第312話 美しい朝。大好きな彼。起こされる金髪。「クマちゃ……」「……おはよ……」
胸元にお手々を添え、美しい姿勢で寝ていたクマちゃんは、あたたかで優しい彼の手に包まれて、ぱっちりとお目目を覚ました。
うむ。まだ薄暗いが、朝の香りである。
大好きな彼と少しだけ遊んでから、お掃除ちゃんをするのがいいだろう。
◇
薄闇に包まれた室内。遠くから微かに、波の音が響いている。
壁のない建物を、風が通り過ぎる。
森の中と同じ、濃い緑の香りが、やわらかな敷布で休む彼らの鼻先を、眠りの淵から引き上げるように、そっとくすぐっていった。
夜に一度起きたとは思えないほど、元気に目覚めてしまったもこもこは、ルークの指をくわえて甘えたり、湿ったお鼻やもこもこのおでこでスリスリしたりしていた。
ルークの手がふわり、ともこもこの頭を撫でる。
キュ。無口な彼の『おはよう』を感じたクマちゃんは、湿ったお鼻を鳴らし、一生懸命のばしたお手々で、彼の手首に抱き着いた。
幸せな朝のひとときを過ごしていたクマちゃんだったが、ハッと大変なことに気付いてしまった。
村長で店長な彼は、副村長で副店長なクマちゃんが起きているというのに、なんとまだぐっすりと寝ていたのだ。
仲良しのリオちゃんは、重役出勤をしてしまうのだろうか。
本日は朝からお掃除のお仕事が入っている。
朝風呂ちゃんにゆっくりとつかる暇もないほど忙しいのだから、早起きしたクマちゃんが優しく起こしてあげるのがいいだろう。
横になったまま片手でもこもこをあやしていたルークは、ヨチヨチ、ヨチヨチ、と一生懸命もこもこシーツの海を進む赤ちゃんクマちゃんが、金髪の男のもとへ行くのをそのまま見送った。
ふわふわでもこもこになった寝心地の良いシーツの上で、空から降ってくるかもしれない何かを警戒し、腕を目元にのせ、顔を隠して寝ていた彼が、まどろみから抜け出そうとしていたときだった。
「クマちゃ……」
警戒が足りなかった耳の穴に、湿ったお鼻と『クマちゃ……』が、直接吹き込まれる。
『聞こえますか……』と。
吹き込まれてしまった男は「耳めっちゃもしょもしょすんだけど……!」何故か水滴のついている耳を手の平でゴシゴシとこすりながら、勢いよく飛び起きた。
◇
リオは人間が寝ていると必ず頭部のまわりをうろつき『あなたは何故寝ているのですか。起きて下さい。さぁ!』起床をうながす猫ちゃんのようなもこもこを叱ったりはしなかった。
もこもこなシーツの上でヨチヨチしている可愛い生き物を両手でもふ、とつかむ。
「めっちゃもこもこしてる……」彼はその素晴らしい手触りを確かめながら、ぽんぽんのついた帽子をかぶっている丸い頭に頬をくっつけ、優しいかすれ声で言った。「クマちゃんおはよ」
彼は悟っていた。
『いや聞こえないわけないでしょ』も『耳に濡れた鼻突っ込むのやめて欲しいんだけど』も、言っても無駄である。
その言葉があの帽子の中に届くことはないだろう。
彼が起きてくれたことが嬉しいらしいもこもこが、彼の頬に可愛いお鼻をくっつけ、おはようの挨拶をする。
「クマちゃ……」
「クマちゃん今日もお鼻びちょびちょでめっちゃ可愛いねー」
リオは愛しい我が子の健康状態を確かめ、もこもこを腹にのせ、ふわふわな寝床に転がり、目を閉じた。
何故なら、まだ部屋が暗いからである。
数分後、魔王の協力を得てふたたび彼の耳元に辿り着いたもこもこは、もう一度「クマちゃ……」と言った。
『聞こえますか……』と。
聞こえてしまっている。
彼を起こすことに心血を注ぐ獣は人間の『猫ちゃん、あとでね』に『いいえ、それはできません』と答える猫ちゃんとおなじく確固たる信念を持っているのだ。
男は抵抗を諦め、鼻の上に深く皺をよせ、いつもより低いかすれ声で言った。
「……クマちゃんおはよ……」
◇
薄暗い部屋のなかで、彼は己の疑問ともこもこの早朝活動を阻止する言葉を口にした。
「まだ暗くね?」
しかし彼の言葉に含まれる『クマちゃん、もう少し寝ましょうね』がシーツの上を徘徊する生き物に届くことはない。
薄闇をまといし獣は両手の肉球でサッと口元を押さえ、愛らしい声で答えた。
「クマちゃ……」
『まちゃかちゃん……』
まさか、今日の予定ちゃんを忘れてしまったのですか……?
