Sinkー2

 読んだ本を食べていた。天井が崩れ落ち、降ってきた書架から、次々に本を取り出して読み、食べ続けていた。懲罰用の部屋に、書斎が墜落した。そう思い出したときには、どれだけ望んでも手に取ることを許されなかったものはほとんど全て脳と胃のなかに納まっていたし、熱した棒や短いナイフでいつもどおり私を痛めつけようとしていた家主たちは鉄の棚にぺちゃんこにされて身体を腐らせていた。父も母も知らない私は、この屋敷の奴隷だった。

 町が大きな昆虫に襲われてから、二度目の夜が明けた。ぼやけ始めた視界で、無理やり身体を動かして歩く。本は多くの情報を与えたが、いま重要なのはそこに挟まっていた一枚のメモだった。屋敷の主塔の下に緊急の食糧庫がある。

 目一杯の体重をかけてレバーを引く。閉まった石の扉を背に、へたり込む。壁面の燭台に明かり灯した地下室。瓶詰めの野菜や干し肉を貪りながら、想うのは、消化した物語の誰より醜い自分の姿だった。ときおり喉に詰めて、吐き戻す。手をついて向き合う汚れた床。濡れた袖元も、慌てて高鳴る心臓も、間抜けな甲高い呼吸音も、この暗闇の静謐さを台無しにする異物だった。

 幼少期の記憶はなく、私の思い出は何処かから逃げ出すことから始まった。何も分からないまま屋敷に囚われて八年になり、悟ったことがある。私の人生は沈降に満ちている。幸せなど望むべくもない。だから、すぐだった。もうほかの誰も生きていないはずのこの町で、慌ただしい足音が聞こえてくる。大きな声を出して迫る、複数人の足音が。

榾世族こっせいぞくならやるよ、使い物にならないこともないだろ」

 辿り着いた村役場の前で、移民団のリーダーに私は突き出された。出会って一週間。頼む、少しだけでも恵んでくれ、仲間が死にそうなんだ。そんな声に石壁を開けたところ、私が半年は生きていけそうなくらいあった食糧は丸々彼らのものになった。肌に触れた刃先は冷たい。力なく座る私はそのままリーダーの男に首を斬り落とされかけて、利用価値がどうとかで雑用係として収まった。

 生きていくためには、痛さには慣れなければならない。わずかな休憩時間の度に、荷車を引き続けて真っ赤になった自分の手のひらを見つめる。とてもみすぼらしかったことが助かって、性的な役割は強要されなかった。死にたくはない。隙をついても逃げ切れないと悟る冷静さが、私を彼らの元に縛り付け続けていた。

 本の記載から、明らかになったことがある。星樹人せいじゅじんとの交流もなく原始的な生活を再興している――つまり、この周辺地域の――人々は以下のように考えているらしい。星系樹せいけいじゅと関りがある場所は、噛蟲イーターに襲撃される。私が首の焼き印のために証明される、榾世族こっせいぞくは、星系樹せいけいじゅを創った科学者の一族だ。。あまりに大げさな脅威性を、未知さを、気味の悪さを、彼らは出自に空目しているらしい。その排斥の支柱に、どんな言い切りも許さない複雑な現実が絡んで、いまのありさまを作り上げている。移民団の定住は許されたが、野性味のある仮面と弓を誇りとする曾爾族そにぞくの村で、案の定自分一人だけ檻のなかだ。

 しかし、ここには希望があった。ある満天の星の夜、村端の丘に私は呼び出された。地下牢の鍵は開けられていて、あまり音を立てないように辿り着いたそこでは、背の高い少女が一人、パンや野菜を詰めた鞄を持って立っていた。

 マリアだ。美しい灰色の髪に、健康的な褐色の肌。マリアは、この村で唯一科学に興味を持つひとで、族長の一人娘で、狭い独房に閉じ込められた私に初めてできた友達だった。私の冷え切った切り傷まみれの手を、温かな両手で包み、こんな村でごめんね、と繰り返す。閉じ込められてからいままでの三週間、マリアは何度も私の元へ通い、複数人の看守と通じて、食べ物や本――曾爾族そにぞくが持っているのは、ほとんどが過去の技術書だった――などを届け続けてくれた。彼女は私を浮かす木板であり、水面に照る太陽だった。初めて舞い降りた幸せそのものだった。

