第26話 二日目
※
美術室に漂う、油絵の具の匂いはいつの日もぼくに安心感をもたらす。
この匂いがぼくは妙に好きだった。
特徴的で人を選ぶであろうにおい――
好きな理由を問われれば、なんとなくとしか答えることができない。
誰かが、ガソリンスタンドの匂いが好きだと言っていた。ぼくにはその気持ちが分からないように、ぼくのこの気持ちは誰にも分からない気がする。
ぼくはこの学校の美術室が好きだ。
例えば、教室の後ろに飾られた三年生が作成したという、自画像は美術の先生が優秀だと判断した幾点が掲示されている。
例えば、いつかのタイミングで使うのかもしれない、ラボルトだったか、ヘルメスだったかの石膏像が、ここを守っているように、ぼくたちに粗相がないか目を光らせている。
例えば、普段の教室で使用する机や椅子とは異なる木製でできたこれらは、随分と長い年月をこの場所で過ごしているのか、あちこちに傷が目立つが、その役割は今でもしっかりと果している。
「匂いで人との相性が分かるらしいよ」
つばきは独り言のように呟く。
「……におい?」
「まあ、女子だけの話みたいだけど」
「あまり、話の内容を理解できていないのだけど、もう少し分かりやすく説明してくれる。匂いの好みが合うと相性がいいってこと?」
「そうではなくて、男子の体臭をいい匂いだと思うと相性がいいんだって。逆に臭いと思うと、その人ととは相性が悪いんだって」
「……へえ、そうなんだ。なんで女子だけなんだろうね」
「身を守る為じゃない」
「身を守る?」
「血縁的に近しい人とは臭いと感じやすいらしいよ。逆に血縁から遠い人のことを魅力的な匂いだと感じるんだって」
「なんで、それが身も守ることになるの?」
「だって、遺伝子的に近い人間との子どもを孕んだら危険でしょ。それに、健全な子どもが産まれ難いって言うし。だから、その人との間に子どもができても大丈夫か否かを判断するのよ」
「なるほどね。女子は本能的に身ごもっても安全かどうかを判断できるんだ」
「ピルを飲むんだり、閉経をすると、その匂いでの判断ができなくなるんだって。子どもを産める身体ではないと分からないんだよ。不思議だよね。人の身体って」
その話がどこまで科学的なエビデンスや信憑性があるかは分からない。それでも、つばきは子どもが産める身体である。もう、体臭で異性を選ぶことができるということだろう。
――そうなると、ぼくのにおいはどう思っているのかが知りたい。だが、ぼくはそれを言葉にはできなかった。
「どうして急にそんな話を?」
「わたしは君の匂いが好きよ」
その言葉に安堵と嬉しさが込み上げてくる。
「それは……嬉しいというか、名誉なことだね」
「遺伝子的に遠いんだと思うんだって言われたらどう思う?」
「匂いが好きだと言われれば嬉しいけど、そう言われちゃうと、別にどうも思わないよ。強いて言えば、ロマンチックではないなって思うだけで」
「でも、人を好きになるのって遺伝子が遠いだけではないよね」
「それは、まあ、そうでしょ」
本当にそうであって欲しい。
「いろいろな経験をして、いろいろな出会いがあって、いろいろな考えがあって。複雑な人間心理と多角的で多様な要因があって、誰かを好きになるんだと思うの。でも、その中には絶対に遺伝子が遠いっていう、産まれる前から決まっている様などうしようもない理由があるんだと思うんだ」
「そうだね、人を好きになるって複雑だね」
「それを踏まえたうえで、遺伝子的にあなたの事が好きって言われたらどう思う?」
「……なんか、ケミカルというか、理屈っぽいから嫌かな」
「そう? ロマンチックじゃない」
「だって、そんな血統のことばかり言われたら、種牡馬みたいじゃん」
ぼくがそう答えると、つばきは「確かに」と言って笑っていた。
その笑顔を眺めながら思う。
――ぼくは美術室の匂いが好きだ。でも、この部屋に君が来なくなれば、ぼくは油絵の具の匂いが嫌いになるかもしれない。好きなものを二つ失う。そんな日が来ないことを祈るばかりだ。
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