第7話 謀臣の子

 順天城を目指す日本水軍は、露梁海峡の真ん中に差し掛かったところまで進んだ。ここを抜ければ目的地はすぐそこにある。太陽は中天からやや西に傾きかけている。晩秋の日暮れは早い。狭い海峡内で地の利に長けた敵と、夜の水戦を行うのは自殺行為だ。早く抜け出して順天城を囲む敵船と戦いたいと、宗茂は願った。

 自分だけでなく先頭を進む島津義弘も、李舜臣に敗れた脇坂や来島のような純粋な水軍ではない。艦船も正規の軍船はごく僅かで、ほとんどが輸送船だ。軍船と輸送船は船体こそ同じだが、装甲には大きな差があり、戦闘が長引くほど被害が大きくなる。


 前を進む義弘の気持ちを思った。軍人ゆえ口はおろか表情にも出さないが、内心は不満が燻ってるはずだ。秀吉の九州征伐によって九州制覇の夢を絶たれた島津は、総帥である兄義久が薩摩に閉じこもってしまい、秀吉との外交は義弘が一手に受け持つ形に成った。年老いた秀吉が、どうして日の本だけで満足せずに海外に目を向けたのか、その真意がどこにあったのか、それは宗茂にはよく分からないが、秀吉に敗れて滅亡しかけた島津にとって、この戦への参陣は逃れられないものだったはずだ。それにも関わらず、義久の協力はほとんどなく、島津の面目を保てるほどの兵がなかなか集まらなかったため、文禄の役の開戦に当たって義弘は遅参してしまった。

 その失態を取り返そうと思ったわけではないだろうが、朝鮮における島津の戦ぶりは凄まじく、朝鮮・明軍からは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ恐れられた。特に義弘が任された泗川城に、二十万人の明・朝鮮連合軍が押し寄せたとき、僅か七千人の兵でこれを打ち破り、敵兵三万八千の首を獲るという前代未聞の戦果をあげた。

 この敗戦で傷つけられた朝鮮人の誇りを取り戻すために、李舜臣は義弘の首を狙ってくるはずだ。島津は憎き仇であるが、義弘の首だけは日本武士の面子にかけても渡すことはできないと、宗茂は思った。


 露梁海峡の出口に近づいてきた。露梁海峡の真ん中で待ち伏せされると考えていた宗茂は、順調すぎる進軍に逆に不安を感じた。幾多の戦場を経験した戦人の勘が危険を告げている。

 前を進む島津水軍が出口に差し掛かったところで、敵遭遇を知らせる狼煙が上がった。目の前の船が横に展開を始める。

「左に敵です」

 義弘の援軍をするために宗茂が弓を手に取ると、十時連貞が伏兵の存在を告げた。左岸の南海島の観音浦に潜んでいた朝鮮水軍が立花隊の側面を突いてきた。左翼を固める小野鎮幸が配下の三十隻で持って、必死の防戦を始めた。

「左に援軍を送りますか」

 敵の勢いが強いのを見て、連貞が進言してきた。

「敵の伏兵部隊の規模は?」

「ざっと五十隻ぐらいかと」

「ならば鎮幸に任せておいて心配ない」


 立花四天王の一人である小野鎮幸は、どの戦でも粘り強い戦い方をする。鎮幸の全身には無数の傷がある。普通なら倒れるような傷を負っても、かまわずに戦が終わるまで戦い続けるからだ。島津との戦では両足を矢で貫かれても怯まずに戦い続け、十数人の敵兵を得意の槍で突き倒した。

 今も鎮幸は敵の攻撃を自身の艦で一手に引き受けじっと絶えている。その間に鎮幸配下の艦が、じわじわと敵の側面をつくべく展開を始めている。鎮幸が討ち取られたらそれまでだが、全ての兵が鎮幸は持ちこたえると信じて、反撃の準備を始めたのだ。


