海を越える桜の音(3)
♬
『二つの変奏曲』より『さくらさくら』
着物の
それだけで、しぃん……と、「
手を伸ばす。
両手の細い指先が弦に触れる。
瞬間、世界が広がった。
屋敷だった場所の壁という壁が取り払われ、全員を包む空気が、いっせいに青い空へと同化する。
広大な空間の隅々にまで、澄んだ響きを届ける、十三本の弦の振動。
なじみ深い『さくらさくら』のメロディが、繰り返し何度も現れては変化する。
羽流衣のしなやかな指先が、繊細な音も、力強い音も、休みなく自在に生み出していく。
箏に詳しくはない
弦をすくう。こする。爪をかける。
弦を強く押す。弱く押す。
放す。突く。揺らす。引っ張る。
流す(グリッサンド)。同音を反復させる(トレモロ)。指で短く
右手は装着した爪・爪の裏側・爪をつけない指先を素速く使い分け、左手は弦を押したり引っ張ったりして音色を操ったかと思えば、右手と同じように弦を弾いて主旋律も伴奏もこなす。さらに、弦と同数ある
一体いくつの奏法、いくつの音色があるのか。
それらを、こともなげに
両手でどんな超絶技巧を繰り出そうとも、羽流衣の姿勢はブレることなく、穏やかな微笑みも変わらない。
そこにあるのは、聴く者が気後れするような敷居の高さでも、伝統継承者としてのプライドでもない。ただ美しくあろうとする心の姿勢と、音楽への愛情だ。
この『変奏曲 さくらさくら』は、古典
残念ながら今回は時間がないが、いつか自分のオーケストラに箏の音を取り入れてみたい、と願う卓渡だった。
桜が満開に咲き乱れるような、華やかなるグリッサンドの連続を経て。静かに、ビブラートで余韻を残した音が溶けていく。
演奏が終わった。
わかっているのに、余韻に体ごと吸い込まれたように、しばらく動けなかった。
「……素晴らしい、『命の音楽』でした」
言ってから気づく。
そういえばこれは回収業務じゃなかった。黒玉ちゃんは録音してくれただろうけど。
「ひとつ提案があるのですが。
* * *
「箏はまだ自信ないけど、ハープなら……」
里琴は勇気を持って姑との合奏に同意し、卓渡もついでに「回収」をさせてもらうことになった。
当日、音道家。
音合わせを始める前に、嫁と姑、二人同時に「「実は――」」と切り出した。
「な、なんでしょう」
「私は後で大丈夫です。里琴さん、お先にどうぞ」
「あ、ありがとうございます。それではお先に。実は私、お義母様に聴いていただきたい曲があるのです。
「まあ、それは楽しみです。実は、私も里琴さんにお聴かせしたい曲があるのですよ。それでは、順番に用意した曲を演奏しましょうか」
「はい! ありがとうございます!」
楽しみが増えた。二人の二重奏だけでなく、それぞれの演奏(ついでにスティールおっさん演奏)も聴けることになった。
姑に対して臆病になっていた里琴が、わざわざ準備した曲とは、どんな曲なのだろうか。
椅子に座った里琴の前に、一台のアイリッシュ・ハープ。ブラウンのメイプル材の木目が美しい。
その横に、スティールおっさんこと音道豊海のためのスティールパン――では、ない。
音道の膝の上に、まるで中華鍋の蓋のような、金属製の丸い物体が乗っている。
卓渡が面白そうに目を細める。
「また珍しい楽器を持ってきましたね。ハンドパン、ですか」
「スティールパンは、この曲にはちょっと強すぎて合わねえんだよ」
ハンドパン。
スティールパンと同じく、打面の
息を吸い、里琴がアイリッシュ・ハープを
明らかに、普段演奏するアイルランド音楽とは全く違う調だ。
上部に弦の数だけ並ぶレバーを操作し、演奏しながら音の高さを何度も変える。いわば、箏の
♬
『春の海』
お正月などによく流れている名曲。
原曲は、箏と尺八の二重奏だ。
