第2話 ペテン師誕生


「父上、ついに太閤様が――」

 今川屋敷まで全力で走ってきたのか、太郎は息も切れ切れな様子で異変を告げようとした。勝悟は苦しそうな様子を察して、太郎の言葉に続けた。

「そうか、ついに逝かれたか」

 太郎は、最後まで言葉の続かなかった己を恥じ入るように小さく頷いた。

 慶長三年(一五九八年)八月十八日、信長の偉業を継いで天下の覇者と成った男は、ついに鬼籍にその名を刻んだ。


「つきましては、長安殿が父上と氏真様に、至急政庁まで来て欲しいと申されました」

 ゆっくりと秀吉の死を悼む間もなく、呼吸を整えた太郎が長安の要請を告げた。その姿に今年二五才になると言うのに、自分ならず氏真もいる前でなんと情緒のない子だと、勝悟が軽く顔をしかめると、察しのいい太郎は父の思いに気づき、氏真に向かって申し訳ありませんと頭を下げた。

「良いよ。かかる大事の知らせに加えて、代表からの言付けまで預かっては、責の重さに気が急くのは無理はない。早速支度に入る故、しばし待ってくだされ」

 幼い頃から蹴鞠や和歌の師として、多忙な勝悟よりも長い時間を共に過ごした氏真は、どんなときにも太郎には優しい。尊敬する師の寛容な態度に、太郎の顔が僅かに緩む。勝悟はその様子を見て、実の親より育ての親ということわざを思い出して寂しく思った。


「ではわしが氏真殿と一緒に参る故、太郎は急ぎ政庁に戻って長安殿の側についてくれ」

 勝悟は太郎の立場を思って、今度は優しい声音で頼みを告げた。太郎は二年前に駿府大学校を卒業して政庁に入り、長安の軍事担当補佐官を務めている。

 太郎が去った後、勝悟は氏真を待ちながら、若き頃の秀吉を思い出していた。その頃の秀吉は覇者に成ってからの平凡さと比べくもなく、躍動感に満ちあふれていた。秀吉の問題解決はまさに博打的な手法で、強大な相手に対したとき、セオリーならば戦いを避け自力がつくまで待つところを、莫大な借財と引き換えに兵力を増強したり、見破られれば一挙に壊滅しそうな危険な策をしかけていった。相手がじっくりと構えて適切な対処をすれば、圧倒的不利になることは間違いない状況で不思議と乗りきるあたりは、幸運だけではなく相手の性格や思考まで読み切ることに長けているのだろう。

 総じて秀吉の特長は止まらずに常に動き続けることにあり、武力や智謀の不足をその無限とも思えるバイタリティで克服してきた。その対極にいるのが家康で、相手が強いと判断すれば、ひたすら耐えてじっくりと自力をつけていく。平凡だが王道の手法を徹底することこそ家康の生き方だ。その典型的な例が、信長を覇王と位置づけると、どこまでも裏切らず恭順を続け、明らかに自分よりも強大な武田を相手に辛抱強く戦い続けた。そして秀吉が信長の跡を継ぐに足ると確信すると、再び忍従の道を選んだ。


「お待たせ申した」

 氏真が衣を着替えて、勝悟の前に現われた。「では参りましょう」と答えて勝悟が立ち上がる。従者もつけずに屋敷を出た二人は、さほど急ぐ様子もなく政庁に向かって歩き出した。太郎のように急ぐ必要は何一つない。この駿府とて豊臣、徳川、伊達など、天下に関心のある者が放った間者がうようよしているのだ。覇者が死んだ途端に、国政に影響する者が忙しく動き回る姿を見られたら、どのような誤解を与えるか計り知れない。気の置けない仲間と、思い出話を交わしながら死者の霊を弔う。今はそのぐらいでちょうどいい。

 好都合にも勤労意欲を根こそぎ奪うような夏の強い陽射しが、二人の真上からじりじりと照らしている。まさに自然に身を任せるように、二人の足取りは気怠さを感じさせるそれであった。



 勝悟と氏真が政庁の大広間に入ると、主立った議員が代表の長安を囲んで、真剣な表情で話している。二人があまりにも自然に入ってきたため、誰も気づかない。文民政権らしく、気配に敏い軍部の者は誰も来ていない。それでいいと勝悟は思った。まずは政治家が方針を固める。そこには軍の都合などあってはならない。

 長安を中心に激しい討論が為される一方で、目の下頬めのしたぼおで顔の半分を隠した片腕の男が、一人でその様子を静かに見ていた。涼しげな目を持つその男は、勝悟の戦友の保科正直だった。正直は徳川が放った刺客に襲撃されて重傷を負ってから、軍の総帥を退き、今は長安の軍事顧問として政庁に務めている。正直も二人の存在に気づき、軽く頭を下げた。勝悟と氏真は討論している者の邪魔にならぬように、そっと正直の隣に腰を下ろす。


