第317話 「クマちゃ……」可愛い赤ちゃんクマちゃんの話をまったりと聞くリオ。「なんでこんなに可愛いんだろ……」野生動物と、森の街の住人的な対応。

 目の前がまっくらなクマちゃんは、現在目の前の壁の安全を確かめている。



 パン――! 銃声に似た破裂音と共に現れたのは、ふわふわの綿毛、ではなかった。


 ふんふんふんふんふん――。


 青白いそれはいったいどのような獣なのか。

 考察するリオの手の平をふんふんする、子猫のような獣。

 非常に気になる。考えがまとまらない。


 リオは雑念を払い、映像へ視線を向けたまま、静かに呟いた。


「鼻めっちゃ湿ってる……」


 ルーク達は心なしか神聖な雰囲気をただよわせる気位の高そうな獣を放って撤収するらしい。そんな馬鹿な。


『いや確かに襲ってこない生き物は殺しちゃ駄目だけどもっとなんかあるでしょ』


 無神経な男達に対する批判混じりの言葉が、リオの頭に浮かぶ。そして小さな獣が、彼の手の平を薄くてちっちゃい舌でペロペロしたり、先の丸い爪でカリカリしたり、もう一度ふんふんふんふんふんふんしたりしている。


「手の平にクマちゃん……」口に出すはずの批判は知らぬ間に、大層幸せそうな言葉に変わっていた。



「おい! そいつが聖獣だったらどうする! そのまま帰ったら意味もなく一発ぶちこんで放置したと勘違いされるだろうが!」


 マスターが無神経な男の心には響きそうにない論理で映像のなかの彼らへ苦言を投げていたとき。


 キュオー。


 愛くるしいもこもこがお鼻を鳴らした。


 彼は、まるで自身が送り込んだ冒険者が聖獣の横っ面を殴り飛ばして帰路につく瞬間を目撃してしまったギルドマスターのような声で犯人に告げ、前が見えずに困っていたもこもこ姫を、リオの手から救った。「手をどけてやれ……」


 実際は傷ひとつつけずに謎の靄から謎の獣を救った感動的な場面のはずだ。

 が、それを成したのが大雑把で無神経な魔王とその仲間達なせいで、相手に正しく伝わるかは疑問である。


 マスターは目元を隠すように片手でこめかみを揉み、「怒り狂ってはいないようだったが……」いましがた目にしたばかりの衝撃映像を反芻した。


「大丈夫じゃね?」


 リオがチラ、と視線を一瞬映像へやり、我が子にしか興味のない新米ママのような声で、根拠のないことを言う。

 そうして、自身の手の中から「クマちゃ……」とお顔を出した可愛い我が子を、優しく揉んだ。「クマちゃん可愛いねー」


 自分は魔王のような男の所業と、彼らのあとをつける偉そうな獣とは無関係なのだ。

 余計なことを考える必要はない。


 面倒そうな生き物のことはマスターに任せて、もこもこを可愛がろう。


「クマちゃ、クマちゃ」もこもこが喜んでいる。

 素直で甘えっこなもこもこは、仲良しな彼に構われて嬉しいらしい。


「クマちゃんてなんでこんなに可愛いんだろ……」


 リオが真剣な表情で仕事とは関係のないもこもこの口元をつつき、「クマちゃ」と言わせてその魅力の秘密を探ろうとしたり、さきほどまでうるさかったくせに妙に静かになった凄腕の剣士に気が付いたマスターが「おい、ここで寝るな。休むなら酒場に戻れ」面倒見の良いパパのようなことを言ったりしていたときだった。



 グルル――。ドアのほうから一瞬だけ獣のような声が響き、すぐに聞こえなくなった。



 マスターはソファで腕を組んだまま眠る凄腕の剣士を起こすことを諦め、戻ってきたルーク達へ視線を向けた。


「……おい、まさかそのドアの向こうにいるのは、お前が撃った獣か?」


 彼が訊いた瞬間に、もう一度グルル――、と唸り声が鳴り、何故かすぐに聞こえなくなる。


「…………」


 マスターは無言でそちらを見た。

 ドアの側にウィルが立っている。獣が開けたドアを閉めたらしい。


 マスターは眉間に深すぎる皺を寄せ、静かにこめかみを揉んだ。


 森の街の住人は、野生動物が人間の住処に入ろうとしたら、さりげなく追い出すように、子供の頃から教えられている。

 人間の食べ物の中には動物の体に悪いものもあるからだ。

 猫や犬とは違い、ルールの多い街で暮らしたがる獣はほとんどいない。


 グルル――。気位の高そうな獣がドアが開き、「ごめんね、森へおかえり」派手な男がそれを閉める。


 彼は気位の高そうな獣に不幸な事故が起らぬように、そっとドアを閉め続けた。


 グルル――。「ごめんね」


『おい、聖獣かもしれない生き物に意地悪をしてると勘違いされたらどうする!』


 マスターはそれを言うべきか悩み、結局「……おい、もうドアは放っておけ」とだけ告げた。



「クマちゃ……」

『るーくちゃ……』


 大好きな彼に気付いたもこもこが、魔王のような男にお手々を伸ばす。


 マスターの質問には答えなかったルークがもこもこの願いに応え、リオの腕から可愛いもこもこを奪う。


 魔王のような男はそのままソファに座り、「クマちゃ、クマちゃ……」『ルークちゃ、ルークちゃ……』愛らしく彼に甘えるもこもこに、色気のある声で「ああ」と相槌を打った。


 リオが奪われたもこもこを見つめ、ドアの前から移動したウィルがソファに座り、気配を消す前にもこもこに気付かれたクライヴが柔らかな肉球と震える手で再会の握手を交わし、マスターがこめかみを揉んでいたとき。


