第36話 湯気

 つばきの手前にあるマグカップからは、ゆらゆらと湯気が踊っている。


 それは、揺れ動くぼくの心情を表している気がする。言わなくてはいけないという葛藤は覚悟と不安を揺れ動かす。


「実は言わないといけないことがあるんだ」


 ぼくは声を潜め、口元を右手で覆い、店内のつばきにだけしか聞こえないように細心の注意を払いながら囁く。


 こんな話は人様に聞かせるべきではない。いや、交際相手にだって普通は話すべきではないだろう。最愛の相手だからこそ、こんな話をするべきではないのだ。だからこそ、こんなことを大っぴらに共有し合うぼくたちの関係はきっと――歪で異常なのだろう。

 

 意を決したばくの覚悟が口調や表情から伝わったのか、つばきは眉間に皴を寄せ、不安気な表情を浮かべる。


「どうしたの?」


「つばきと約束していたことなんだけど、破ってしまったんだ」


 ぼくの言葉に少し逡巡した後に、正直に昨日のできごとを打ち明ける。


「オナニーしたの?」


「いや、そうではなくて、寝ている時に」


 そこまで言うと、つばきは納得したように「ああ」と声を漏らす。


「それは……残念だけど、生理現象だから仕方がないね」


 つばきは意外にも淡々とした口調で言う。そして、ぼくの独白に対して返ってくる言葉が罵倒でも、軽蔑でも、落胆の言葉でもないことに安堵する。今の今までの気鬱が嘘のように心がスッと軽くなる。


「そう言ってもらえると助かるというか、申し訳ないというか」


「でも、罰は必要だね」


「罰?」


 慮外のその言葉にぼくは思わず声が漏れる。


「当然でしょ。わたしは約束を守ったらご褒美をあげると言ったよね。だったら、約束を守らない人間には、それ相応の対価を支払ってもらわないと」


 つばきは楽し気に意地悪く笑う。


 だが、当然であれば当然なのかもしれない。つばきは自身の貞操を犠牲にしてでも、お願いしてきて約束を交わしたのだ。生理現象であってもそれを破ったのであれば、彼女が望み、納得する終着点が必要となる。


「甘んじて受け入れるが、ぼくはなにをされるんだ? それとも、なにかしないといけない?」


「そうね。それを考えましょう」


 そう言いながら、大事そうにマグカップを両手で持ち、カフェオーレをひと口啜る。女子はどうしてコップを両手で持つのだろうか。それは、長年の疑問であり、納得のいく答えがどこかから返ってはこないと思われる。そして、ぼく自身もそれを研究対象や誰かにアンケートするほど、行動心理について探求する興味はない。


 

 ※



 どれほどの時間、この場所にいたのだろうか。


 映画の上映が迫ってきていることから一時間ほどだろう。喫茶店の正しい利用方法である気がしている。


 会計を済ませて、再びふたり並んで商店街を歩く。陽は一段と高く昇り、見下ろすようにつむじに照り付ける。影は水溜まりのように足元に小さく広がっている。それでも、涼し気な風が相まって暑いとは思わなかった。


 うす暗かった喫茶の店内に反して、眩しいほどに明るい。思わず目を細める。


 ぼくは隣を歩くつばきを一瞥する。そして、喫茶店で彼女が決めたぼくへの罰を思い返し身震いをする。きっと、これから観る映画なんて頭には入って来ないだろう。どうせならば、ミステリー映画なんかにしなければよかった。今日だけは、くだらなくてつまらない映画を所望してる自分がいる。


 

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