第278話 クマちゃんの想いを知ったマスター。
クマちゃんとクライヴちゃんが商談成立の握手を交わしていると、少し元気のないまちゅたーが『白いの……、悪いが少しだけ待っててくれるか……』とクライヴちゃんを連れていってしまった。
うむ。クマちゃんの甘くて美味しい牛乳が必要のようだ。
◇
「クライヴ……気持ちは分かるがお前が破産したら白いのが――」
「そうか……、ならば分割で――」
「待て、それなら半分は魔石で――」
店の入り口付近から、マスターが死神のような男を説得する声が微かに聞こえる。
もこもこした心優しい生き物は「クマちゃ……」と遠慮がちにリオを呼んだ。
「どしたのクマちゃん。え、これ温めて欲しいの? クマちゃんが飲むの? マスター? へー」
と答えた彼は何も考えていないような顔でもこもこ飲料メーカーの甘すぎる牛乳を煮詰め、トロロロとティーカップへ注ぎ、マスターの席に置いた。
◇
もこもこへの支払いは一括ではなく、分割で永遠に行われることになった。
『クマちゃ……』とお手々の先をくわえた店員が、お支払いはリオちゃんのお店にお願いします……と伝えたが『俺がもらってもクマちゃんに渡すから一緒じゃね?』と答えたせいで、結局クマちゃんが受け取ることになったのだ。
「…………」
マスターは片手で目元を隠し、こめかみを揉んだ。
ティーカップの中身が綺麗になくなっている。
溢れんばかりに癒しの力が満ちる空間で煮込まれた癒しの練乳をすべて飲み干したらしい。
癒しの力の過剰摂取だ。
顔から手を退けると、カップの側でお口を開けて彼を見上げる子猫のようなもこもこが目に入った。
『まちゅた、元気になった?』と心配しているのだろう。
マスターはふ、と目を細めて優しく笑い「疲れが吹き飛んだな。お前のおかげだ」と愛くるしいもこもこを抱き上げた。
もこもこは「クマちゃ」と両手の肉球をあげた。
彼が元気になったことを喜んでいるらしい。
愛らし過ぎて手放したくなくなってしまう。
彼は自分のことを棚に上げ(こいつらが夢中になるのも当然だ)と苦笑した。
少しのあいだもこもこと戯れていると、店員が「クマちゃ……」と頷き、まちゅたーが元気になったので、クマちゃんは素敵な商品をオススメします、と伝えてきた。
もこもこにふれていると、つい時間を忘れてしまう。
彼は温かい気持ちで、もこもこをそっとカウンターへ降ろした。
「なんか鍋の底こげっぽくね? 洗っても落ちないんだけど」
「君が牛乳を加熱しすぎたせいではない?」
「リオ、後で話がある」
お客様の健康も気遣う素晴らしい店員が、ヨチヨチとカウンターの中央へ歩いてゆく。
オススメ商品が到着するまで、踊りの練習をするようだ。
◇
カウンターには非常に精巧で美しいが、伝説の……と呼ばれそうなほど強い力を放つ腕時計が置かれていた。
濃いこげ茶の革、銀のケース、黒の文字盤、そのなかで回る複数の銀の歯車。
文字盤にはよく見ると、とても小さなクマちゃんの形をした宝石が、数字の合間にはめ込まれている。
「すっげぇ。歯車のとこクマちゃんの形になってるし! やべー。こんな時計初めて見た……。これさぁ、着けてたら狙われるんじゃね?」
「素晴らしい細工だね……。これほどの作品は見たことがないよ。最初に見た腕輪も、先程のナイフも、目にした者が焦がれるのは当然だと思うよ。神聖すぎて悪人は近付けないような気もするけれど」
「そんな馬鹿いねぇだろ」
「確かにお前たちに近付く馬鹿はいないだろうが……。それにしても本当に、白いのは凄いな。物欲の無い人間でも渇望しそうだ」
「あの形は……――」
次々と紹介される感動的な商品に、もこもこの保護者達は驚き、真剣な顔で頷き、意見を交換しつつ感想を述べた。
子猫のような店員はヨチ、とそれに近付き、少し遠慮がちに説明してくれた。
「クマちゃ、クマちゃ……」
『まちゅた、オススメちゃん……』
こちらはリオちゃんのお店でイチオシの腕時計ちゃんです。これがあればまちゅたーは、クマちゃんに会いに来るのを忘れないで済むと思います……、と。
もこもこはつぶらな瞳を潤ませマスターを見つめていた。
