風の翼の乙女(2)
♬アレクサンドル・ボロディン作曲
オペラ『イーゴリ公』より
『ポロヴェツ人の踊り』
※タイトルについて
原題通りに訳せば『ポロヴェツ人の踊り(Polovtsian Dances)』だが、日本では『ダッタン人の踊り』というタイトルで広く知られている。
ポロヴェツ人はトルコ系、
※あらすじ
その昔、イーゴリ公とその息子が遊牧民族・ポロヴェツ人の侵攻を食い止めるために遠征するが捕らえられる。陣営にて、ポロヴェツ首長のコチャック・ハンは二人を
* * *
フェオドラの弓が動く。とたん、一帯の空気が変わった。
日本の川原にいたはずが、まるでオーケストラのコンサートホールのような格調高い情調をまとう。陽の光がスポットライトとなって、フェオドラの上に降り注ぐ。
短い序奏。それだけで、弓が生み出す周波が聴く者の世界を支配する。土手を歩く人々の足が止まる。
十四小節の序奏の後、奴隷の娘たちの歌と踊りの場面。最も有名な旋律だ。
世界的にも「美しい旋律」と名高い「娘たちの歌」を、チェロが情感豊かに歌い上げる。
卓渡の耳には、まるで本物の女声合唱が届いてくるようだった。
♬風の翼に乗って
故郷まで飛んで行け、祖国の歌よ
歌を口ずさみ、共に自由に過ごしたあの故郷
熱い空の下、大気は喜びに満ちて
海は楽しげにさざめき、山々は雲居にまどろむ
太陽が
谷間にはバラの花が咲き乱れ、緑の森で
お前はそこで自由気ままに歌う
故郷まで飛んで行け、祖国の歌よ
遠い異国で思いを馳せる、二度と帰れぬ故郷の地。
聴きながら、卓渡はフェオドラ自身の経歴を思い返していた。
* * *
「国の指導者を批判した」という、まるで覚えのない理由で、彼女の夫が突然逮捕された。
夫がユダヤ人だったから。理由としてはそれしか思いつかなかった。
フェオドラは、国家の交響楽団の一員として他の国に遠征中だった。
楽団の仲間たちの強い勧めで、わけのわからないまま、彼女は遠征先で逃亡し、亡命した。ただ
夫は収容所で亡くなったと聞かされた。
以来、彼女は一度も祖国の地を踏んでいない。
フェオドラ自身も、「卵を持たぬ者」として長い間迫害されてきた。
二度と祖国へ戻るつもりはない。
ただ、ときおり、優しかった家族や友人の顔、美しい故郷の風景が思い浮かび、夫の死にざまを想像し、息が止まるほどの苦痛に
「
ようやく、彼女に音楽家としての呼吸が、人生が戻ってきた。
残酷な運命だった。
今なお、あの国へ戻ることはできない。帰る気もない。
ただ、あの国には、彼女が愛したものが確かにあった。音楽も、そのひとつだ。
彼女の目からこぼれた涙は、右手を
彼女の魂が、チェロの歌。哀愁に満ちた旋律が、彼女の鼓動を風に乗せて、世界いっぱいに響かせてゆく。
いつの間にか、周囲には人だかりができていた。同じように涙を浮かべている者までいる。
歌が静かに終わる。ここで弓を下ろせば、一帯に割れるような拍手が響くことだろう。
だが、曲はまだ終わっていない。宣言通り、彼女は最後まで演るつもりなのだ。
雄々しい男たちの踊り。Allegro vivo(軽快に、烈しく)。
先刻の涙を吹き飛ばすように、弓が、指が小刻みに激しく動く。旋律だけで息つく間もないはずなのに、ベースの音程とリズムまで随所に響かせてくる。常人にはつかみきれないほどの超絶技巧だ。
次に、テンポを落とし、偉大なるコチャック・ハンを讃える壮大な歌へ。
チェロもここぞとばかりに重厚な低音を響かせる。まるで東洋民族の打楽器のように、勇猛に、力強く。
次に、少年たちの踊り。 Presto(急速に)。
さらにテンポを速めた弓が、多数の楽器による音色の違いも表現しながら、どんどんボルテージを上げていく。聴く者の魂をも吸い込んでしまいそうだ。
ボロディンの『ポロヴェツ人の踊り』は、西欧のオーケストラを用いながら東洋のエキゾチックな調べを表した、民族色豊かな楽曲だ。
勇壮かつ軽快な曲に、西洋の楽器編成と東洋のスケール、リズムを絶妙なバランスで融合させている。異国情緒を表現するために、様々な特殊技法が駆使されているという。
曲は、再び娘たちの歌へ。先刻と同じ旋律だが、テンションを徐々に高め、やがてテンポを速めて、再び少年たちの踊りへ、男たちの踊りへと。
場面の移り変わりが明確でわかりやすく、それぞれに情感に訴える聴きどころがある。まるで、違う楽しみをいっぱいに詰め込んだ宝箱のようだ。
聴衆も飽きることなく、十二分があっという間に過ぎてしまう。
何度・何十回聴いても、魅力を再発見できる曲だ。
聴衆の目にも、力の限りに歌い踊る登場人物たちの姿が見えているに違いない。
曲は舞台上の全員の踊りへと昇華して、ボルテージを続々と上げていく。
フェオドラの汗も呼吸も、聴衆の熱気も、すべてが舞台の天井まで突き抜けて、空高くへと昇っていく。
最後の一音が、盛大に響いた。
しばらく魂が抜けたように
コンサートホールが、巨大な劇場が、ようやくただの川原へと帰ってきた。
オーケストラや歌劇団が、たった一人の奏者と一挺のチェロに戻った。
が、拍手は鳴りやまない。アンコールが止まらない。
卓渡はフェオドラに
「素晴らしい演奏でした。あなたの国が、今ここであることに誇りを覚えます」
これまた一仕事(録音)を終えた黒玉ちゃんが、卓渡の波打つ頭を追いかけてふよふよと飛んでいく。
アンコールに応えて、卓渡の背後に新たな曲が流れ込んできた。
♬セルゲイ・ラフマニノフ作曲
『ヴォカリーズ』作品34-14
誰もが
ラフマニノフは、彼女の祖国の、高名な作曲家だ。
時代に追われた老女とチェロの、ドラマチックな人生は、ここにひとつの節目を迎えたようだった。
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