『クマちゃんに予定とかないでしょ』
余計なことを言いかけた彼を、複数の殺気と氷の矢が襲う。
もこもこ製の素晴らしいピアスが一瞬強く輝き、すぐにおさまる。
敵からの攻撃は防ぐがお友達からの攻撃は防がない思いやり溢るる超高性能ピアスの防壁をすり抜けた氷の矢が、リオの髪をかすり、証拠を隠滅するかのようにパッと砕け散った。
強い癒しの力を感じたが何も起こらなかったうえに他のことが気になった金髪が「いやみんな起きてんじゃん!」あたりまえのことを叫ぶ。
もこもこと彼がこれだけ騒いでいるのに起きない冒険者などいない。
実は可愛いもこもこが起きる前から気配を消して、もこもこソファで仕事をしていたマスターは、「あ~、もしかして、昨日のあれか……」と、疲れたようにこめかみを揉んだ。
◇
「おはよう白いの。今日も可愛いな」
仕事を中断しベッドに腰かけたマスターが、もこもこを抱え、朝の挨拶をする。
身を起こしたウィルとクライヴも、もこもこに優しく、片方は爽やかとは言い難い声をかけた。
「おはよう。クマちゃんは早起きだね。よく眠れたかい?」
「敵のことなら、お前が案ずるまでもない。俺が殲滅してやる――」
お兄さんとゴリラちゃんは、ギリギリまで横になっているつもりらしい。起き上がる気配がない。
美化委員長クマちゃんは、つぶらなお目目をキリッとさせ、本日の活動内容を告げた。
「クマちゃ、クマちゃ……」
◇
ザァー――。
輝く花から零れ落ちる癒しの水が、彼らの体をあたため、キラキラと清めてゆく。
金髪の男は左右で色の違う美しい瞳を細め、切なげに言った。「いや風呂あとにすればもっと寝れたでしょ……」
綺麗好きなもこもこ曰く、ゆっくりとお風呂に入る時間がないので、急いで入りましょう……、ということらしい。
キュキュキュ――!
美化委員長は魔王に洗われながら、小さな桶に子猫のようなお手々を入れ、肉球で小さなアヒルさんを素早く磨いている。
高位で高貴な彼とゴリラちゃんは、美術品とぬいぐるみのように、静かに湯船につかっていた。
何故か予定が押している。彼らはいつもよりも短い時間で、風呂から上がった。
シャラン、シャラン――。
美しい音の雨を楽しみながら、いつもと同じように丁寧に乾かされていくもこもこを、宝石の降る花畑でゆったりと眺める。
「とても素敵な朝だね」
「『素敵な朝』薄暗いんだけど」
癒しの空間に時間を吸い取られた彼らは、最高の毛並みを手に入れた赤ちゃんと共に朝食を食べるため、お兄さんの闇色の球体で、クマちゃんリオちゃんレストランへと移動した。
昨夜と変わらぬ風景を見たマスターが、ふ、と渋く笑う。
男はどうしようもない新人にも優しいギルドマスターのような声で、まったく新人ではない彼らに告げた。
「今すぐ片付けて、三十分寝てこい」
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