第5話 翻弄


 慶長三年(一五九八年)十一月十七日、立花宗茂、高橋直次、宗義智、寺沢広髙、小早川秀包、筑紫広門の六人は、約三百隻の艦隊を編成して島津義弘が籠もる泗川城に向けて出帆した。

 盟友小西行長を一刻も早く救いたいと願う宗義智は、艦隊の先頭に立つことを主張したが、自分が一番目立つ位置に立ってこそ、借りを作りたくない島津義弘は打って出るはずじゃと宗茂は主張し、義智を説得した。

 立花家の杏葉ぎょうよう紋を記した旗を掲げた安宅船が、艦隊の先頭を滑るように進む。上手い具合に追い風が吹き船は速度を増していく。この分なら一刻も経たないうちに泗川城沖に着くだろう。


「我らが泗川城に向かったときに、朝鮮水軍はどのような手を打つでしょうか」

 戦闘時はいつも宗茂の傍らに控える副官の十時連貞が、宗茂の胸の内を問うてきた。いざ戦と成れば、宗茂の指示に黙々と従う連貞であったが、強敵を前にして敬愛する大将の考えを聞いてみたかったのだろう。

 問われた宗茂は笑顔で答える。

「変幻自在の相手の動きを、今の時点で予測しても仕方あるまい。戦場の全ての動きを見据えた上で、どう変化するかは名将にだけ許された特権であろう」

 宗茂は考えるなと言うが、それでも連貞は食い下がった。

「李舜臣が泗川城を囲んでいればそうかもしれませんが、あいにくと李本人は露梁海峡の封鎖に回り、泗川城沖で指揮するのは甥の李莞と聞きます。それならば李舜臣が何か策を授けているのではないでしょうか」

「つまり李舜臣は我らのこの動きを読んでいるといいたいのだな」

 連貞は申し訳なさそうに下を向いた。猛将が見せるその姿が可愛くて、宗茂はすぐには言葉を続けなかった。宗茂は当然李舜臣はこの作戦を想定した対応策を打っていると思っていた。そう思ってしかるべき将だ。



 遡ること六年前、朝鮮へ侵攻した日本軍は釜山から敵無しの状態で進軍し、半月後には首都ソウルの漢城を制圧した。全土制覇はもはや時間の問題と、たかをくくっていた日本軍の前に颯爽と現われたのが、李舜臣が指揮する朝鮮水軍だった。

 李舜臣は七十四隻の艦隊を率い、巨済島の玉浦おくぼに停泊していた日本水軍を奇襲した。この戦で朝鮮水軍は、日本水軍が五十隻中二六隻を失ったのに対して、僅か一隻の損害に留める大戦果をあげた。

 続く泗川海戦では、李舜臣自ら考案した亀甲船が登場し、日本軍得意の接舷しての切り込みを封じて、再び大勝した。敗戦が続く中で秀吉は見るに見かねて、村上水軍の来島通総を差し向けるが、来島も李舜臣の前にあえなく撃破されてしまった。

 これ以上の敗戦は全軍の士気に関わると心配した秀吉は、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明の三将を差し向けた。九鬼嘉隆は信長の水軍大将を務め、当時無敵と評された毛利水軍を破った男で、脇坂と加藤は秀吉直下の七本槍として、それぞれ淡路、伊予と水軍の強い国を治めていた。

 李舜臣の神がかった強さを警戒した秀吉は、三将に打って出ることを禁じ、巨済島の防御を固めるように指示したが、脇坂が抜け駆けの功を狙って単独で出撃し、李舜臣の囮作戦にまんまと嵌まって七十隻中六十隻以上失うという、例を見ない大敗北を喫した。日本水軍の被害はさらに続く。脇坂の救援に来た九鬼と加藤は、味方の大敗北を知って再び防御に徹するために引き返すところを突かれ、何もすることができずに被害を被った。

 その後の釜山奪回こそうまくいかなかったものの、水上戦で有利にたったことで、圧倒的に負け続けた陸地戦の劣勢を、明・朝鮮連合軍は多少なりとも挽回した。


 文禄の役ですっかり祖国の英雄になった李舜臣だが、朝鮮南部の水軍を統べる司令官と成った直後に、危機を救った味方の讒言によって、あわや死刑という危機を迎えた。過去の抜群の戦功により、なんとか助命されたがただの一兵卒に落とされ、指揮権を失った。

 運命とは皮肉なもので、李舜臣が失脚後すぐに慶長の役が始まった。讒言の中心人物で朝鮮水軍の司令官に返り咲いた元均は、復讐に燃える日本水軍に連敗し、最後はやる気を失って酒を飲んでいたところを日本軍に急襲され、あっけなく戦死した。

 元均の死によって空席に成った水軍の司令官に指名された李舜臣だったが、相次ぐ敗戦により自ら作り上げた水軍は、十三隻の艦船を残すのみの壊滅状態にあった。日本水軍はこの機を逃すなと百三三隻もの大船団で艦隊を組み、虫の息の朝鮮水軍に襲いかかった。

 さしもの李舜臣もこれで終わりと思われたが、ここで魔術師のような奇策が仕掛けられる。急流で狭い鳴梁海峡に誘い込まれた日本軍は、漁船に見せかけて埋伏していた朝鮮水軍に奇襲され、来島通総が戦死し藤堂高虎は重傷を負い、敵船が無傷の中で兵船三一隻を失うという完敗を喫してしまった。その後明水軍の合流もあり、李舜臣の水軍は以前のような勢いを取り戻し、再び日本水軍を圧倒し始める。