アイリッシュ・ハープが箏のパートをなぞる。箏と全く同じ「色」を出すことはできないが、代わりにハープならではの「色」と響きで、今この場だけの『春の海』が奏でられていく。
アイリッシュ・ハープは、大型のグランド・ハープよりもはっきりとしたシャープな音を持ち、「民族楽器」の特徴を備えている。日本の歌にも合いやすい音だ。
そこに、尺八の代わりにハンドパンの音が乗る。
スティールパンと同じ、金属製打楽器ならではの豊かな
アイリッシュ・ハープとハンドパンによる『春の海』は、いまだかつて聴いたことがない新鮮な響きで共鳴し合いながら、心に沁み入る「日本の海」の情景を映し出している。
繰り返す波。海を渡る風が、海岸を埋める花を撫で、海上に花びらを舞わせる。
時にくるくると遊んだかと思えば、時に荒ぶる波を渡っていく。穏やかな海を照らす、暖かな陽の光――。
二つの楽器が、ぴたりと寄り添い、
夫婦の共演を、羽流衣は眩しそうに、嬉しそうに笑みを浮かべながら見つめていた。
* * *
「私と豊海さんの楽器で、日本音楽を表現できないか、と思いまして……。伝統を崩すようなことをして、申し訳ございま……」
「なぜ謝るのですか」
演奏が終わったとたん、また
「素晴らしい演奏でした。全く新しい『春の海』を、あなたたちの手で聴かせてもらえてとても嬉しいです。この曲は、箏と尺八の代表的な曲ではありますが、今まで様々な楽器で奏されてきました。ヴァイオリンによる演奏が有名ですね」
言いながらしなやかに立ち上がり、羽流衣は箏の調弦を始めた。トテチテシャン、と風流な和の音が、金属製の倍音に代わり、部屋の空間を満たしていく。
「霞んでしまうのは、私の方ですね。里琴さんが日本音楽を奏でてくれたように、私もアイルランドの民謡を奏でます。お聴きくださいませ」
♬アイルランド民謡
『ロンドンデリーの歌』
(The Londonderry Air)
古くから繰り返し演奏され、様々な歌詞がつけられてきたメロディは、日本人にとってもなじみ深いものだ。
もちろん、アイリッシュ・ハープでも何度も演奏されてきた、アイルランドのスタンダード・ナンバーのひとつだ。
巧みに音質を調整し、ハープに近い音で、箏がアイルランド民謡を歌う。羽流衣の細やかな指先が、素朴ながらも心癒されるひとときを作り上げた。
里琴も卓渡も、息子の豊海も、ただうっとりと、心地よい音の波に体を
曲が終わり、惜しみない拍手を送った後、今度は里琴と羽流衣の共演だ。
二人は横に並び、息を合わせ、アイコンタクトで演奏を始めた。
♬日本唱歌/アイルランド民謡
『春の日の花と輝く/Believe me, if all those endearing young charms』
アイルランドに古くから伝わる民謡が、海を越え、日本でも長い年月をかけて親しまれてきた。唱歌として、音楽の教科書でもおなじみだ。
まさに、二つの国の音楽を結びつけたと言っていい曲だろう。
二つの楽器、二人の人間の心も、流れる時の中でこうして出逢い、結びつけられた。
新たな絆が生まれ、また新たな人の輪が音楽と共に広がっていく。
桜の花が、海を越えて音楽を運んでいく。
日本の音楽が他の国の音楽と出逢い、新たな音楽となって、また海の向こうへと渡っていく。
音楽は、世界を結ぶ橋だ。
卓渡の未来も、音楽と共に、海の向こうを見据えている。黒玉ちゃんと歩む道が、海の向こうで新たな出逢いを迎えるのは、そう遠い話ではないはずだ。
部屋中にあふれる音と、花が咲くような笑顔。
改めて新しい家族を迎えた音道家には、いつまでも活気あふれる音楽が流れ続けていた。
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