第6話 それぞれの思惑

 丸に十次の家紋をつけた旗が風にたなびく。島津水軍の旗艦の上には、島津の大将義弘が胡座に腰掛けていた。その脇を義弘の甥の豊久、新納旅庵、伊勢貞成、長寿院盛淳らが固めている。まもなく巨済島からの救援軍を代表して、立花宗茂がやって来る。

 泗川城が朝鮮水軍によって海上封鎖されたとき、義弘は敵の艦隊から得体の知れない危険を感じていた。敵の艦船数は義弘率いる島津水軍と同じ二百隻。打って出て勝てない敵ではない。敵将は李舜臣の甥の李莞と聞いている。布陣を見る限り誘っているようにも見える。配下の将たちは迎撃を口にするが、義弘は出撃を許さなかった。一つは敵の亀甲船によって、島津軍が得意とする白兵戦が封じられていること。もう一つは立花宗茂が救援にやって来ることへの、確かな予感があったからだ。


 予想通り宗茂は巨済島の全軍にあたる三百隻の艦船を連れてやって来た。義弘は全軍に出港の用意をさせ、戦闘が始まり次第挟撃の準備にかかった。ここで二百隻の敵の艦船を全滅させれば、順天城の救援も容易くなる。

 宗茂は相手を逃がさぬように、鶴翼の陣で包囲の構えだ。宗茂と自分の考えが同調してることを知り、「やっもんじゃ」と呟いて不敵な笑いを覗かせた。ところが呟きが終わった瞬間、敵は鶴翼の陣の僅かな隙を突いてまんまと脱出に成功し、そのまま西方に消えていった。義弘と諸将は去りゆく敵の姿を、呆然として見送った。やがて諸将の口から、まんまとしてやられた宗茂を嘲る声が上がり始めた。皆が封鎖によって溜まりに溜まった鬱憤を、爆発させたのだ。

「せからしか」

 義弘の大音声が響くと、皆ぴたりと口を閉ざした。島津兵にとって義弘は戦神であり、その言葉は絶対だった。死んで来いと言われれば、勇んで前線に突撃する。その姿は意思を持った死兵と言えた。


 宗茂が乗艦してくる。宿敵の姿に諸将の目が険しくなるが、ピタリと口を閉ざしている。ここで命じられもしないのにおかしな言葉を放てば、義弘の逆鱗に触れ、下手すれば斬られるからだ。

 義弘と対峙すると、宗茂は不機嫌そうな顔で目をそらした。それを見て、若いなと、義弘は思った。この風神雷神と並び称された、二人の名将を父親に持つ若者は、宿敵の前で犯した自分の不手際を思ってすねているのだ。

 あれは宗茂一人の罪ではない。援軍の姿を見たとき、鬼と呼ばれた義弘の心に少しだけ犠牲を惜しむ気持ちが芽生えた。それは追い討ちの号令を少しばかり遅らせる結果と成った。宗茂たちより先に島津が敵艦と戦闘を始めていれば、みすみす取り逃がすことはなかったはずだ。逃げられたとしてもそれなりの打撃を与えたことは間違いない。しかし実際には敵将は、義弘を無視して援軍の動きに集中し、隙を見るや迷わずそこをついて海上に逃れた。だから責められるべきは自分なのだ。


 黙っていた宗茂が口を開いた。

「すまぬ。俺の不手際だ」

 義弘は感情に流されるままに謝罪を口にする宿敵に、心ならずも好意を感じた。本来であれば、首尾良く敵軍を掃討し、その手柄でもって次の順天城救援戦で、島津に先陣を依頼する算段であったはずだ。それが言い出せずにいる。

 才に溢れた宗茂であれば、義弘が僅かに出撃が遅れたことに気づかぬはずがない。それをも予期して作戦を立てたのであろう。だから突撃型の魚鱗ではなく、多少の痛手も覚悟して鶴翼の陣を選んだ。結果として味方の将に足を引っ張られたのだが、それをも自分の責と捉えている。


「小賢しか。わいには任せちょれん。小西ん救援は島津が先陣を承る」

 義弘は周囲に響き渡る大音声で、自ら先陣を申し出た。

「いや、この失態の責任は俺がとる。先陣は立花だ」

「びんたを冷やせ。岩屋城で散った父親を思いださんか」

 島津に殺された紹運の話を持ち出され、侮辱と受け取った十時連貞は、怒りのあまり刀の柄に手をかけた。それを見て豊久も槍を構えた。

 一触即発を回避したのは宗茂だった。

「そうか、分かった。先陣は任せよう」

 先ほどまでの見苦しい表情はすっかり消えて、いつもの宗茂らしい男ぶりのいい笑顔が浮かんでいた。

「分かればよか」

 義弘は見事に立ち直った宗茂に、満足そうに頷いた。連貞と豊久は目の前の急展開に呆気にとられ、口がぽかんと開いてしまった。

 父紹運が岩屋城に籠もったとき、宗茂は立花山城でじっと絶えた。その忍耐が島津への報復の一撃につながったのだ。義弘が伝えたい意図を、宗茂はしっかりと感じ取った。相容れぬ宿敵ではあるが、見事な将だと言えた。去りゆく宗茂の後ろ姿を見ながら、義弘は雄叫びをあげた。