「もう半刻ばかり同じ調子だ」

 正直は目を議員たちに向けたまま、囁くように言った。

「何が争点になっている?」

 勝悟が正直の耳に顔を寄せて訊いた。

「太閤崩御にあたって、徳川が京の警備強化を名目に江戸から三千の兵を送るらしい。急いで駆けつけたゆえに、自連領内の通過を求めてきた」

「なかなか、揺さぶってくるではないか」

 建国以来、自連領内を他国の軍勢が入ることはなかった。秀吉の東征は元より、葛西大崎一揆の奥州仕置軍も、秀吉が自連に遠慮して中山道を回った。それにも関わらず、関東の大大名とは言え、徳川の私兵が東海道の通行許可を求めてきている。しかも三千という微妙な数字で。


 勝悟は目の前の議員たちに目を向けた。勝悟が代表の頃の議員は、豪商友野宗善に青沼忠重、鵜殿氏長の三人しかいない。安部あんべ元真、松井宗恒、朝比奈信置、天野景貫、土屋十兵衛は既に他界し、それぞれの子である信勝、宗永、信良、景房、基宣もとのぶが後を継いでこの席にいる。いずれもまだ若くて、戦場を知らない生粋の文民だ。加えて代表の長安は戦嫌いで、経済こそ国の礎だと信じて疑わない男だ。

 基本的には全員がいかなる軍であろうと断固として、自連領内の通過を認めたくないはずだ。加えて建国以来他国の軍勢の侵入を許さなかった自連が、特例として領内通過を認めれば、自連は徳川軍を私兵ではなく公の軍として認めたことになる。それは豊臣政権内での家康の立場を強固にし、発言力が増すことになる。つまり自分たちの決定が、意図せぬままに豊臣政権へ干渉してしまうのだ。


「何度も言うようだが、わしは徳川軍の依頼はきっぱりと断るべきだと思っておる」

 今川家の元家老鵜殿氏長が、結論が出ぬ状態に苛立ちを覚えたのか、一際大きな声で拒否の姿勢を示した。

「しかし、ここで事を荒立てて徳川との関係が揺らいでは、最終的に無用な戦になるかもしれぬ」

 まだ三十才になったばかりの若い朝比奈信良は、整った顔を歪めて許諾を匂わせた。

「信良殿の意見に賛成じゃ。無用な争いに巻き込まれるべきではない」

 同じ今川の宿将の家に生まれた景房が許諾に同調する。

「何を弱気な。ここで建国以来の節を曲げては、この先自連の立場が危うくなると分からぬか」

 古老の青沼忠重が、若い者の弱気を叱り飛ばすように言い放った。


 その後も喧々諤々と続く討論の様子を見ながら、どうやら建国以来の議員である鵜殿氏長、青沼忠重、そして若手でただ一人安倍信勝の三人は拒否派で、朝比奈信良、天野景房、土屋基宣の若手三人は許諾派、友野宗善と松井宗永は諾否を決めかねてどっちつかずの姿勢のようだ。代表である長安は勝悟は来てからもずっと黙ったままだ。このままでは決まらぬなと、勝悟は口を出すべきか迷った。

 伊豆守備隊の総司令官は一昨年病死した伊丹康直の後継として、浜松から三枝守友を招いている。浜松守備隊の司令官は副官の土屋昌恒が継いだ形だ。老獪な守友ならば政庁からの指示がなくとも、既に小田原を出た徳川軍を最前線の砦と成る沼津城で、適当に遇いながら時間を稼げるだろう。軍の備えに抜かりはないと、勝悟はもうしばらくは口出しせずにこの論争につきあうことにした。


「そこのお三方は意見を述べられぬのか」

 ずっと黙ったまま成り行きを聞いている勝悟たちに対し、長安が意見を求めてきた。他の議員たちの視線が、一斉に勝悟の座っている方に向く。

「うむ。今の討議のやり方では永遠に結論は出ぬであろうな」

 氏真が他人ごとのように長安に告げた。

「氏真様は我らを愚弄なさるか」

 信良が若さをむき出しにして、氏真にくってかかった。

「いや、氏真殿の言は正しい。もう少し筋道を立てて話し合ったらどうか」

 政庁を軍の上位に置く以上、この場の決断の遅れは戦においては不利を招く。守友の手腕に信頼を置きながらも、議論をまとめきれぬ議員たちのだらしなさに、正直は少しだけ呆れ気味に氏真を援護した。


