あの日を後悔するだけで終わらせない僕ら。
猫又大統領
別れと出会い
第1話 Qちゃん
彼女は前日から楽しみにしていた昼食を手に入れた。形を崩さないようにバッグの中へそっと置く。そしていつもの公園へ。軽快な足取りの彼女には、午前中の仕事のミスを気にしている様子など、まるでない。
彼女は少し前までトイレの個室で涙を流していた。そして、涙は手のひらに乗る俺の身体に降る。俺は無言で励ました。
途中の歩道橋を彼女が歩くと、ちょうど真ん中あたりから、動物のか細い鳴き声が響いた。
「うん? どこだろう……あ、Qちゃん。どうしよう」
人目に触れるような場所で、彼女はバッグから俺を出さない。でも、あの時は俺を手にした。歩道橋の真ん中で。
彼女は、小さな歩幅でゆっくりと声のほうに、向かう。そこには、手すりの上に小さく座る猫が一匹。よく見ると小刻みに震えていた。歩道橋の下には、幾台もの大型車がの轟音を響く。
「そこ、危ないよ。猫ちゃん! お名前はなあに? この子はQちゃん。人形星人のQちゃん。よろしくね」
俺に興味を示すことのない猫は、訴えかけるように、ただ鳴くばかりだった。
「やめとけ。平気だ。動物って言うのはそういうところでも以外と平気なんだ。むしろ得意ないくらだ」聞こえる訳がないのに、いつも心の中で話しかけてしまう。彼女も毎日、話しかけてきた。もちろん、俺の毎度の返答は聞こえない。そんな心地よい平行線の関係だった。
「Qちゃん、私がこの子を助ける。頑張る!」そういってバッグに俺を戻す。彼女は放っておけない良いヤツなんだ。
「そこでじっとしてるんだよ。よし、抱きしめちゃうぞ!」そういうとバッグが激しく揺さぶられた。その揺れが徐々に治まる。そして、切迫した彼女の息遣いが、バックの中まで、聞こえてきた。
「あ、ど、どうしよう、なんで、ああ、助けて……手の力……もう……いっ、手が痛い、ぎゅっぅぢゃん助けて。力がも……あ、人、階段……きた。こっち見て……スマホ、じゃなくて、こっ……ち、ヘッドホンで聞こえな、い、か……もう、手が――」
「どうした、おい。頼む、誰か! こっちきて助けてくれえええ。聞こえないのかよおお」俺はバッグの中から声に出ない声を叫び続けた。
そして、一瞬、浮いた。バッグから放り出され俺は、アスファルトに打ち付けられ、クルクルと何度か回る。
目の前の青い空には、白い雲がぽつりぽつりと浮かぶ。ヘッドホンの男が、歩道橋の上から一瞬覗くと、すぐに顔を引っ込めた。
濡れた大きなタイヤの前輪が、俺の真横で、音を立てて止まる。
***
踵が上手くスニーカーに収まらない。土間の床のタイルを爪先でトントン、と蹴り強引に押し込める。
床をそっと踏み込む足音が、背後から近づいた。
「どこにいくの? こんな遅くに……」
霧になって消えそうな小さな声。振り返ると、胸のあたりで両手を握って母が立っていた。
「ごめん、起こしたよね? コンビニ、少し、歩きたくなって。行ってくるね」
「何もこんな遅くに……深夜よ。明日の朝、買いに行くから。何が欲しいの。だから……ね」
「すぐ帰ってくるから……」
玄関ドアに手をかけて答えた。気を付けてね、とさらに小さくなった声で母がいう。そして、僕は一歩外へ出た。
僕がこんなに遅く家を出ることはなかった。高校生の身分では補導されるかもしれない。それなのに、母は強く止めなかった。いい兆候だと思ったからだろう。僕は数か月前から、家に閉じこもっていたから。
夜の空気は思っていたよりも冷たくない。僕は厚いジャンパーを選んだことを少し後悔した。人のいない道に安堵と不安が溢れる。規則だって並ぶ街灯を頼りに、僕は歩き出した。
「こんばんは」
体が地面から離れるかと思うほど驚いた。心臓はドクドクと鳴る。
「ここだ。街灯の下」
側にある街灯の柱に、白い人形が寄りかかっていた。手の平を少しはみ出すくらいの大きさ。白い体に、頭には赤い大きめのベレー帽を被る。熊を模したものだろうか。新品のようなハリはない。でも、決して雑に扱われていたようにも見えなかった。
「こんばんは」紛れもなく、僕の正面にいる人形からの声だった。