 小さなもこもこの肉球でも開けられるドアが音もなく開き、鼻の上に深い皺を寄せた獣が室内に入ってきた。


 聖獣かもしれない自然界の生き物にはみだりに声をかけない森の街の住人達と、甘えっこな家猫のような赤ちゃんクマちゃん、謎のお兄さんと謎のゴリラちゃんしかいない、妙に静かなイチゴ屋根の家。


 そんな建物に足を踏み入れてしまった、青白い被毛を持つライオンに似た獣は、本気で戦っても勝てそうにない銀髪の男には決して視線を向けず、ソファに座る彼らを見やり、何故かそのまま通りすぎた。


 聖獣っぽい生き物がバーカウンターの裏に隠れようとしていることに気付いた美化委員達が、邪魔をしないようにと空いている場所、ソファの近くの床へ移動する。



 マスター以外の人間は悩んでいない空間で、悩みを持たぬもこもこが、ハッとしたように両手の肉球をもこもこの口元に当てて言った。


「クマちゃ、クマちゃ……」

『リオちゃ、大変ちゃ、お客ちゃん……』

 

 リオちゃん大変です。いまクマちゃんの目の前をお客ちゃんが通り過ぎまちた……。


「大変だねぇ」


 リオは可愛いもこもこを見つめたまま、確かに大変であると頷いた。


 赤ちゃんクマちゃんと謎の獣の相性はどうなのだろうか。


 この家に入れるということは、もこもこに害のある生き物ではないはずだ。

 だが、奴はデカい。

 

 子猫のような我が子が踏みつぶされてしまうのでは――。心配する新米ママに、もう一度愛らしい声がかけられる。


「クマちゃ、クマちゃ……」


 お客ちゃんには、お飲み物をお出ししなければいけまちぇんね……。


「出さないときもあるねぇ」


『猛獣には出さないかんじ』余計なひとことを心の扉に仕舞い、無難な答えを返した。


 野生動物には人間の口にする物を与えてはいけない。


 が、奴はただの野生動物には見えない。


 しかしもこもこの作った飲み物を勧めたとして、『これはクマの赤ちゃんが頑張って入れた飲み物です。一杯どうぞ』『それはびっくり仰天ですね。随分と甘そうな匂いですが、折角なのでいただきます』と気さくに返す生き物とも思えない。

 

 彼の心配をよそに、もこもこした赤ちゃんが子猫のような声で話を続ける。


「クマちゃ、クマちゃ……」

『お体ちゃ、大きいちゃん……』


 クマちゃんよりも少しだけお体が大きいちゃんなので、まちゅたーみたいに苦いにおいのする黒いお飲み物ちゃんがお好きでしょうか……。


「刺激物だねぇ」


 殺る気か、とは訊かずに優しく答え、考えた。


 原料の木の実を食べる動物はいるだろうが、人間用のコーヒーは犬にも猫にも危険なものだ。

 聖獣っぽい生き物が望まない限り、出さない方がいいだろう。


 愛らしい声に惹かれたのか、青白い被毛の獣が、隠れていた場所からのそのそと出てきた。


 ソファに近付かないように迂回しながら、もこもこを見ている。


 もこもこはハッとしたように口元を押さえ、声をかけた。


「クマちゃ、クマちゃ……」

『初めまちて、クマちゃ、です』


 グルル――、低い唸り声が響く。


 自己紹介もお上手な赤ちゃんクマちゃんは、「クマちゃ、クマちゃ……」お返事をするように頷いた。


 

「え、クマちゃんもしかしてあの生き物と会話できんの?」


 リオは驚き、ルークの腕の中のもこもこに尋ねた。

 

 すると、謎の獣のグルル語まで理解してしまう、語学堪能なもこもこは、彼に通訳らしきものをしてくれた。


「クマちゃ、クマちゃ……」


 彼は『お邪魔していまちゅ、素敵なお部屋でちゅね』と言っています。



「へー。絶対違うやつ」リオは癖の強い赤ちゃん通訳を斬り捨てた。


『ちゅ』が彼の思考を妨げる。元となった言葉へ近付くことが困難である。



 心優しいもこもこを侮辱した金髪と死神が戦っているあいだに、静かに見守っていた彼らも話し合いをする。



「うーん。もしかすると、『この家はお前のものか』と言ったのではない?」


「まぁ、大方そんなところだろうな」


 ウィルが獣に視線を向け、可愛いクマちゃんの可愛らしい言葉をもとに、気位の高そうな生き物の言いそうなことを推察し、マスターは苦笑をしつつ、それに頷いた。



 仲良しのリオちゃんに信じてもらえなかったクマちゃんは、お口のまわりをもふっと膨らませ、大好きな彼を見上げた。


『わかってる』彼はもこもこの口元を撫でてそれを伝え、もこもこの小さな鞄に手を翳し、杖を取り出した。



 キュム、キュム……。


 小さな黒い湿ったお鼻の上に皺を寄せ、ピンク色の肉球で、彼の持つ杖に力を注ぐ。


 そこからキラキラと光が舞い、星屑のように流れたそれは、もこもこを見ている獣のもとへと一瞬で飛んでいった。


 あたたかな癒しの光に包まれた獣が、鼻の上に皺を寄せる。


「怪しげな術で我を惑わす気か。……赤子の癖になかなかやるではないか。お前が育つまで、我が面倒をみてやろう」


 グルル――、の代わりに聞こえたのは、獣のように低い、偉そうな男の声だった。


「いやめっちゃ惑わされてるじゃん」死神との戦いを中断した男はもこもこの術で聞き取れるようになった言葉に答え、キッパリと断った。


「つーかクマちゃんの面倒は俺がみるから、気にしないでいーよ」

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