「では、勝悟殿に聞こう。我々の討論がまとまらぬのはなぜか?」

 長安は妖しい光を帯びた眼差しを勝悟に向けて、討論への参加を求めた。なぜまとまらぬか、長安が気づかぬはずがない。ましてや長安は大学校の政治学の授業で、勝悟の論理的思考の講義を受けている。長安は今後の難局を予想して、どうにも勝悟を政庁の顧問に引き入れたいようだ。場合によっては戦場に赴いて、軍部の一助に成ろうと考えていた勝悟は、より面倒な場に引き込まれそうな予感に眉を潜めた。


「長安殿が請われるのであれば応えよう」

 勝悟はついに観念した。隣で笑いを堪えている氏真の横顔が目に入る。

「物事は先の先まで考えて起こりうる事態を比較しなければ、良い結論を得ることはできぬ。まずは徳川の依頼を拒否した場合から考えてみよう」

 勝悟が話し始めると、議員たちはその目の先に見えてることを知りたくて、一斉に頷いた。


「三千の兵力では伊豆の守備隊五千を相手に、強行突破することはできない。ここで三千の兵が中山道を経由して大坂を目指せば、ひとまず良し。だがそうは成るまい。三千の軍は沼津の前で陣を張り、小田原からの増援を待つだろう」

「まさか、それでは家康の指令を果たせぬではないか」

 俄に戦の危機が訪れると聞かされ、氏長が慌てた。

「元より家康は三千の兵など欲していない。京には五千以上の豊臣の守備兵がいる。三千の兵を呼んだとて、旅費や滞在費がかかるだけで、家康が得られるものは何もない」

「ではなぜ、三千の兵を呼び寄せたのだ」

「氏長殿、よく考えられよ。目的はただ一つ、徳川の要請に自連が応えた事実が欲しいのみじゃ。それを各地の諸大名に喧伝し、家康が自連すらも従える存在だと認識させる」

「なるほど。だが沼津に増援を呼ばれて戦に成るのは問題じゃ」

「戦にはならぬ。この段階で戦端を開けば惣無事の令に反してしまう。いくら五大老筆頭の家康であっても、今の時点でそれは避けたい。増援軍は五千程度。そして睨み合いを続ける。そのうちに豊臣家より仲介の使者が発ち兵を退くはずじゃ」

「分からぬ。それで何を得るのじゃ」

「太閤の死後、家康は五奉行の排除を始めるだろう。そして首尾良くそれを成し遂げたら、今回の例を出し豊臣に対して害のある者として自連をあげ、連合軍を組織して攻め入ってくる。もちろんその大将は家康だ」

「自連は負けるのか?」

「負けはせぬ。戦は小牧長久手のように睨み合いと小競り合いしかおきまい」

「それでは意味がないではないか」

「まだ分からぬか。連合軍の総大将に成ることによって、家康の政権内での地位は確固たるものになる。北条家が鎌倉幕府を乗っ取ったように、いずれは徳川が支配する」

 あまりにも遠大な計画に、氏長はため息をついて沈黙した。


「もう話さずとも分かると思うが、通したとしても、諸国の大名にその事実を喧伝され、徳川軍は政権の公軍と成る。後はどこかの大名に難癖をつけて戦を起こし、天下を徳川の手にたぐり寄せる」

 今度は信良が項垂れた。

「ではどうすればいいのじゃ」

 いつの間にか長安も勝悟の話に引きずり込まれ、前のめりになって聞いた。

「方法は一つしか無いであろう。のう、宗善殿」

 友野宗善は急にフラれて驚きの表情の儘、無言で勝悟の顔を見た。

「蒸気船で三千の兵を大坂に送ってやれば良かろう。大金を搾り取って。そうすればこれは友野家の商いの一環で、自連政府の問題ではなくなる。おまけに諸大名が集まった大阪湾に蒸気船の威容を示せば、徳川の派兵など何の効果も示せず、自連の底力だけを印象づけることができる」

 一同言葉を無くした。正直さえ、驚いたように勝悟を見つめていた。ただ一人氏真だけが、勝悟なら正解を持って当然とばかりに、ニコニコと笑顔を盟友に送っていた。


「なるほど。分かり申した。商いの交渉ならこの宗善にお任されあれ。首尾良く話を纏めて参りましょう」

 宗善が嬉々として席を立って行った。

 その後ろ姿を見ながら長安がポツンと呟いた。

「家康殿は、ペテン師に騙された気分になりましょうな」

 その呟きを聞き逃さず、氏真が「ハハハ」と笑った。その笑い声に引き込まれ、さっきまで騒然としていたその場の一同は、爆発したように笑い始めるのだった。

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