「全軍に布令を回せ。これから順天城の小西行長を救援すっ。先陣はこん島津じゃ。チェストー」

「チェストー」

 豊久以下の諸将も雄叫びをあげる。島津軍は気合い十分に五百隻の艦隊の先頭に進み出た。



 李舜臣は甥の李莞が無事に帰還したことを喜び、両手をあげて出迎えた。

「よくやった。見事に倭軍を出し抜いたな」

「はい。敵は包囲の陣をとりましたが、総帥のおっしゃったとおり僅かに乱れが出て、うまく抜け出ることができました。島津が突っ込んでくるのではと、ヒヤヒヤしましたが、総帥の言葉通り我が軍には届きませんでした」

 それも李莞の見事な艦隊運用にあるのだが、敵も迫ってくるので、これ以上の称賛の言葉を飲み込んで、李舜臣は言った。

「これから我らは明軍と共に露梁津で倭軍を迎え討つ。お前は順天城の包囲に回って、小西を封じ込めろ」

 李莞は前線で戦いたいように見えたが、尊敬する伯父の命令に特に不満を述べることなく従った。

「大戦果を期待します」

「必ず義弘と宗茂の首を獲ってくるぞ」

 伯父の力強い言葉に送り出されて、李莞は自分の艦に戻っていった。


 李舜臣は陸上戦で自軍を徹底的に打ち破った倭の名将を、得意の水上戦で葬る気でいた。それは倭軍の侵攻によって、踏み荒らされた祖国と死んでいった僚友の仇をとる思いと、今後二度と侵攻など思いつかないようにするための見せしめだった。


 李舜臣は決して力攻めをしない。白兵戦で自軍を圧倒する倭軍に対し、甲板をびっしりと刀錘で覆った亀甲船を作って、乗り込みを防いだ。船体には矢窓を多数設け、左右に回り込んだ敵を狙い撃ちする。更に推進力は帆と櫂の両方で得て、狭い海域でも抜群の旋回性能を確保した。


 倭軍を誘い込む露梁津は、大勝利を収めた鳴梁海峡と同じく、狭い海域に浅瀬と小島、そして行き止まりの湾などが有り、様々な罠を仕掛けるのに絶好の場所だった。

 倭軍は必ず救援にやって来る。倭王が死に撤退を余儀なくされる中で、李莞に翻弄された事実は、朝鮮水軍を残したままでは安全な撤退はできないと、確信させたはずだ。安全な撤退を保障するために、必ず自分がいるこの場所にやって来る。


 腹心の李英男がやって来た。

「物見の者より、倭軍の船影が見えたと報告が来ました」

「よし」

 李舜臣は思わず歓声をあげた。全てが思い通りに進んでいる。倭軍は再び死地に赴いた。

「では、鄧子龍に打ち合わせ通り、出口で待ち伏せするように伝えてくれ」

 明将の鄧子龍は齢六七を数える老将であったが、その闘志はいささかの衰えもなく、安心して先陣を任せられる良将だった。立派な体躯を持ち、若い頃は各地の反乱や異民族の侵攻を、抜群の武勇でもって鎮圧したが、文民政府の例に漏れず、讒言によって何度も罷免された。それでも国難のたびに復帰し、常に勝ち続けた男だ。今回も罷免され故郷で過ごしていたところを、倭軍の襲来に慌てた明政府によって再び将軍に復帰した経緯を持つ。


「敵の先鋒が分かりました。島津です」

「島津?」

 李舜臣は、李莞の働きによって、先鋒は立花だと考えていただけに、虚をつかれた思いがした。少しだけ、先に暗い影が差したように感じた。

 立花は大将の宗茂を始めとして矢の名手が多く、二番手当たりにつかれて先鋒を援護される方が嫌な相手だった。逆に島津は粘り強い戦いを得意としており、先鋒に立って踏ん張られると手強い相手と成る。しかも二人はあまり仲良くないと聞いていたが、そうした嫌悪を超えて、それぞれが戦略上の適所に治まっていた。


 急速に芽生える不安を振り払うかのように、李舜臣は自軍の備えを振り返り始めた。朝鮮水軍の精鋭たちが、小島や湾に巧みに埋伏している。敵が自軍の先鋒と闘い始める頃合いを狙って、これらの伏兵が一斉に出撃して挟撃する手はずだ。

 多少の食い違いがあったとしても、配備に抜かりはない。絶対に勝てると、再び自身の心を鼓舞した。

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