「伏兵に気をとられて島津を孤立させるな」

 宗茂は分断されることを恐れ、本隊を前に進めようとしたが、再び連貞から報告が入る。

「最後尾の小早川隊が、明軍の伏兵に襲われているようです」

「伏兵はどこから出てきた?」

「南海島の沿岸にある竹島に潜んでいたとのことです」

 竹島沖を通り過ぎるときに、伏兵の気配はまったくなかった。敵ながら見事な隠形だ。二度の戦を通じて、敵軍の質が開戦時とは比べようもなく上がっている。特に朝鮮軍は変わった。最初の頃の正規軍はお話にならないぐらい弱かったが、民から義勇兵を募り、名将李舜臣が水軍を指揮するように成ってから、どんどん兵の練度が高められ、今となっては水軍に限っては優劣つけがたいほどだ。

 宗茂は迷った。

 もし最後尾の秀包の陣が破られれば、宗茂隊の後方にいる宗軍と寺沢軍も防戦に駆られ、日本軍は完全に分断される。そうなったら小西行長の救出どころではない。この露梁海峡において全滅の可能性がある。

「殿、どうされますか?」

 連貞が指示を促してきた。

「秀包を信じよう。わしはこのまま前進する」



 小早川秀包は毛利元就の九男として生まれた。当時秀吉は七十才、長兄隆元は四年前に早世しており、甥にあたる輝元は既に元服を果たし十四才にして毛利家当主と成っていた。やがて秀包は子供がいない兄の小早川隆景の養子と成ったが、十七の年を迎えたときに、既に天下人として権勢を振るっていた秀吉の下に人質として送られた。

 秀吉は武勇の才に秀で、姿形も美しかった秀包を大変気に入り、河内に一万石の領地を与えて紀州攻めや四国攻めに従軍させた。そこでも抜群の戦功を上げたことから加増が続き、ついには筑後の国で七万石の領地を有するように成った。

 文禄の役では、自ら兵を率いて海を渡り、碧蹄館で李如松率いる総勢五万の明軍を、父隆景や宗茂と共に打ち破った。帰国後は奮闘ぶりを評価されて加増され、筑後久留米十三万石の大名と成っている。宗茂とは朝鮮での戦が始まる前に、佐々成政の治める肥後国で一揆が起きたときの鎮圧軍に共に加わり、互いの力を認め合い性格的にも気があったことから祝勝の宴で義兄弟の契りを結んだ。


「明の水軍の士気はなかなか高いようですな」

 秀包の重臣、椋梨景良は背後にぐんぐんと迫って来る明の船団を見ながら、感心したように主人に呟いた。

「太閤が亡くなられて、日本軍が相次いで帰国する中で、最後に残った我らを殲滅しようと意気が上がっておるのだろう。舐められたものよ」

 景良は、そう言いながらもこの若き主人が、手強い敵と戦うことを楽しんでいるように感じていた。秀包の父は安芸の小領主の身から、己の智謀と果断な戦ぶりで中国八カ国の太守に成り上がった。この老臣の目には、秀包こそ偉大な父の才覚を、最も濃く受け継いだように見える。事実、見ようによっては全軍崩壊の危機に臨んでも、秀包は慌てることもなく涼しい顔で、迎撃の指示を出している。家臣の面々も秀包の武才を信頼しており、指示に従って見事な艦隊運動で、前進しながら後方の敵の迎撃体制を形作っていった。


 明の船団が秀包の船に対して、五町の距離に近づいてきたとき、それぞれの味方の船から一斉に「放て」の号令が響き渡り、南蛮気道の矢が音速の五倍に匹敵する速度で明船を貫いた。一撃で艦の前部を大破した八隻の明船が、浸水によって速度を鈍らせ徐々に沈んでいく。南蛮気道は、イスパニアから輸入した南蛮クルスという名の十字架を媒介にして、五人の武気を矢に籠める技だ。矢は空気抵抗で燃え尽きないように、木製ではなく自連で開発した鉄より遙かに軽い合金で作られている。熱心なキリシタンの秀包は他の大名よりも多くの南蛮クルスを保持している。加えて小早川水軍の流れを汲む射手たちは、揺れる船上でも苦もなく南蛮気道に必要な集中力を発揮できる。


 痛烈な一撃を受けた明水軍ではあったが、それに屈することなく、大破した八隻を迂回して二町の距離に迫ってきた。既に敵の矢の射程距離に入ったため、狙い撃たれるのを避けて、南蛮気道の射手たちは船首に移動する。変わって通常の弓兵が船尾に立った。

