第3話 性別への考え

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 真っ暗な自分の部屋で、ベッドの上に仰向けで横たわる。


 あれから、互いに何事もなかった様子で帰宅したのだが……楓は、彼女自身が思っていた以上に、千弦からの反応に対してショックを受けていたらしい。

 一日を締め括る就寝の準備が整ってなお、気持ちはずっと曇ったままだった。ただの失恋であれば、少しはよかったのかもしれない。


「私は、女としてしか見られていないのか……。私が、鯉木楓という人間が対象にならないのではなく、そもそも『女性』だから初めから対象ではないと……それもなんかなぁ」


 顔を横に向けると見える景色。なんの装飾もなく、高校生として必要最低限のものが置かれただけの、つまらない部屋。これなら、性別なんてないも同然だろうに。


 ――もしも男だったら、振り向いてもらえたのだろうか。


 普通、そんなことは考えないのかもしれない。だが、楓は違った。


 ――いっそ男だったら、全てが解決するのではないか。


 単に「そういうもの」として片付けることに納得がいかない。この殺風景な室内も、そんな彼女の心象の表れの一部なのだ。その自覚は、多少なりともある。


「おーっす、お姉ちゃーん! ねーねー悪いけどさ、またネイル塗って!」


 ぼけっーと考え事をしていたところに、突然の刺激を受けて楓は固まった。急に電気を灯した正体を探ると、妹の顔がぐいっと視界に入ってくる。笑みを浮かべた彼女は返事を待たないまま、半ば強引にネイルの瓶を押し付けてきた。


まどかか、びっくりしたなぁ……。まあ、いいよ」


「やったぁ」


 姉が寝転ぶベッドの上に腰掛けて、円は「よろしく」と手の爪を差し出した。楓はやれやれとため息をつきながら、要望通りに爪の縁から丁寧に塗っていく。


「お姉ちゃんってさ、本当にメイクとかしないよね。ネイルくらいしてみればいいのに」


「興味ないからいいの」


「強がらなくても、オシャレの一つくらいで『女の子らしい』とはならないと思うけど」


「そういうわけじゃない。興味がないからやらないだけ」


 ――昔から嫌だった。


 特に、親戚の集まりで「女性だけが見下される」状況には、心底うんざりしていた。


「そりゃ私だって、女だから『家事をしなきゃダメ』とか『大人しく後ろにいなさい』とか言われるの嫌だけどさぁ。ちょっとの時間だけだし、勝手に言わせときゃよくない?」


「それでも、気分よくないじゃないか。性別なんて関係ないって思わせたいんだよ。ちっぽけな悪あがきだろうけど、なにもしないでいるよりマシだから」


 楓にはどうしようもできないからこそ、その差別は余計に悔しい。ただ女性に生まれただけでそんなことを言われるくらいなら、いっそ女の全てを捨ててしまいたかった。


 だって――……女らしくないって、つまりは男らしいってことだろう?


 荒っぽい口調で上品さの欠片もなくせば、きっと誰かが「女のくせに」と言ってくれるかもしれない。女だけに課せられる仕事をしなくて済むかもしれない……。


 そんなことを考えたりもしたけれど、それは楓にとっての理想とは違っていて、平和な解決法でも満足のいく話でもなかった。

 結果として、楓は「女らしさからの脱却」にだけこだわった。上品な紳士を目指して、ただ「女らしい」の一言では片付けられない人格を目指して過ごすことにしたのだ。


「ふぅん。ま、いいけどさ。今はもう、そこまでは気にしてないんでしょ?」


「多少はしてるよ、今でも。いっそ男だったら、よかったのかなって思う」


 自分が女性に分類されることには、違和感も不満もない。トイレも風呂も更衣室も、どれも女であることの自認を裏切らなかった。だから、現状のままでも十分ではある。


 一方で、男のように見られたいという願望は、まだ根付いたままだった。彼らのように人生を過ごしてみたいと願ってしまうときがある。そういった憧れによって、楓は「楓らしさ」を手にしたとも言えるのだが。


 その結果が、今日のあれだ。一体どうすればいいのだろうか。


「円は、こんな私についてどう思う?」


「んーさぁね。どっちでもいいんじゃない?」


 完成した右手のネイルを眺めながら、一度は興味なく返した円。だが、姉のしめやかな様子を察して、もう一度口を開く。


「なにがあったか知らないけど、別に不清潔ってわけでもないし。今のお姉ちゃんはお姉ちゃんらしいから、お姉ちゃん自身が納得してるならそれでいいと思うよ。こうやってネイルを綺麗に塗ってくれるような、何気に頼れる姉だしね?」


