第16話 名前

 見上げた先には、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた彼女が、そっぽを向いて立っていた。


「――名前って?」


 ぼくは思わず、そんな素っ頓狂なことを訊く。


「名前は名前でしょ」


 と、彼女は語気を強めてそう言う。


「君はぼくに名前で呼んで欲しいの?」


「恋人ってそういうものでしょ」


 確かにクラスメイトには中学一年生にも関わらず、男女交際をしているような、少しませた奴もいる。今日から、そんな冷めた目で見ていた奴らの仲間入りを果たした訳だが。それは、今は別にどうでもいい。


 問題なのは、彼らは確かにお互いをファーストネームで呼び合っている者が多いが、中には歯が浮くようなあだ名で呼び合う者や、交際前と変わらずに苗字で呼び合う者もいた。それらは、別にぼくには無関係の事柄だと、今の今まで思っていたが、いざ自身に恋人ができると何て呼べばいいのか困惑するものだ。


 そして、彼女は恋人だからファストネームで呼べと言う。恋人とはそういうものだろうか? ぼくは人を名前で呼ぶのが苦手だ。『ねえ』とか、『君』とか、そういった呼び方の方が幾分か気持ち的に楽になる。それがどうしてかは分からない。だが、まあ、彼女がそれを望むのなら、別に不平や不満はないが――


「敬称は?」


「そんなのは別にどうでもいいでしょ。つばきでも、つばきちゃんでも、つばきさんでも呼びやすい呼び方でいいわよ」


 すべての裁量を委ねられると、それはそれで困る。


「じゃあ、つばき?」


「―――うん」


 自分で名前で呼べと言うわりには、随分と恥ずかしそうに目を合せようとしない。


 女子の感受性は、いや、つばきの感受性は理解しがたい。


 常々思っているが、女心というのは、ぼくにはどうも理解ができない。ましてや、つばきは男のぼくでも顔を覆いたくなるような、性的な言葉や要求は平然とした表情で言葉にするのに、たかだか名前を呼ばれただけで顔を赤くするなんて、どういう理屈なのだろうか?


「つばき……」


 そう言えば、それなりの時間を共に過ごし、かなり親密な関係なったが、彼女の名を呼んだのは今がはじめての気がする。


「……なによ?」


 無理して平常心を装うと顔を強張らせる。だが、その顔は眉間に皴を寄せて目元は睨んでいる様に厳しいのに、口元だけは不自然に口角が上がっては下げてを繰り返して、ぷるぷると震えている。頬と耳の赤みだけは隠せないようで、恥ずかしがっている時の彼女の特徴でもあった。


 何とも愛らしい。ここで「愛している」なんて一言でも投げ掛ければ、理想の恋人と言えるのだろう。だが、今は目の前に広がっている問題に対処する方が先決したい。本当にこのままだと痕が残ってしまう。そして、ぼくには、そんな歯の浮くような台詞は言えない。


 そう考えるぼくは、どうしようもないほどの現実主義者でシャイなのだろうか。シャイであることは概ね間違いはないだろう。


 そして、人様の所有物を破損することなんて、ぼくの心情では決して許すことができないのだ。


「雑巾を持ってきてくれ。可能であれば濡れたものを」


「……うん」


 つばきは少しだけ冷めた目で、暗いトーンでそう返答する。


 求めていた言葉とは違うことは認めるし、自覚をしている。


「あと、可能であれば電気を付けて欲しい」


 はじめて彼女の名前を呼んで恋人になったこの日、どうもぼくたちはロマンチックな雰囲気にはならない。


 原因は大いにぼくにある――――

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