第315話 賑やかな森の奥地。五分で終わった朝の清掃。気付いてしまったマスター。「クマちゃ……」「えぇ……」

 現在クマちゃんは、仲良しのリオちゃんを一生懸命説得している。



「クマちゃんそれ危ないから俺にちょーだい。外捨ててくるから」


 テーブルの上の我が子が、謎の綿毛の表面の空気を、肉球でテテテ! と揺らして遊んでいる。

 後ろ足で立ち上がって獲物をテシテシする子猫にそっくりである。

 新米ママはふわふわな綿毛を警戒しつつ、手の平を向けた。『こっちに渡しなさい』


 もこもこは彼に丸くて可愛い尻尾を向け、愛くるしい歌声を響かせた。


「クマちゃーん」

『クマちゃんのなノー』


 もこもこにそれを渡してしまった美化委員が、可愛すぎるもこもこに『クソかわいいー!』と叫ぶこともできず、口を押さえ、目に涙を滲ませる。


「ああ……! これはクマちゃんの天使の歌声……! 『美しい俺は理解しました。クッソ可愛いクマちゃんが〝クマちゃんのなの〟と歌っているのですから、ふわふわな綿毛はクマちゃんのものなのでしょう』……ここには綿毛を転がす肉球の絵が必要ですね」


 自慢のクマちゃんペンで可愛いクマちゃんの尻尾と業務報告書をかいていたギルド職員は、美しい顔を悲し気に歪めて呟いた。


「店長さんの心の声が聞こえます……『めっちゃ美しいギルド職員の人、もうクマちゃん以外描かなくていいんじゃね?』……ありがとうございます。マスターにも伝えておいてください」


 彼は仕事中のギルド職員にしか見えない真面目な表情で、新たな紙を置き、目元を黒帯で隠した金髪の絵を描き、吹き出しに台詞を書きいれている。『クマちゃん以外描かなくていいんじゃね?』


 もこもこ以外に優しくない男は、やや冷たいかすれ声で答えた。「横見たほうがいいんじゃね?」


 マスターが絵本よりも絵の多い極めて芸術的な業務報告書を、冷徹なギルドマスターのような瞳で見つめている。


 リオは彼らに一瞬視線を向けると、すぐにもこもこを抱き上げ、肉球から綿毛を奪取した。「クマちゃん可愛いねー」


「クマちゃ~ん、クマちゃ~ん」

『クマちゃんのなノ~、クマちゃんのなノ~』


 とたんに、愛くるしいもこもこの『かえちて』コールが響く。


 お目目をうるうるさせたもこもこは、先の丸い爪で、『クマちゃんのふわふわちゃん盗難事件』の犯人であり、もこもこの体を抱き上げている金髪の腕をカリカリ、と悲し気に引っかいた。


「なんてことだ……!」


 目撃者のギルド職員が「『まさか、あの店長さんが赤ん坊の肉球から盗みを働くなんて……』」自慢のクマちゃんペンで人聞きの悪いことを記し、犯人の特徴である金髪、犯行の様子として、肉球からはなれゆく綿毛、強奪する人間の手を描いていたときだった。



「随分と愛らしい悲鳴だな」



 整っているが男くさい顔立ちの冒険者が、ドアを肘で押さえている。男はフッと格好良さげに片頬を吊り上げながら


「マスターに呼ばれて帰ってみたら、金の悪魔に虐められた天使が鳴いてるじゃねぇか。……でも俺の出番じゃねぇみてぇだな。よぉルーク。可愛いもこもこ姫が、王子様の助けを待ってるぜ」


そう言って、後ろを振り返った。


「配役おかしいでしょ」


 存在と話し方がくどい。だがそれより気になるのは『王子様』である。


 ルークは確かに目を細めるだけで世の女性達が恋に落ちてしまいそうな美貌を持っているが、彼が似合うのは雷鳴がとどろく魔王城だ。可愛らしいもこもこ姫の住まう白亜の城ではない。


