第15話 厚顔無恥

 甘く妖艶な雰囲気にぼくは呑み込まれかけていた。だが、僅かな理性と存分な恐怖心が自我と冷静さを取り戻す。


「だ、ダメに決まってるじゃん」


 さすがに彼女からお願いであっても、否定せざるを得ない。


「どうして?」


 と、彼女は随分と不思議そうな顔で言う。


「だって痛いんだよ。想像を絶するくらいに」


「らしいね。でも、女子の蹴りくらいなら大丈夫でしょ」


「女子の蹴りでも潰れたりとか、機能不全になる可能性はある」


「そんなに脆いものなの?」


「それは、まあ、どうしてこんなにも弱いものが外部に付いているのか、不思議なくらいには脆く弱いところなんだよ」


「まあ、人体で唯一の剥き出しになった内臓だっていうもんね」


 「――いうもんね」なんて同意を求められても、そこまでは知らない。


「内臓なの?」


「そうだよ。知らなかったの? 胎児の頃はお腹の中にあるんだよ。それが成長と共に下がっていって、最後は飛び出してくるんだよ」


「へえ、なんで外に飛び出す必要があんだろう」


「それは体内だと温度が高すぎて精子が上手く作れないからだよ。だから、体外にぶら下がっているの」


 そんな話をしているうちに、彼女の左足は随分と前からぼくの睾丸から離れていた。そして、彼女の右足に飛散した精液も、目で見える範囲では綺麗に拭き取った。


 だから、ぼくはもう一度、足元のカーペットに視線を落とす。


「本当に君はその手のことは必要以上に詳しいよね」


 本当に必要以上だ――そして、その知識が彼女のこれからの人生で、どこで役立つのか疑問を呈さずにはいられない。


 そんなぼくの皮肉は気付いていないのか、特に気にしていないのか、平然とした表情で彼女はぼくに問う。


「ねえ、ぶつけたり、蹴られたりしたら腹部も一緒に痛くなるのって本当なの?」


 どうしてそんなことを知りたいのかと訊き返そうと思ったが、「だって、そんなものぶら下がっていないから分からないんだもん」と答えるのは目に見えている。


 ふと思い返す。股間にボールが当たり苦しんだ小学生の時を――


 小学生の頃に友人と公園で野球をやっていた時に、ボールの補球に失敗して股間にボールをぶつけた。そんな男なら誰もが一度は経験があるような凡庸な思い出だが。


 確かにあの時、睾丸の痛み以上に腹部が痛かった気がする。痛いというより苦しいという表現の方が適切かもしれない。


「そうだったと思う――」


 ぼくは曖昧な返答をする。


「やっぱりそうなんだ」


「やっぱりって?」


「腹部から降りてきた内臓だって言ったでしょ。だから、腹部と血管や神経が繋がっているからお腹も痛くなるらしいよ」


 なんというか、性的知識が豊富なことに感心するべきなのか、知識の偏りを心配するべきなのか。


「そこまでの知識を有していて蹴りたいなんて言ったの?」


「知識と経験は違うから」


「その実験台に、ぼくを使わないで欲しいのだけど――」


「いいじゃない。恋人なんだから」


 その言葉にぼくたちは交際しているのだと改めて実感した。


 ――そうだった。ぼくと彼女は付き合っているんだ。


 なんだか、自慰を見せて、汚した精液を片付けながら、睾丸について話をしている時に、彼女ができたという実感を抱くというのも……ぼくたちらしいというか、先が思いやられるというか……。


「ねえ、カーペットに飛んだ精液なんだけど、ティッシュだけだと綺麗に落とせないから濡れた雑巾とかが欲しいんだけど」


 汚したのはぼくなのだから、綺麗にすることは当然ではあるが、彼女の部屋だし、そもそも汚したのも彼女の指示みたいなところがあるのだから、もう少し彼女も手伝ってくれてもいいと思うのだが。そう思うのはぼくのエゴだろうか。


「ねえ、なんて呼び方じゃだくて名前で呼んで」


 彼女は不服そうに呟く。


 その言葉にぼくは思わず見上げてしまう。


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