 毛利家に連なる大名家は総じて弓の名手が多い。小早川家の弓隊も、弓兵の一人一人が効率よく武気を矢に流し込み、鉄盾をも貫く威力を誇っていた。船尾にずらりと並んだ弓兵が「撃て」の合図と共に、士気の高い明兵をも怯ますほどの矢の嵐を撃ち放つ。

 明船の甲板に立つ弓兵が、バタバタと倒れていき。明の指揮官は矢戦での不利を悟って、特別製の分厚い鉄盾を前面に立てて接近してきた。ついに先頭の船が小早川隊の船尾に接舷し、明の兵士が次々に乗り込んでくる。最後尾の戦いは、敵味方があい乱れる白兵戦に移行した。


「このままでは消耗戦ですな」と、景良がぼやく。

 白兵戦でも小早川軍は有利に戦いを進めていたが、百隻近い敵の船団から次々に増援が押し寄せてくる。時間の経過と共に、味方の損害も徐々に増えていった。大将の秀包は景良のぼやきを無視して、きょろきょろと戦場を見回していた。

「あれだ」

 秀包が明船の遙か後方の船を指さす。

「あの船の上に明軍の将がいる」

 秀包に言われて、景良が目を懲らすと、確かに将軍らしき男がさかんに指示を飛ばしていた。大げさな手振り身振りが、秀包の目についたようだ。

「どうだ景良、弓比べといこうか」

 秀包が珍しくいたずらっぽい顔で景良に勝負をもちかけた。

「的はあの敵将ですな」

「ああ、その通りだ。互いに呼吸を合わせてあの敵将を狙う。当たった方が勝ちとしよう。おれはこの白い羽の矢を使うから、お前はこの黒い羽の矢を使え」

 秀包が差し出した矢は、景良も使ったことがある自連製の合金で作られた和弓用の矢だ。距離は五町以上ある。強力な武気を発する弓の名手でも、命中させることは至難の業だ。

「承りましょう」

 秀包は秀吉の御前で遠矢を披露するほどの弓の名手だが、景良も長年戦場で鍛えた腕を持つ。この主人と弓比べができる喜びに、景良は思わず戦を忘れて興奮した。


 通常の弓から放たれた矢の速度は、拍子一つ(一秒)の間に百十尺(三三メートル)飛ぶ。これに武気を加えると十倍の三町(三二四メートル)以上飛ぶようになり、音の速さに近づく。しかし秀包や景良のような弓の名手が放つと、その速度は更に増し四町(四三二メートル)以上飛ぶようになり、完全に音の速さを超える。音速を超えると、木製の矢は空気抵抗で燃え尽きてしまうから、景良が全力で矢を放てるように、秀包は自連製の矢を渡したのだ。


 二人は並んで、目標に狙いをつけた。全ての武気を矢に集中させ、静かに弓を引き絞る。心の中では波紋一つ無い水面が現われ、その中に目標が影絵のように映る。その絵が明確な形に成り、鮮明さを際立たせたとき、二本の矢が弦から放たれた。


 矢は音速を超え、五町の距離を飛来し、見事に目標を貫いた。

「お見事」

 固唾を飲んで見守っていた周囲の者は、見事に的に当てた二人にやんやの喝采を送る。ところが、目標の戦場からは二人の人影が倒れた。秀包の矢は正確に敵将を貫いたが、景良の矢は隣の副官の胸を貫いたのだ。

「狙ったな」

 秀包が景良の意図を見抜いて苦笑いをする。

「これで敵は指揮が続けられないでしょう」

 景良は秀包の矢が命中することを疑わなかったから、指揮官が倒れたときに指揮を受け継ぐはずの副官を狙ったのだ。果たして明船は指揮系統が破壊され、動きが散漫になり互いに船をぶつけ合うなど大混乱に陥った。

「まだまだ伏兵はいるだろう。気を抜かずに前進しろ」

 小早川軍は少しばかり間の開いた前を詰めるために、船の速度を上げた。

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