「『犯人は言いました。〝もこもこ姫の王子様は俺だから〟』」


「おい、まさかお前が書いてるのは、業務報告書か?」


 マスターは落書き帳だと思っていたものが実は仕事の書類だったと知ったギルドマスターのような声を出した。



「クマちゃ……」

『るーくちゃ……』


 金の悪魔に囚われた世界一愛くるしいもこもこ姫が、どちらかというと悪役に見える王子様の名を呼ぶ。


 ドアから入ってきた魔王のような男は、姫に手を伸ばし、もこもこした体を優しく抱き上げた。



「いや帰ってくんの早すぎだから」


 可愛いもこもこを奪われご立腹なリオは、仕事から十分以内に帰ってきた彼らに苦情を言った。

 しかも、ルーク達だけではなく、美化委員達まで戻って来ている。


 室内には、彼らの持ってきた綿毛のような生き物がふわふわと浮かんでいた。

「クマちゃ……! クマちゃ……!」ルークの腕の中のもこもこが、気になるものにちょっかいをかける子猫のように、肉球でテテテテ! とそれの表面をさわる。


「うーん。クマちゃんの魔道具が優秀すぎるからね」


 ウィルが苦笑し、涼やかな声で話し始めた。


「発砲……といっていいのか分からないけれど、引き金を引くと、ホコリのような姿の敵は、すぐに清浄な気を放つ、不思議な生き物へと変わった。樹々もキラキラと光って、まるで喜んでいるように見えたよ。その様子は……たとえるなら、精霊の森、と言っても過言ではないかもしれないね」

 

「それで、お前たちはこの妙な綿毛に『危険はない』と判断したんだな?」


 マスターは難しい表情で顎鬚をさわり、もこもこが肉球でテテテ、とつつき続けている綿毛を見た。


「クマちゃ……」

『ええ、そうちゃんです……』


「いやクマちゃんには聞いてないから」


「貴様――」


「『吹雪のなかでも美しい俺は見ました。天使に無礼な言葉を投げつけた店長の頭に、大きな氷塊がのる瞬間を』……ここには可愛いクマちゃんがお手々でお目目を隠してる絵が必要ですね」


「おい、仕事に関係のないことばかり書くな! 読みにくいだろうが!」



「天使が幸せを運ぶって話は、本当だったらしいな。大型モンスターがうようよと徘徊してた森ん中が、随分と賑やかになったもんだぜ。なぁルーク」


 凄腕の剣士はマスターの額に浮かぶ青筋に、もこもこ天使が運んできた福音を感じ、フッと片頬を吊り上げた。

 

「ああ」


「リーダー、適当に返しすぎでしょ」


 リオは気付いた。魔王は彼の話をまともに聞いていない。もこもこを褒めているから相槌を打っただけだ。



 しかしいま彼らが気にしなければならないのは、そんなことではない。


 問題は、怒れるマスターが発している気でもなく、清浄で心地のよい気を発する、もこもこの魔道具が生み出した謎の生き物である。


 赤ちゃんに聞くのもどうなのか。そう思いつつ、リオはもこもこに尋ねた。


「クマちゃん、この綿っつーか元ホコリ、なんでこうなったの?」


 ルークの大きな手に湿ったお鼻をくっつけ、安心したようにお目目を瞑っていたもこもこは、ハッとつぶらな瞳をひらき、彼に答えた。


「クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ……」


 クマちゃんは、ホコリちゃんを捨てるのは、可哀相ちゃんだと思います。なので、灰色のホコリちゃんを、キラキラで可愛いふわふわちゃんにちました……。



「ゴミにも敵にも環境にも優しい……! さすがは天使のように心の美しいクマちゃんですね……!」


「天使ってのは、みんなこんなに純粋で綺麗な生き物なのか? おっと、いい歳した男が、危うく泣くところだったぜ」


 胸をキューンと締め付けられたギルド職員が自身の周りを魔法でキラキラと光らせながら、もこもこへ拍手を贈る。

 マスターの隣に座っている凄腕の剣士は、片手で涙を隠した。


「敵を見るとつい、倒そうとしてしまうけれど、クマちゃんの優しさにはいつもはっとさせられるよ。……魔力で調伏する方法も考えてみようかな」


「ああ」


「敵にまで、慈愛を……――」


「おい、大丈夫か」


「えぇ……」


『いやクマちゃん絶対ただのホコリのこと言ってるでしょ。つーかゴミくらい普通に捨てさせて欲しいんだけど』と言っても、誰も聞いてくれそうにない。




 リオが目を限界まで細め、部屋中にふわふわしている綿毛を嫌そうに見ていたときだった。「結局なんなのこれ」


「あの、マスター。これちょっとデカくないっすか?」


 美化委員の一人が、手にのせた魔道具の映像に視線を合わせたまま近付いてきた。


「ん? 確かにさっきよりデカいな。……おいルーク」


 マスターは眉を顰め、指先でもこもこをあやしている男を呼んだ。


「クマちゃ……」


 何故か上がる肉球。もこもこは改名したらしい。


「いやクマちゃんは呼んでないから」


 と言ったリオを、甦った死神の鎌が襲う。


「なんで鎌とか持ってんの?! え……、これもしかしてクマちゃんのナイフ?」


 彼が伝説の肉球剣で受け止めたそれの表面で、あのとき目にしたものと同じように、氷の結晶が美しくあらわれ、儚く消えていった。

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