第25話 一日目

 ※


 さて、恋人関係にあるつばきと一週間も自慰を我慢するという奇妙な約束を交わしてから、一日目の部活動が開始される。


 美術室の前の廊下を歩く女子生徒の集団からは、楽し気な笑い声がこの室内まで響き渡る。


 美術室には静寂と緊張が広がる空間であると思われることが稀にあるが、それはアトリエでひとり、美術と真剣に向かい合う巨匠たちの影響であり、ぼくたちのような美術と向かい合ってさえいないうえに、誰でも入室が可能な公共の場であれば、そのような堅苦しい印象は不要であろう。それどころか、放課後の美術室はなかなか雑多な音で溢れている。


 たとえば、校内からは息の合った運動部の掛け声や、吹奏楽部の奏でる楽器の音色が流れ、時折流れる校内放送などなど。実に、和気あいあいとして青春の音で溢れ返っている。


 その様子は普段は教育の場として静寂が流れる顔から一変させたように、騒然と熱気の中に学校は包まれている。


 いつものように今日も不真面目に部活動に取り組んでいる。


 つばきが口を開いたのは、ぼくが校内から流れる音になんとなく耳を傾けながら、画用紙に広がる絵の構成を考えている、そんな時だった。


「――どんな感じ?」


 つばきは唐突で極めて曖昧な質問を投げ掛けて来る。


 だが、ぼくはつばきが込めたその質問の意図を理解している。


 しかし、ぼくは敢えて理解していない振りをする。


「どんな感じって?」


「理性はなくなりそう?」


「いや、一日目だから普段と変わらない清らかな気持ちでいるよ」


「清らかな時なんてあるの?」


「失礼なことを言うよ。ぼくはいつだって清く正しく、紳士的であろう」


 そう自負をする。決して間違った自己評価ではないと思いたい。だが、つばきのぼくに対する認識は違うようだ。


「そうなの? 射精とおっぱいで頭の中がいっぱいなんだと思っていたけど?」


「そういう時もあるかもしれないが、基本的にはふしだらなことを考えることは、そこまでは多くないよ」


「男って五十二秒に一度は性的な事を考えるって説があるよね? 本当なの?」


「そんな説は知らないけど……状況によるんじゃない?」


 そんなに考えているだろうか? いや、そこまで頻繁ではぼくの場合はない。だって、例えばテスト中とか、真剣に写生に取り組んでいる時とか、体育で球技に取り組んでいる時とか、なにかに集中している時は、さすがに色欲が入り込む余地はないだろう。だが、確かに一瞬でも女子の姿を視界に捉え、性的妄想が一気に広がることが稀にある。別に性的な何かを見た訳ではない。それなのに、あれはどういうことなのだろうか? どうして急にスイッチが入るのだろうか?  


 こんな話をつばきにしても理解はされないだろう。


「じゃあ、今は?」


 つばきから追随するように質問が飛ぶ。


「今って?」


「部活中は何秒にどれくらいのペースで性的なことを考えるの?」


「常にじゃない?」


「常に……やはり、身の危険を感じるは」


「それは、常に性的な話題しかぼくたちは話さないだろ」


「……そうだっけ?」


「じゃあ、一番最後に性的じゃない話題だったのがいつだったか思い出してみろ。少なくともぼくは思い出せない」


「……確かに思い出せない」


「因みにぼくの好きな食べ物と嫌いな食べ物は知ってる?」


「……分からない。聞いたことがないかも」


 答えを探すように逡巡してから、諦めたように答える。


 長い時間を共にしているというのに、ぼくたちはそんな事さえ知らない。


「ぼくの自慰の頻度は知っているのにね」


「確かに言われてみれば、少々、お互いの認識や共有しいてる情報に偏りがあるようね」


 ――少々だろうか? まあ、でも、これがぼくたちなのだろう。


「因みにわたしが嫌いな食べ物は知っている?」


「……牛乳?」


「……小さいから?」


 つばきは不愉快そうに顔をしかめながら言う。


 決してそういう意図ではなかったが、ぼくはつばきは牛乳が苦手なんだろうと思った。


「で、答えは?」


「イチジク」


「――へぇ。まあ、頻繁に食べる物でもないし別に困らないでしょ」


 ぼくは今日、つばきが嫌いな食べ物を知った。でも、この知識は多分、役に立つことはないだろう。

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