カラス様と髪の長い女
第2話 誘引(1)
記憶に残りたい、誰かの記憶に。たとえ、一度きりの出会いでも。夜な夜な現れる逃れようのない悪夢となっても……。
誰も来ない、誰もいない。薄い雲、風は吹かない。
角が割れたプラスチック製のベンチに腰を下ろす。足元の丈の短い雑草を蹴飛ばした。やがては丈を伸ばし、数も増やす。雑草と数本の木だけが生命を宿しているこの寂れた公園。
目に入る公園の遊び場は、草が茂る砂場。それと、老朽化した遊具。余りにも古びたもは取り壊された。残った遊具はブランコと滑り台だけ。
残っているブランコといえば、青ペンキが剥がれ錆ついている。おまけにロープが巻かれ、使用禁止と書かれたプラカードがぶら下がる。そうなると、唯一遊べるのは土埃だらけの滑り台ひとつ。
数棟ある団地のために作られたこの公園。団地ずっと前から、コンクリート作りの古墳のようになっていた。
窓手すりに干された布団の光景も話し声や鳴き声もない。団地が空っぽになれば公園も空っぽ。公園と団地は一心同体だったのね。
団地の壁はひび割れて、酷いところは剥がれ落ちている。
ただの形跡。
――私も人の形跡。
ああ。考えていたら悲しくなってきちゃった。
ひとりは寂しい。
――誰か。
木にバサバサと羽の音。
カァー。
カラスが鳴く。
はあ。
思わず大きめが出た。ため息は公園に響いた。
「カラス様登場! そろそろ髪を切ったらどうだ、その黒くて長い髪が地面につくぞ。顔色も悪い」真っ黒の少し太めのカラス姿の年長お化け。
「カラス様。元気そう」そういって私は斜め上の羽を休めるカラス様を見る。ずっと前からカラス様は私のことを気にかけてくれた。この場所で泣き続けていた時から。
昔のことを考えるなんて終わりが近い?
「いい話を持ってきた」
「ゴミを漁ったらオードブルでもあたのかしら?」
「オードブルがなんだ。カラスと一緒にしてくれるな、こっちはお化けのカラス様だぞ。マヨネーズクラスでないと嬉しくない」
「オードブルとマヨネーズ、私にはどちらが格上かわからないけど。同じお化けとして惨めよ。カラス様」
「そうだな。今度からはしっかりと辺りを確認して人が居なくなったところを」
そういって涎を垂らす。
「まさかマヨネーズの話をしにきたの?」
カァーと一度鳴いた。
カラス様は突然、鳴く。
「そうだ、人間がくる。この公園に。それも、人の子が。特に、お前はずっと人を味わってないだろう……」そういって冷たい大きな黒い眼が光る。
その言葉は、どれほど待ちわびた言葉だろう。
「そう」
「おいおい、冷静を装っていても口角が上がっているぞ」
そうかしら、と私は口角を触る。
確かに……グイっと上がっていた。
「お化け同士、仲良くやろうじゃないかあ。俺はおこぼれでいい。我々は人の側で人が放つ力を吸わなければ消滅してしまうからな……」そういうとカラス様は、まるで嘔吐しているかのように唾液をダラダラと零す。
ええ。ひとつ相づちをして、私は口元をぎゅっと結び、口に溜まる唾をゆっくりと音を立てて飲み込んだ。
「準備しないといけないわ。こどもなら私たちが見えないってことはないものね」
「ああ。久しぶりにアレが見られるのか」
私は公園の中央に立ち。そして、残り少ない力を使う。
両手を広げ、目をつぶる。緩やかで暖かい風が吹く。
「おお、地面が眩く光る。神秘だ。何度見ても」
目を閉じていても瞼を足元から輝いている光が浸透する。最後の力を振り絞って。
私の中には水滴一粒の力しか残っていない。
「なんと、見事。花が咲き乱れる。まさしく、百花繚乱」
カラス様の誉め気持ちが高揚した。瞳を開くと私を中心として半径三メートルには様々な花が咲き乱れる。
鮮やかな色のガーベラ・幸せを包み込んだようなチューリップ・淡い色を放つカーネーション・輝く光を切り抜いたようなユリ・儚さに酔うスイートピー。
私の庭。
もしかしたら、これで最後。
「この私でさえ、引き寄せられる。人間などひとたまりもないだろう」カラス様は天を仰ぎながらいう。
手足の感覚が鈍くなる。「はぁ。ありがとう。ならいいけど。ねえ、カラス様、私が消えたら。毎年一度は花を供えてよ」
「縁起でもないことをいうな!」
「お化けに縁起も、何もないでしょ。もしも、この花に興味を持たれなかったら……」
「今までこれでどれほどの人間を――」
「あっ」カラス様の言葉を遮るように私は声を上げる。
「喋るカラスを見たら人は逃げる……」私は申し訳なさそうにカラス様を見つめた。そして、宙で冷たい大きな瞳と出会う。「カァー」と鳴く飛び去った。
物わかりの良すぎるカラス様を、私はちょっぴり尊敬している。
私は公園の出入り口を見つめた。足音がする。
男の子が入口で止まり、こっちを見た。
無いはずの心臓がバクバクと鳴るような気がした。
そして、ゆっくりと確かにこちらに向かう。
もう少し、もう少し。戻っちゃだめよ。振り返らないで。こっちよ。
5、6歳くらいの男の子が溢れるような笑顔で近づく。
「うわあ。ここだけ、なんで、すごいよ。お姉ちゃん、どうしてここだけ花が咲いているの?」
「さあ、こっちに。もっとそばで見て」
――その花は。
――虫を誘引する食虫植物のように。
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