誰かがからかうため仕掛けだ。挨拶を無視して、歩く速度を速める。家に帰ることも考えた。でも、すぐに帰宅すれば母はなんて思うだろう。
数本の街灯を通り抜け、速度を緩めた。背中に汗が湿るのをじんわりと感じる。
「どうして、通り過ぎる? 挨拶は基本中の基本だ。たとえ深夜であっても、人形が相手でも」僕は声のする街灯の下を恐る恐る見た。あの人形がまた街灯の下にいる。「わあああ」僕は叫び声をあげて走り出すその瞬間。バランスを崩して転んだ。うつ伏に全身を叩きつけ、慌てて起き上がる。
「大丈夫か」
痛みと恥ずかしさで頭が一杯になった。僕は思わず。うん、と返答してしまった。
「ひとつお願いしたことがあるんだ。それは明日、俺に付き合ってほしい」
人形は僕への心配は全くなく。淡々と目的をいう。しっかりと話す姿に恐怖は和らいだ。でも、新たな恐怖の種を僕は見逃せなかった。
〇どうして僕なんだ〇疑問が浮かぶ。
「あした、迎えに行くから家で待っていてくれ」
当たり前のように家まで知っているという。それは脅迫のような気配はなく、苦手な知り合いの感覚があった。「わかったよ……」僕がそう言いながら、手足についた埃を払う。汚れは少しも落ちない。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。Qちゃん。そういう名だ」
「Qちゃん……分かったよ。あ、あしたは何時ごろ……」
「迎えにいくから大丈夫だ」
「そ、そう……僕は帰るね」
「いいのか? 用事があったからこんな遅くに外出してきたんじゃないのか? それも久しぶりに」
「だ、大丈夫」僕はそう返した。そして、来た道を少し早歩きで戻る。
帰宅したとき、幸いにも母に会うことはなかった。汚れた服をみたら大変なことになっていた。
足音を殺し、二階いく。ベッドへ横になると僕はあしたのことで頭がいっぱいになる。心臓と頭の奥から疲れがどっと溢れ、身を任せた。
どうして……外に出るのが久しぶりだと知っていた。
虫が窓ガラスにぶつかるような音。コツ、コツ。それは続けざまに。寝ていた体に少しずつ意識が広がる。
「寝てるのか。そろそろお昼だ。行こう」
Qちゃんが窓に張り付いていた。「あ、あ、うん」返事をする。瞼を少し閉じ、気合をいれて開けると。Qちゃんは窓にはいない。
僕は母に気づかれないように足音を殺し、玄関のドアを開けるQちゃんが足元で仰向けになっていた。「抱えろ」Qちゃんはそういった。少し横柄だなと思いながら。僕は彼を両手のてのひらに収める。
そこからは、Qちゃんの的確な指示で誘導された。ついた場所は女性客が6人ほど並ぶパン屋。ガラス越しから見える店内はこんがりしたパンが並ぶ。その光景に唾液が口にじわり広がった。
僕は順番を待って店内に入ると「あった、あのサンドイッチを取れ」Qちゃんは小声でいった。彼はどこか嬉しそうに。Qちゃんは僕の左手に張り付いた。僕は空いた右手でサンドイッチを取る。手に張り付く芸が出来るなら、今まで両手で運んだ意味は。一瞬頭を巡った。
レジで店員さんから、このサンドイッチはすぐに売り切れる、人気商品だと聞かされた。その代わりコンビニの物より値段が倍。なんてグルメな人形。それも人の金で。非常な人形。
店を出ると、すぐに僕は指示されるがままに歩く。そして見えてきたものは、中央に噴水のある大きな公園。僕もよく来ていた。噴水前のベンチに座り。曲を聴いてしばらく休んむことがある。
僕はいつものように中央を目指す。「おい。木の下するんだ。紫外線だぞ」Qちゃんが紫外線を気にしていたことに驚いた。僕はQちゃんの条件にあう端の木の下にあるベンチへ座る。
「あのサンドイッチを食べないのか。お腹すいているだろ」
「あれ、僕の? Qちゃんだと思ってた」僕がそいうと。Qちゃんは無言になった。きっとこいつは何を言ってるんだ? と思ったに違いない。
僕は黙るQちゃんを横に置いて、大きく口をあけて一口。サンドイッチは絶品だった。脳内に値段がちらつく以外は。
Qちゃんは僕が食べ終わるとすぐに、次の場所に向かう指示を出す。しかし、僕にこんな真似をさせているんだろう。
公園を出ると来た道とは違う方向にいく。その道は、知っている。
