第35話 ナポレオン

「――せっかく時間があるし、少し歩いてみようか」


 そんな提案をしたのは今から十分前の事である。


 ぼくたちはふたり並んで、ふらふらと道に繰り出していく。休日の商店街は雑踏に溢れており、各々が楽し気に往来している。


 休日の町は車の往来が多く、いつもより活気に溢れている気がするが、平日の町を然して知らないぼくには、それが気の所為であることを否定する根拠を持ち合わせていない。


 空はちらほらと雲はあるが、快晴と言っても差し支えのない空模様であった。昨日の夜も、今日の出立前だって幾度と確認した天気予報では、一日中、雨に濡れるような心配はないとのことであった。今日ほど晴れてよかったと思う日はない。


「お腹は空いてる?」


「別に空いてないかな」


 それならよかった。ぼくも然して空腹ではない。それが、朝食を取ったためか、はじめてのデートに対して緊張をしているがためかはわからない。だが、今のお腹の具合は、可能であれば映画が終わった後に食事としたいくらいのコンディションである。


「じゃあ、お茶にしようか? それとも、ショッピングとかしたいのなら付き合うけど」


「そうね、お茶にしましょうか」


 そのお店を見つけたのはそんなことを考えている時だった。『喫茶ナポレオン』と書かれた看板は黒板に書かれたメニューと共に道端に鎮座していた。


「その喫茶店は?」


「ええ、そうね。そこで上映まで時間をつぶそうか」



 ※



 雑居ビルの二階に佇むこのお店は喫茶店というのだろう。重厚な黒いひとり掛けソファに木製のローテーブルを介して対面する。部活ではいつだって、ぼくたちは対面して腰掛けている。見慣れた光景であるのに、場所や服装が違うだけで、なんだが妙に緊張してしまうのは、普段来ることがない喫茶店だからだろうか。


 つばきは慣れた様子でホットカフェオーレを頼む。こういった喫茶に定期的に来ているのだろうと推察される。だが、ぼくはコーヒーが苦手である。メニューを見渡して飲めそうなものがないのではと不安になるが、ソフトドリンクがあることに安堵する。そして、オレンジジュースを頼んだ。


 注文を終えた後に、なんだかぼくだけが子どものようで、喫茶店に似付かわしくない気がして恥ずかしいという思いが込み上げてくる。こういった店で注文する時はコーヒーを無理してでも頼むべきだったろうか。


 だが、注文を取りに来たウエイトレスも目の前に座るつばきも、ぼくがオレンジジュースを頼んでも然して気にする様子はなかった。考え過ぎだろうか。


 喫茶店に流れる妙な緊張感にいたたまれに気持ちになり、ぼくは思わず口を開く。


「――これから観る映画だけど、つばきはどんな内容なのか知っているの?」


「内容? まだ観ていないのに?」


「いや、決める時に迷っていなかったというか、前もってこの映画を観ようと決めていたのかと思ったんだ。それに、原作は小説だって書いてあったし、どこかで予告を見たり、前情報を持っているのかと思って」


「ううん、でも、なんとなく、洋画のサスペンスだったら大外れはないかなと思って。だって、映画館でつまらない映画を観ている時間って苦痛じゃん」


 確かに、中学生にしては痛い出費をして、わざわざ休日の貴重な時間を割いてでも来た映画館で、上映が終わるまで身体が拘束されるのは苦痛である。


 そんな話をしている時にウエイトレスが注文したカフェオーレとオレンジジュースも運んできた。


 小さくお礼を言い、ストローを咥える。別になんてことはないオレンジジュースだ。でも、どうしてか、随分と美味しく感じる。


 そして、脳裏を過るのは、昨日からずっとある、胸のつっかえである。


 ――昨晩のことをつばきに打ち明けないといけない。


 

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