「わたしは、ここを何処にも負けないような素晴らしい場所にしたい」

 マリアは時折遠くを見つめて呟いた。凛々しさと美しさの源泉は彼女の横顔にあるかもしれない。丘の上で風にあたる頬も、穏やかな大洋のような青い双眸も、私の人生のなかで最も価値のあるものだった。髪も目も色がお互いに似ていたから、勝手な私は、彼女に特別な繋がりを感じ、惹かれ、憧れていった。村について良いことも悪いことも、麗しい口元から語られたことで、存在しない記憶が想起される。慈悲深い姉のようなマリアと接するにつれて、曾爾族そにぞくの村が、本当の私の故郷である気さえした。

 二人きり、銀河の下で夕食を摂る。口中に美味しさの余韻が残るなか、マリアは降り注ぐ星明りよりたくさんの質問を浴びせてきた。草原に寝転がり、お互い少しむせるくらいに話し続けて、夜も更けるころ、彼女は語った。曾爾族そにぞくの村の祭祀殿さいしでんには、かつて榾世族こっせいぞくが残した碑文と、ペンダントがある。


 宇宙に誕生があったのなら、死は生より自然であると思う。

 自然にのみ、ほかの自然を内包することが許される。


「わたしは、死って、そんなに恐ろしいことじゃないと思う」

 何で急にそんなこと。首を向けて問いかける私を遮るように、遠方から爆音がする。村の東の崖下には、かつて海だったこの一帯の中央にあたる巨大な窪地があり、一人の星樹人せいじゅじんがそこを根城にして噛蟲イーターと戦っているらしい。

 変なこと言ってごめんね。謝罪に、意識が戻される。伸ばされた手は、背負う逆光も相まって、天からの救いにさえ思えた。少し腰を浮かし、小さく笑いかけてくるマリアの表情。柔らかな肌も、くっきりとした目元も、声も、言葉遣いも、みんな好きだ。彼方、夜に吹き上がる虹の光彩が、あまりに違う私たちの影を同じ黒に塗りつぶして丘に重ねる。いつも彼女の隣にいられたら、どれだけ幸せだろうか。朝の確認までには戻る必要があるのが、どうしようもなく悔しかった。またね、マリア。私はこぼれる涙を拭わないまま手を振り、振り向かずに歩き、誰にも見つかることなく、牢の内側に自分を閉じ込めた。

 鮮烈な痛みで目が覚める。翌朝、曾爾族そにぞくの村の大きな祭壇で、全裸の私は横倒しの架台かだいに磔にされていた。脇腹の切り傷に塗り込まれた神経毒で絶叫する私に、紺の礼服の族長は感情のない目を向ける。この村では、まれにヒトが星樹人せいじゅうじんの居所へと捨てられることがある。噛蟲イーターに対するスケープゴートとして、無理やり騒がせた贄を、空っぽの海の下に叩き込む。そう教えてくれたマリアは、族長と同じ服装で、彼の隣に控えている。つまるところ、昨日は処刑の前日で、あれは最後の晩餐で、彼女はそのことを知っていた。小声で、二人の会話が聞こえる。マリアの口元が歪んで――笑う。

「未解読の文献は全て読ませて聞き出しました。御覧のとおり儀式にも使えるので、良い拾い物だったと思いますよ」


 あぁ、そうか。

 私は今日死ぬ。


 暗く冷たい深海に、一人叩き落されたようだ。いつもどおり唖然とする代わりに、生まれて初めて憎しみが沸いた。激情が発火し、涙で視界が歪む。マリアは老人の指示に従って立ち上がり、広場に一礼をし、金の仮面をつけ、祭壇に置かれた弓と矢を手に取った。そのまま石張りの高床の端まで後退すると、腕を引き絞って私の胸を矢じりの先に捉える。

