第3話 覇道を往く者
まだ夏の残光が厳しい大阪湾に、突如現われた鋼鉄の船体を持つ三隻の大型船は、瞬く間に町の人々の話題となった。欧州への航海以外に使われることがなかった船だけに、国内の港にその威容を現わすのはこれが初めてで、帆柱の代わりに船体から突き出た二本の煙突が鬼の角を連想させるのか、人々は蒸気船を
船体の前部に掲げられた旗には友野家の紋が記され、これが自由連合の豪商友野家の持ち物だと示していた。鬼船は大阪港に接岸し、その船体から合計三千人の兵が地上に降り立った。人々はその兵たちが徳川の兵だと知り、友野家が積み荷の代わりに人を運んで来たと知り、町中にその噂は広まった。
鬼船はその日の間に再び駿府に向かって出港したが、誰が広めたのか鬼船についての情報が次々に明かされ、波紋のように広がっていった。それは当然大阪の武家屋敷にも伝わり、諸大名は日ノ本の制海権が自連に握られたことを知る。
秀吉の死後、家康は伏見城内の徳川屋敷に詰めたまま、豊臣政権の運営に積極的に参加するように成っていた。当面の最優先課題は朝鮮に派兵した軍の撤退であり、和議を有利に進めるため、秀吉の遺骸は伏見城内に留め置かれその死は秘匿された。
五大老の話し合いを終えて戻ってきた家康は、すぐさま本多正信が控える部屋に向かった。家康が現れると、正信は「お疲れさまでした」と頭を下げた。
「天下人が亡くなったというのに、葬儀も行えず遺骸も城内に置いたままにされるとは、なんとも憐れな話よのう」
「仕方ありますまい。朝鮮側に殿下の死が伝わっては、和議も難航いたします」
「ふむ。まあ分かってはおるのだがな。それよりも京へ兵を呼び寄せたのは完全に裏目に出たな」
「まことに申し訳ございません。まさか自連が船で兵を運んでくれようとは――」
正信は最後口ごもっていた。政権内での地位を高め、同時に自連を混乱させる意図が鮮やかにかわされ、自連の海軍力を喧伝する結果になってしまったのだから無理もない。
「まあ、よい。あの神の目を持つ御仁には、若いころからずっと負け続けてきた。今更一つ二つ負けがついたとて、悔しいとも思わん」
もっと叱責されると思っていた正信は、まったく悔しそうな顔をしていない家康に、恐ろしさで心が凍り付きそうになった。忍従の人と世に言われているが、正信が知る家康は恨みをため込む男だ。他の者がいるときは決して表には出さないが、正信の前だけは怨念に満ちた顔を平気で晒していた。
直近で思い出すのは、愛する妻と将来の大器と期待した嫡男を、信長の命で同時に失ったときの顔だ。すべてが終わった後で正信の前で見せた顔は、憎悪のあまり鬼と化した醜悪なものだった。終始、信長との交渉役を務めた酒井忠次を呪う言葉を吐き、報復を誓っていた。人である以上どこかで吐き出さねばならない感情だと、黙って聞いていた正信だったが、その直後に忠次に謁見し、大儀であったと悲しみを一切見せずに穏やかに接している姿を見たときは、心の底から恐怖がこみ上げたものだ。
そのときの忠次は宿老らしくお家のために尽力した思いで、申し訳なさなど一切見せず、むしろ得意気にさえ見えた。きっと家康は用済みになったときに忠次に報復すると、正信は確信した。そして今、自分が同じ立場にある。ここで間違えれば後日自分は抹殺される。ひたすら頭を垂れて反省の意を示した。
遡ること十年前に、怨嗟の感情が溜まりに溜まった家康は、観世黒雪の悪魔の心に同調し、この世を破滅させる行動に突き進んだことがある。結果的には徳川は関東に確固たる基盤を築けたのだが、もしあのとき自連の面々が黒雪を倒さなかったら、民は死に絶え最終的に徳川も豊臣も無くなっていたかもしれない。
「思えばわしはあの神の目の御仁と戦うことによって、今がある気がする」
「はっ?」
独り言のような家康の言葉に、思わず正信は頭を上げて家康の顔を見た。その顔は今まで見たことのない清々しさを伴っていた。もしかして影武者と話しているのかと、心に疑いが芽生えたほどだ。
「初めて戦ったのは、今川を滅ぼそうと兵を進めた時じゃ。わしは三河の平定を終え、浜松を抜き、駿府の手前に迫っていた。人質として常に卑屈さをかんじながら過ごした地を、我が手中に収める喜びで、わしは得意の絶頂にあった。それをあの御仁は周到な準備で罠をしかけて、わしは大敗を喫し命からがら岡崎に逃げ帰った」
