦において同じことができるかは定かでない。
盛敦が伝令の手配をしている間、義弘は控えの者に、「井尻兄弟を呼べ」と命じた。義弘の祖父の日進斎に仕えた山伏で、井尻神力坊と呼ばれる忍の技と武芸を得意とする集団がいた。井尻宗神、宗岩の兄弟はその頭である。盛敦が手配を終える前に、井尻兄弟は義弘の眼前に来た。
「宗岩、おんしは島津ん兵ん中でん特別武気が強か。船首に据え付けられた鉄棒におんしの武気を注ぎ込め」
義弘が弟の宗岩に命じた鉄棒は、体当たりの際に敵の船体を破壊するために付けられたもので、先は鋭く尖っている。義弘はこれに宗岩の武気を流し込んで、破壊力を増すことを狙ったのだ。
「宗神、おんしは得意の弓でんって宗岩を援護せんか。他ん神力坊はそん身をもって宗岩を守れ」
たちまち神力坊が配置につく。大役を任された宗神、宗岩の兄弟の顔は共に紅潮していた。常に影働きを強いられてきた一族に、表の大舞台で大役を与えられたからだ。
そこに手配を終えた盛敦が帰ってきた。
「では、地獄の釜の蓋を開けに参っか」
李舜臣は戦況が大きく変化したことに気づいた。島津軍が決死の突撃を始めたのだ。先頭には大将義弘の旗艦が立った。船首に取り付けた巨大な鉄棒が、明の軍船をいとも簡単に砕いている。その衝撃は旗艦の船体にも影響するはずであるが、想像もできない強力な武気が働いて、船体への影響をごく僅かに抑えている。
明将もそのからくりに気づいたのか、鉄棒に武気を注いでいる男を弓で狙い撃とうとしているが、周りを固める兵が身を挺して守り、弓の名手が明の弓兵を正確な射撃で打ち抜くから、今のところ効果がない。側面を突こうとしても、相打ち覚悟で島津の艦船が体当たりで阻止している。その間にも義弘の船はどんどん先に進み、明の船団の真ん中付近に来ている。このままでは総大将陳璘に義弘の刃が届きそうな勢いだ。
これを防ぐためには、先に脇を守る島津の船を、自身が潰れる覚悟で前進を妨害し、後ろの明船が連動して義弘の船の側面を突くしかない。しかし、明の将たちはそれに気づかないのか、それを行うだけの艦隊運動力がないのか、果たして自己犠牲を嫌ってやろうとしないのか、全くその素振りを見せない。
もし陳璘が討たれるようなことに成れば、明軍は総崩れになる。逆に今自分が加われば亀甲船の強力な攻撃力で、島津の片翼を潰して一気に義弘を葬り去れるかもしれない。そうしないのは、島津の後ろに控える立花の船団が動かずに、じっと戦況を見ているからだ。
名将李舜臣は水軍の将であるにも関わらず、島津の陸の戦いをじっくりと研究していた。特に明軍が三万八千の犠牲を出した泗川の戦いは、その経緯を何度も検証した。二十万対七千と、通常では自軍の勝ちは揺るがない局面であるにも関わらず、義弘は籠城を選ばずに四千の兵で打って出た。その玉砕を覚悟したような鬼気迫る戦いぶりは、兵を退いたときに、自軍の誰もが力尽きたと判断した。城に戻すなと口々に叫びながら義弘の首を上げようと、全軍が義弘隊の追撃に夢中に成ったとき、側面を二千の兵で突かれた。退却していた義弘隊も反転して挟撃の形となり、味方の兵は虚を突かれて大軍であることを忘れて戦意を失い、あっという間に瓦解した。
水戦でその戦い方が再現できるとは思わないが、もし立花が島津の戦略意図を理解し、自軍を伏兵に見立てているとしたら、ここで自分が不用意に前線の戦いに加われば、その側面を突かれて、泗川の戦いが再現されてしまう。その危惧が常に頭から離れず、これまで動けずにいた。
だが、ここに来て島津義弘は退却の素振りも見せず、逆に決死とも思える突撃を敢行してきた。立花と連動しているとは、とても思えぬ動きだ。伝え聞いたところによると、立花宗茂にとって島津は親の仇だという。であれば、ここで見殺しにしようとまでは思わなくても、互いに協力して戦おうとは思ってないかもしれない。
様々な思惑が李舜臣の脳裏を駆け巡った。憎き侵略者の英雄をここで葬り、この戦で犠牲になった自国兵の英霊に捧げたい思いは強くある。しかもそれを成し遂げるのは、明軍ではなく朝鮮軍でありたいとも思った。
名将であるがゆえに、祖国愛と確実な勝利の間で、李舜臣の心は揺れた。
指揮を躊躇っている李舜臣の下に伝令が飛び込んできた。
「申し上げます。明軍副将鄧子龍様が倭軍の矢に射貫かれ、戦死したとのことです」
「何だとそれは本当か」
「はい。明軍に帯同した味方からの矢文によりますと、島津軍の突撃が止められないことに業を煮やして、鄧子龍様が自ら向かったところ、島津の弓の名手に胸を射貫かれたとのことです。勢いを得た島津軍は、先頭の義弘が明軍の総大将陳璘に、あと少しで迫りそうだともあります」
鄧子龍は明軍の英雄だ。齢七十の老将ではあるが、その人気は明兵の間では絶大で、鄧子龍がこの戦に加わったというだけで、明兵の士気は驚くほどあがった。その死をもって前線の明軍の士気は大いに下がるのは間違いない。もしかすると陳璘すら討たれてしまうかもしれない。
もう待っていることはできない。既に島津軍も全艦の四分の三を失って、見方によっては虫の息だ。今、自分が打って出て義弘に止めを刺せば、味方の勝利は間違いない。
李舜臣は立花軍をちらっと見た。鄧子龍の死は朗報として立花軍にも伝わっているはずだが、一向に士気が上がる様子はない。間違いなく立花宗茂は島津軍を嫌っている。だから倭軍にとって願ってもない朗報を耳にしても、喜びで騒ぎ立てないのだ。
「全軍に告げよ。これから我らは島津軍を急襲する。まずは亀甲船が前に出て、島津軍旗艦の脇を固める船を排除しろ。相打ちでかまわぬ。我はその後に続き鬼石曼子の首を獲る」
伝令が全艦に伝えられ、朝鮮水軍の士気は最高潮に達した。力強く櫓がこがれ、四隻の亀甲船が全速力で飛び出していく。四隻は手薄になってきた明船の間を、抜群の艦隊運動ですり抜けて、義弘の左翼を固める船に体当たりをかました。六隻の船が一塊になって、義弘の旗艦においていかれる。すぐに後続の船が義弘の脇を固めようとするが、亀甲船の抜群の運動能力で、その進路を塞ぐように六隻が位置取りしたため、前に進めずにいる。やむなく迂回しようとしたが、別の朝鮮の船が前に出てきて、これを阻止する。
義弘の左翼ががら空きになった。
「今だ。全軍でもって島津義弘の船に突っ込め」
李舜臣の号令一下、突撃の狼煙が上がり、朝鮮船団が快進撃を続ける島津の旗艦の側面に殺到した。
義弘の首を手中にしたと思った瞬間、李舜臣は目の端で、杏葉紋の旗を掲げた船が単独でこちらに向かってくるのをとらえた。
驚いて横を向くと、こちらに向かって全速力で迫る舳先に立つ立花宗茂の姿が見えた。
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