二章

第18話 理性

 ※


 ――ぼくたちが恋人となって幾日が経った。


 部室でのぼくは、依然として浮足経つような感覚を抱くと共に、どこか居心地の悪さを感じる。そんな、ぼくとは対照的に、つばきはぼくと恋人となったことなんて忘れてしまったように、平然とした面持ちで、いつもと変わらない日々を過ごしているように感じる。


 自分だけ舞い上がっているようで、恥ずかしい気持ちだが、そんな心中を目の前に座るつばきに悟られないように、必死で取り繕っている。


 いつものように、画用紙を向かい合うつばきを盗み見ながら、そんなことを今日も考える。


 ――別に今日だって、なんてことはない、いつもの部活、いつもの日常だった。


 そして、いつものように会話は彼女の何気ない一言ではじまる。


「ニューヨークで何十年か前に大規模な停電があったんだって」


 いつもとは異なる真面目で理知的な話し出しに、少しだけ感嘆の声が漏れる。


「へぇ」


「その影響で出生率が上がってベイビーブームになったんだって」


「どうして?」


「だって、電気がなくて真っ暗だと他にすることがないでしょ」


「あ、ああ、なんだか、風吹けば桶屋が儲かるみたいな話だね」


「逆に日本だとひのえうまという、迷信が影響して子どもが生まれない時代もあったのよ」


「それならぼくも知っているな。確か、丙午の年に生まれた女の子は男を食い殺すって迷信が原因だっけ?」


「不思議よね。そんな訳がないのに」


「まあ、現代人の感覚からすればそうだけど、科学が今より進歩していない時代だと、オカルトや宗教を妄信的に信じてしまうことは理解できるよ」


「文明や文化は人類の繁栄をするうえで弊害だと思わない?」


 また、随分と極論を言う。そして、その内容は些か同意できない。


「別に思わない」


「どうして?」


 つばきは不思議そうにきょとんと首を傾げる。


「人類がここまで繁栄できたのが文明や文化のお陰だと思うから」


「まあ、それも一理あるかもしれないけど、きっと人類がここまで繁栄できたのは理性があるからよ」


 つばきはそう断言する。


「――理性?」


「そう! 人間だけが持っている本能に抗える力。だって、本能がままに生きていたら、こんな貧弱な生物はすぐに捕食されておしまいよ」


 そうかもしれない。確かに理性は大切だ。だが、それだけが人類にとって重要なのかは、無知な自分には分からない。


「そういうものかな」


 ぼくには彼女の言葉を否定することも、肯定することもできなかった。


「そうだ。理性で思い出したんだけど――」


 つばきは思い出したようにそう言う。


 ――ぼくは知っている。その導入ではじまる時、彼女がろくなことをいわないことを。


 まあ、でも、聞こうではないか。恋人として受け止めよう。それに、理性で何を思い出したのか気になる。


「――なに?」


「この前読んでいた本で、男が妖艶な美女に理性をなくして襲い掛かるシーンがあったの」


 やはり、と言うべきか、当然、と言うべきか。つばきは碌なことを言わなかった。そして、そういった本を好んで読んでいることは、凡その予想はできていたし、別に今のぼくには驚くべき事実と言う訳でもない。


「へえ」


「ねえ、男って性力で理性がなくなることがあるの?」


「さあ、そういった経験がないけど、仮にそうだとしたら、この世界は性犯罪だらけになるんじゃないだろうか?」


「……ねえ、あなたの理性をなくしたいんだけど」


 つばきはとんでもない提案をする。


 驚きよりも呆れといった感情が強く込み上げる。


 まったくもって、ぼくはとんでもない奴と恋人になってしまったと、そう思わずにはいられなかった。


「……きみにはマッドサイエンティストとしての素質があると思うよ。少なくとも、人間の数少ない利点を失わせようとするなんて、常人の発想ではないよ。本当に常人ではないよ――」

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