その戦を正信は知らない。三河を平定する最中に起こった一向一揆で、正信は一揆側に加わってしまい、敗れて逐電したからだ。
「その後もあの御仁との戦は続いたが、いつもわしは負け続けた。だがのう、不思議なもので、小牧長久手で太閤の数倍の兵と対峙したとき、わしはまったく負ける気がしなかった。どう言ったらいいか分からぬが、戦場で感じる圧がまったく違う。何が飛び出すか予想がつかぬ不安がきれいに消えて、何かのびのびと戦うことができたのじゃ」
「そのようなものでございますか」
正信はそうした武将の心情には疎い。数字として見える兵力や兵糧ぐらいでしか、戦を見たことがないからだ。同じ本多一族の忠勝などは、兵の士気こそ勝敗を分けるとよく口にするが、腹一杯食って相手より多くの兵を集めれば、士気など下がるはずはないと思ってしまう。だがそれだけではないと言うことも今は分かる。
「ところで正信。いよいよ天下に片手がかかってきたのう」
家康は先ほどまでの思い出話をしていたときと打って変わって、猟師が獲物を目の前にしたような厳しい顔に変わっていた。
「はい。豊臣は内部から崩れることでしょう」
「最も懸念すべきは誰だと思う?」
「まずは前田殿かと」
「ふむ。やはり利家か。奴は信望があるからのう」
「武断派、文治派の両方から慕われておりますし、蒲生、宇喜多などの諸大名の信頼も厚い方ですから、前田殿が存命中はなかなか結束を乱すのは難しいかと」
「何か手を打っておるのか?」
「一年前から、前田家の台所方にこちらの手の者を忍ばせております」
「毒を使うのか?」
「はい。毎日の食事に銀の毒をごく少量含ませております」
「銀の毒のような知られたものを、前田家の毒味役は気づかぬのか」
「これはただの銀の毒ではなく、南蛮の処方によって透明化された上、無味無臭に施されております。生半可な毒味役の舌では気づきますまい」
家康が一瞬不安を顔に滲ませた。徳川家は旧姓の松平を名乗っている頃から暗殺の絶えない家だった。祖父清康は家臣に殺され、父広忠も二五才で死んだことから毒殺が疑われている。元々三河には十八松平と呼ばれるほど一族が多く、当然一族内の主導権争いも激しかった。徳川への改名もそうした一族と区別する意味合いも大きかった。
正信は主人の変化に気づいて口を閉ざした。家康が不信を感じたときに、下手な言いつくろいは疑いを招く。その用心深さは頼もしくもあるが、家臣としては最も気をつけるべき心得であった。
「諸大名との縁組みは順調に進んでおるか」
「はっ。伊達家の
「三成は怒るであろうな」
「まあ、黙ってはいないでしょう」
三年前の文禄四年(一五九五年)に、秀吉は合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を禁じた。もちろん今正信が述べた話は、元より政権内での合意をとるつもりはない。
「豊臣家に二心を抱く専横行為と言われたときは、どうなさいますか?」
「その頃利家が存命なら、謝罪をして和解しよう」
「ほう。一触即発状態で対峙しないで、前田殿の顔を立てられるのですか」
「どうせ長くはないのであろう。政権内でわしに対抗する支柱として、その存在を大きくしてやれば、失ったときの喪失感も大きいものよ」
「怖い方だ。昔の真っ直ぐに戦をしていた頃とは大違いだ」
「豊臣は大きい。まともに戦をすれば負けないまでも勝つことは難しい。大事なのは覇者として認められるような勝ち方ができるかどうかじゃ」
家康は変わった。信長、秀吉に恭順し、勝悟と戦い負け続けた半生が、全て養分となって大きく育ったのだと正信は思った。
「もう少しの信望じゃ。大願は成る」
力強い顔で勝利を予想する家康を見ながら、大願が成就したときに起きることを、正信は思った。昔恨みに感じた大名や疑わしい者はどんどん取り潰しにあう。そしてその追求は譜代の者にも及ぶ。その中に絶対に自分は入らぬと、正信は強く念じた。
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