「最後がちょっと余計だけど、ネイルのお代としては十分だよ。ありがとう。はい、塗れた。あとは自分で乾かしてね」


 隅々までこだわって塗られた指先を見て、円はムフフと満足げに微笑んだ。


「へへ、頼れるかは大事なことだもん〜。ってことで、ありがとアンドおやすみーっ!」


 姉のまとう空気を読んでか、珍しく跡を濁さず丁寧に去っていく。再びシンと暗くなった部屋で、楓はまた横になった。


「納得はしてるけど……ああ。もし、あの男版の私のようだったら――なんてね」


 ふと、千弦と遊んでいたアプリを思い出す。その場で撮った写真の人物を、性別転換した状態に加工できるというもので、なかなかにおもしろいアプリだった。


「確か、名前は『ジェンダーチェンジアプリ』だったかな。もう一回、見てみよう」


 物思いに耽りながらインストールして、一人でやってみる。


 カシャッ、とシャッター音がひとつ。


 カメラのフラッシュがなんだか眩しすぎた気もするが、電気もつけていない夜だからだろう。無事に撮れているし、加工もできている。記憶よりも早い完成だったが、これも別に気にすることではないはずだ。


 ――でも、うん。やっぱり憧れるなぁ。


 別に、女が嫌なわけでも、男になりたいわけでもない。だが、羨ましいものは羨ましかった。男とも対等でありたい。そして、ただ千弦と最も親しくしていたい……。


 複雑な気持ちを抱えながら、楓はゆっくりと目を閉じる。



     *



 学校の放課後、告白を受けた千弦と帰る路。


 既視感のある場面だが、どうも違和感がある。なにかが違う。なにが……どう違う?


『千弦、わたしはきみが好きなんだ』


『……ごめん。オレ、無理なんだ。恋愛感情とか……その……』


 勇気を振り絞ったが、ダメだった。男で告白しても、ダメだった。


 どうして、ダメなのか?


 また、あの感覚に襲われる。血の気がなくなって、頭の中が冷めきって、生きた心地がしない。これはきっと、失恋の味なんだ。


『いやいや、いいよ。今のは……冗談、だから! 親友としての告白だよ。千弦はわたしの最高の親友だから、なんか伝えたくなってね。告白っぽくしてみた』


『あ……ああ、なんだよ〜。オレにとっても、楓は特別な友だちだよ。心配しなくても、オレの一番の親友さ!』


 にへらっと笑った千弦に肩を組まれ、ズキっと心が痛んだ。なにもかもが引っかかる。


 ああ、私がおとこであったら、あそこまで重くならずにいられるのか。


 あれ、私が俺であっても、この恋は叶わないのか?


 なら、どうすれば……。どうすれば、私は千弦の一番でいられるんだ?


 一体なにが、千弦を苦しめている……んだ……?



     *



「――い。おーい、お兄ちゃん・・・・・! もう起きないと遅れるよー。今日、ちづちゃんと出かけるんでしょー? お母さんがそろそろ起きなって言ってたよ」


「あ、ああ、いま行くよ……」


 スマホを起動し、楓は時計を確認する。


 現在は午前九時。千弦との約束にはまだ余裕の時刻ではある。だが、せっかく起こしてくれたのだから、円に感謝しつつ、楓は朝の支度を始めることにした。


「ふぁ……変な夢を見た気がする……」


 まず洗面所に行って顔を洗い、眠たいままの身体を覚醒させる。


 すぐそばにある浴室では円がシャワーを浴びているようだから、きっと彼女もどこかに出かけるのだろう。鼻歌混じりで、たいそう気分がいいらしい。


 顔を拭いて歯磨きを始めたところで、楓はふと洗面台の鏡に映った自身を見て動きを止めた。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。


「……え。誰、だ……いや、これって、あの――」


 鏡にかじりついて、まじまじと見つめる。


 やや鋭い印象を与えるアーモンド型の目に、癖のない黒髪ショートヘアの――男。もし楓が男だったら、と性別転換の加工をしてできたあの顔そのものだった。


「……私だ、よな。というか、さっき円は『お兄ちゃん』と言ってきたような……」


 まるで、これが普通とでも言わんばかりの呼びかけだった気がする。


「……しかも、声だって低くなってるし、どういうことだ……まだ夢の中……?」


 鏡を見つめながらそう考えていたら、ちょうどいいところで浴室の扉が開いた。


「ふんふふん〜……ん? うげぇぇっ、お兄ちゃん!」


 円は素早くタオルを引っ張り、慌てて自分の体を包んで隠した。なぜ今更そんなことをするのだろうか、と今ひとつ状況の掴めない楓は、涼しい顔で疑問を口にしようとする。


「ああ、円。ねえ、今の私ってさ、男になっ――」


「マジありえない! こっち見んな変態!」


「は? なんでそんなこと……あっ。そうかコレか……うん、やっぱり私は男になってしまったのか……本当に…………」


「はあ? 意味わかんないんだけど!」


「痛っ! ごめん、わたしが悪かったよ。だから、洗面器を投げるな!」


 ――なるほど、同性の兄弟姉妹って案外便利なんだな……気にしないでいられて。


 そう思わずにはいられない楓であったが、素早く洗面所から逃げ去る。


 ――不思議な現象だけど、痛みを感じるからどうやら夢ではないみたいだ。これはチャンスかもしれない。いや、なんのチャンスかと言われると、私にもよくわからないけど。


 しかも、男になった楓に対する反応は父母も似たようなもので、楓が「元から男である」と思っているようだった。

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