 歓声が上がった。労働力として頼りになったのか、意気投合したらしい移民団のメンバーと村人たちが手を叩いてはやし立てる。物見台の番頭ばんとうが特別な鐘を鳴らし、やくたちが古い言葉を吟じる。はこが筋肉を唸らせながら大通りに車を引き、荷台から身を乗り出した棒持ぼうもちが各人の家の前に吊るされた小太鼓こだいこを次々に打てば、そこは伝統的で盛大な祭りの会場だった。

 私はわずかに残る知性を発揮させて悟る。マリアは将来の曾爾族そにぞくを担う者。これはきっと、族長になる通過儀礼の一つだ。さやかな青空。温かな陽の光。笑いあう人々に、吹き渡る澄んだ風。賑やかで幸せな音声おんじょうのなかで、私だけが死の淵に張り付けられていた。

 覗く黒い瞳が、弓を引き絞る。美しい花弁のような金の装飾に隠された表情など知る由もない。知りたくもない。腕と矢じりの動きだけが、もはや私にとっての彼女の全てだった。私には家族がなかった。名前も、榾世族こっせいぞくの子、以上のものはなかった。私のものは世界のどこにも存在しなくて、どんな記念日とも、愛とも、絆とも、無縁だった。以前は当然と受け入れられていたのに、いまはこのことが、痛くて、辛くて、怖くて、憎い。

 言葉にならない叫びを上げた途端、世界が鳴動した。また星樹人せいじゅじん噛蟲イーターを撃破したようで、爆心は極めて近かった。東から迫る轟音と激震に、私を縛っていた枷は外れ、家々は軋みを上げ、一転して広場には悲鳴が満ちる。慌てふためく移民団の男たちも、足を滑らせて壁に身体を打ち付けた村の少女も、隣で腰を抜かした族長も、別世界の出来事のように、マリアの矢先はこちらを照準したままだった。

 二人だけの静寂があった。血走った目に沸騰しかけた憎悪と、仮面の下の冷厳に挟まれた、脆い静寂だった。顔面に向けて投げつけた手枷と第一射が火花を散らした瞬間、世界は再び動き出した。私は信じられない速度で放たれた第二射を荷車の陰に転がり込んで躱す。筋肉の動きによって、足の傷が開かれていく。噴き出した汗に薄められた血が、一歩ごとに乾いた地面に染み込む。村人も移民団も、恐怖に固まって追いかけてこなかった。もう奴らにひとだと思ってもらう必要はない。こちらもそうは思わない。毒の痛みは消えていた。焼け付いた喉から上がる咆哮。瞳に深海の闇を湛え、手負いの獣の足取りで、私は晴天の大通りを走り抜ける。

 後先など考えていなかったから、忘れていた。東に向かえば、巨大な深淵とぶつかる。一〇メートルほどの崖下に張られた未知の樹木の水平に、身体が動かない。誰も追ってこなくても、日の差す岩場は焼け死ぬのに十分な熱を持っていた。私の人生は沈降に満ちているから、太陽にすら嫌われるらしい。落ちるように倒れ、目を瞑る。

 しかし、その音は深淵の方からした。足裏だけでなく、背中や腕に取り返しのつかない火傷が刻まれる一歩手前、投げ込まれた小さな水の瓶が私を濡らした。顔を上げると、目が合う。「『-4甲層』駅舎」と扉に彫られた小屋から出てきた長身の女性。蘇生したばかりの星樹人せいじゅじんに拾われたのは偶然のことだった。

 莢海さやうみと名乗る彼女は私を治療すると、ルビスコという名前を与えた。甦翠殿そすいでんの仕事を手伝うことになったのも、星系樹せいけいじゅや世界についてもっと詳しい状況を知ったのもそれからだ。彼女に出会って、、私には一つの目標ができた。


 ・・・・・・


「もうすぐこの海台を離れるけれど、あなたは付いてきますか、ルビスコ」

「いいえ、行けません。私にはしたいことがありますから」

 二年の時間を経て、もうすぐ達成できる目標が。


 翌日、晴れて凪いだ海台の中央。莢海さやうみが握ったD‐BlockWeapon――鉄色の銃把じゅうは――をさらに上から両手で掴んだ私は、西の正しい照準に向けなおした。遠い根の水平の向こう、岩場に並ぶ木製の家屋の群れ。愚かで薄情な怪物たちと、どうしようもない彼女の村へ。



 

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