「そういえば……、クマちゃんはずっとマスターとお留守番をしていたのだったね。……クマちゃんと会う時間を削るほど会議が好きなのかな」
「マスターひでー。クマちゃんほっといて会議室撫でてるんだぁ」
「白いのを忘れられる人間など存在しない。まさか……会議室に忘却と魅了の魔法が――」
マスターは彼らを黙らせることも忘れ立ち上がった。
手を伸ばすともこもこが「クマちゃ……」と近付いてきた。
両手で抱えしっかりと抱き寄せる。
ふわふわした生き物が胸元におでこを擦り付け、愛らしく彼に甘えているのが伝わってくる。
「そうか……。俺が来なくて寂しかったのか……。ほんとうにすまなかった……」
彼はもこもこをリオに任せっきりにしていたことを猛省した。
ずっと一緒にいた人間が目の前からいなくなれば、赤ちゃんが不安に思うのも当然だ。
もしかすると、ルーク達が戻ってこない時間はマスターが一緒にいる時間だと思っているのかもしれない。
彼らが仕事から帰って来ないのに、マスターが近くにいない、いつ戻ってくるのだろう、クマちゃんのことを忘れているのだろうか、と小さな頭で一生懸命考えていたのかと思うと、どうしようもないほど切なくなる。
幼いもこもこが待っていた大人は、リオが居るから大丈夫だろうと、もこもこを待たせていたことにすら気付かなかったというのに。
「……そうだな……今後は……、できるだけお前の側で仕事をしよう」
「クマちゃ……クマちゃ……」
「マスター。僕たちもクマちゃんの側で仕事がしたいのだけれど」
「そうしてやりたいのはやまやまだが、お前らの仕事は戦闘だ。ここにお前らじゃねぇと倒せない敵がいると思うか?」
書類仕事ならば――と赤ちゃんクマちゃんに優しく約束をしたマスターだったが、ウィルからの提案はすぐに断った。
ルーク達が全員もこもこの護衛に回るほど、ここは危険な場所ではない。
そして世界を滅ぼせるほどの戦力が必要な中庭なら、赤ちゃんクマちゃんは別の場所へと避難させるだろう。
彼らの仕事場とは『危険な場所』のことだ。
仕事場となってしまった場所で、もこもこと穏やかに過ごせるはずもない。
望みを叶えるには、まずは森の異常をどうにかしなければならない。
結局振り出しに戻ったようで、彼は頭を抱えたくなった。
だが彼だって好んで赤ん坊から親のような彼らを引き離しているわけではないのだ。
伝説のつるぎを手に入れた男と高位な存在がもこもこを護っているのにこれ以上は――、と考えていたマスターはふと、腕の中を見た。
だがこいつが一番側にいて欲しいと思っているのはルークだろう、と。
「クマちゃ……」
『てきちゃん……』
てきちゃんがいないとクマちゃんはルークの側にいられないのですか……? と今にもキュオーと泣き出しそうなもこもこが、もこもこもこもこと震えている。
「いやいやいやいや俺の言い方が悪かった。そういうわけじゃない。逆だ。あ~、そうだな……事件がたくさん解決したら……か?」
「マスター、少し違うのではない?」
「なんかやべーことになったら困るし変な事いわないで欲しいんだけど!」
常識の通じないクマの赤ん坊に『中庭に必要なのは誰にも倒せないほどの強敵とたくさんの事件だ』などと勘違いされたら大変なことになってしまう。
それでなくとも格好いい『冒険ちゃ』生活のため『伝説級もこもこアイテム』を続々と生み出しているクマちゃんが『てきちゃん』という名の何かを作ってしまったら――。
もこもこ被害に遭いやすいリオは『てきちゃん』襲来の予感に『勘弁してほしいんだけど!』と目を剝いた。
癒しのもこもこが作る『てきちゃん』は本当に誰にも倒せないだけで彼らを攻撃することはないだろうが、癒しの空間にそんな生き物も『てきちゃん』が起こす珍事件も必要ない。
簡単に解決できる事件を何度も起こす奇怪な『てきちゃん』の誕生を阻止するため、リオはもこもこへ大事なことを伝えた。
「クマちゃん、リーダーにはオススメしねーの?」
愛らしく純粋な店員クマちゃんは、彼の言葉にハッとしたように頷いた。
「クマちゃ……」
『ルークちゃん……』と。
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