あの場所に繋がる。
少し歩くと見えてきた。鼓動が鳴る。
あの、歩道橋。
歩道橋の柱の下には、花が沢山あった。それは、献花だ。
数か月前、女性が猫を助けようとして転落死があった場所。その様子の一部始終は車載カメラに映っていた。女性が端にぶら下がり様子。階段を上っても助けようとしない男性。世間の厳しい目がその男性に向けられた。
Qちゃんは歩道橋を越えるように僕にいう。
歩道橋を上ると、僕の下を大型車が通る。歩くたび、冷や汗が全身から出た。足が重い。歩道橋から覗き込んだ映像が鮮明に蘇る。
バッグから飛び散る書類やポーチにハンカチと手付かずのサンドイッチ、トラックの後輪が体に乗った動くことがない女性。
トラックの横には人形がいた。
彼は、僕を見ていたんだ。目が合っていた。
Qちゃん。
歩道橋の真ん中、そこにも花が供えられてあった。そこで僕は足を止める。「どうした?」Qちゃんがそう問いかけた。「……分かったよ」僕は俯いていった。
「気づいたのか。遅いな。こっちは忘れたことが一度もない」
言がでない。
「家から出ないお前をずっと、待った。部屋にこもるのは罪滅ぼしのつもりか。自宅を刑務所代わりにしてるっていうのか?」
「ご、ごめん……なさい」僕は手すりを握りながらいった。涙が伝う。
「お前をここで殺すとでも思っているのか? 突き落とすと? 俺は悪霊になったつもりはない!」
Qちゃんの声は震えていた。
「ごめん……ごめん。あの時。僕が気づいていれば……ずっと、後悔を……ここへ来るのも怖くて……花も供えることが……」
「昨夜、もしもお前がヘッドホンつけてスマホを見ながら歩いていたら事情は変わっていた……かもな」
「これから……僕は、どうすれば、僕はどうすれば……」
「原因を潰しにいく。前の力が必要だ」
僕は歩道橋でQちゃんの計画を聞いた。
歩道橋を下りると猫の鳴き声が聞こえる。
Qちゃんの言う通りに雑居ビルの並びを歩いた。横目でビルとビルの間を見て回る。すると、男性が体を屈めて段ボールを見つめていた。段ボールからは子猫が顔をちょこっと顔を出す。
男の右手には黒く光るカナヅチが見えた。
僕の足は棒のように硬直する。
「わあああああああ」人生で一番の声を僕は出した。そして、止まることなど考えず、男に向かって走る。
罪滅ぼしのために。
***
僕は慣れない左手で薄味のスープを飲む。右手は使えない。あの時、振り下ろされたカナヅチが右の肩に入ったからだ。両腕には打撲の跡がいくつかある。カナヅチを持っていた男が何度か振り下ろした跡。あの男は突然、首を押さえて倒れた。殴打が続けば、死はあったと思う。
あの男はカナヅチで地域の猫を虐待していた。そして、弱った猫を歩道橋の端に置き、落ちるのを楽しんだ。
あの日、彼女が助けようとしていた猫もそうだ。
Qちゃんの計画はこうだった。僕の背中にQちゃんが張り付き。僕が男に突進する。倒れた男の両手を僕が押さえ、その隙にQちゃんが口の中へ。
その計画は体当たりをする寸前に狂う。体に当たる前に。カナヅチが僕の肩にめり込んだ。その後は、両腕で身を守ることだけだった。僕は何も出来やしなかった。
「世間じゃお前はヒーローになってる。体を張って猫を救った」
Qちゃんはどいうわけか、よくやってくる。
「あの日は、自分にご褒美だといって週に一度のパン屋へ買いに行く日だった。彼女は奮発してお高いサンドイッチを買うんだ。選び抜かれたハムとクリームチーズとトマトをご自慢の食パンで挟んだ人気商品」
僕が頷きながら聞く。
「ダイエットをすると宣言した時も変わらず買うんだ。紫外線を避けて木の陰やお店の軒下の陰をを歩き続けて迷子になったこともあったっけ、笑えるだろう。なんて……いい日々だった」
Qちゃんは来るたび、彼女の話をする。
「人形が話せるようになるんだから。また彼女に会えることだってあるだろう。まだ計画はないけどな」決まって最後はこういう。
「その時……また……手伝うよ、手伝わせてよ……」僕は必ずこう返す。僕の罪滅ぼし。
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