 李舜臣の類い希な将才と、戦を知らない文民政治家たちに翻弄された悲劇を振り返り、宗茂は朝鮮の政治体制に対し、やりきれない思いに駆られた。幸い亡き太閤は生粋の戦人であり、次に覇者と成る者も戦人であることは間違いないが、次はどうか。そして次の次はどうか。国内が平和に満たされれば、やがて戦人は政治の舞台から排除されていく。そのときに今の朝鮮のような国難が起きたとき、政治家は国を守れるのか。今の朝鮮政府のように、いたずらに軍の人事に介入し、更なる危機を招くのではないか。

 宗茂は苛立ちを覚えながら、ふと前を見ると連貞が黙って立っていることに気づいた。質問の答えが欲しいのに、催促することもできずに、そのまま動かずにじっと待っているのだ。


「李舜臣も思ったように戦えるわけではない。あれほどの将才を持ちながら、馬鹿な政府の思惑に振り回され、しなくてもいい苦労をしている」

 連貞は欲しい答えではなく、敵将に同情するような主君の言葉に、その意図が分からず動揺したが、気を取り直して答えた。

「大友もそうでした」

 連貞なりに考えたのだろう。だが宗茂が言いたいこととはかなり違う。

「義統殿は戦場に出ていた。将としての才がないから改易と成っただけだ。だが、朝鮮政府は違う。戦場に立たない文官どもが軍の人事に口を挟み、負けなくてもいい敗戦を喫しても責任をとらない」

 今度こそ宗茂の意図を理解した連貞は、明るい声で言った。

「聞くところによると、自連もそうらしいです」

「あそこはまだ真野勝悟が生きているだろう」

「いえ、軍の人事を含めて、国政には絶対に自ら口を出さない。国難にあたって求められれば意見を言うだけと聞いています」

「そうか、自連か」

 真野勝悟がどのような意図で、そのような政治体制にしたいのかは分からないが、今伏龍とか神の目と呼ばれる男だ。自分などには想像もつかない深い思いがあるのだろう。

「生きて帰ったら会いたいものだな」

 宗茂はそう呟いて、再び無言に戻った。連貞はまだ答えを得ようとそこに立ち続けていた。



「敵軍です。敵軍が見えます」

 物見が大声で敵に接近していることを告げる。宗茂が目を懲らして前を見ると、まだ小さいが確かに敵の艦影が見えた。

「味方の全艦に合図を送れ。一挙に敵を葬るぞ」

 既に出航前に同行する諸将には戦闘時の陣形を指示してある。先鋒の宗茂を中央において、艦隊運動に優れた宗義智と小早川秀包が左右に広がり、その間を筑紫広門と寺沢広髙が埋める。陸地戦では鶴翼と呼ばれる陣形で、敵を押し包む配置だ。敵は突破を図ろうとするだろうが、陣形を整える隙を与えないように全軍で攻め立てる。戦線が膠着すれば、必ず島津義弘が敵の背後を挟撃するだろう。


 だんだん敵影がはっきりしてきた。敵船はおおよそ二百隻といったところか。三百隻の味方をもってしたら包囲も難しくはない。

 敵に近づくにつれ、味方の両翼がせり上がって来て、包囲の位置についた。

「寺沢軍が少し遅れているな」

 宗軍の艦隊速度の追いつけなくて、左翼の先と宗茂の軍の間に少しの隙間ができた。

「まずい」

 泗川沖を封鎖していた朝鮮水軍が、突然回頭して舳先をこちらに向けた。そのまま隙間に突っ込んで来る。戦闘の艦には李と書いた旗がたなびいていた。寺沢軍が必死で穴を塞ごうとするが、逆に敵軍の前に進む力に圧倒されて、脇に蹴散らされる。敵の艦船は一本の槍のように成って自軍の裏に突き抜けた。このまま反転されたら、立花軍は大被害を受ける。宗茂も全艦に反転命令を出すが、混乱して足並みが揃わない。


 立花軍の危機を察し、反転を首尾良く終えた両翼の宗軍と小早川軍の艦が、一斉に自軍の中央に向かい始めた。朝鮮水軍に負けない艦隊運動だ。

「よし、回頭しなくてもいい、全員船尾に回り、矢の雨を降らしてやれ」

 立花軍が持ちこたえて、味方の両軍が敵の側面をつけば、敵の勢いを止めることができる。後はしゃくに障るが、島津軍の来援を待てばいいだろう。想定よりも犠牲は伴うが、数の力でこの場はなんとか乗り切れる。


 ところが、意に反して敵は反転して来なかった。そのまま沖に向かって突き進み、姿を消した。反撃を予期して構えていた宗茂は、拍子抜けして立ち竦んだ。

「逃げましたな」

 同じく弓の構えを解いた連貞が、呆れたように呟いた。敵は囲みを抜けると、慌てる日本軍をあざ笑うように、そのまま逃げ去ってしまった。

「こけにされたな」

 宗茂は悔しそうに唇を噛んだ。島津の大艦隊がこちらに近づいてくる。

「会いたくないな」

 作戦を共有するために、会わないわけにはいかないが、今の一部始終を義弘に目撃されたのが悔しかった。

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