第166話 会いたいと願う強い想い。もこもこに甘いお兄さんと「ちょっとお兄さん――でしょ!!」な森の中。

 泥と同化してしまった服はお兄さんが闇色の球体でどこかに運び去った。

 纏めて綺麗にしてくれるらしい。


「――これを」


 頭に響く不思議な美声が、愛のもこもこ露天風呂に波紋のように広がる。

 長いまつ毛を伏せた妖美なお兄さんは、もこもことリオのために泥汚れを素早く落とす素敵な石鹼を用意してくれたらしい。


「お兄さんありがとー」


 光るお花のシャワーを浴びながら『やばい落ちる気しないんだけど……』と黒から灰色っぽい何かになった獣を撫でていたリオが、闇色の球体から落ちてきたそれを受け取り、礼を言う。


「あー……。そっちは俺がなんとかする。お前は先に自分を洗え」


 灰色っぽいもこもこに記憶のどこかを再び刺激されたマスターが顔を顰め、汚れても濡れてほっそりしても愛らしいもこもこと石鹼をリオから奪った。

 マスターに悪気はなかったが、腕の中から愛らしい泥ネギ坊主を失ったリオが、「あ……クマちゃん……」と切なげな声を出す。

 被毛の隙間に水に溶けない土を擦り込んだ厄介なもこもこを抱っこしたマスターは、


「……凄い色だな」


苦笑しながら石鹼を泡立て、お肌に優しそうなそれでふわふわもこもこと洗いながら、土っぽいネギ坊主を真っ白な綿毛ちゃんに戻していった。 


 もこもこから灰色の泡が落ちてくる。


 ザァー、パシャパシャ――という水音に混ざり、クマクマと愛らしい歌声が、淡く輝く花樹に囲まれた風雅な露天風呂に、泡のようにふわふわと広がってゆく。

 とても小さなそれは、クマちゃんの鼻歌なのかもしれない。


 ――ふんふん、ふんふん、クマちゃん、クマちゃ~ん、キュオ、キュオー、ふんふん、クマちゃ~ん、ふんふん、ふんふん、キュオ、キュオー、クマちゃ~ん――。


 子猫のような愛らしい歌声は『クマちゃんは、汚れていますか? はい、汚れています。誰がクマちゃんを汚したのですか? はい、それはリオちゃんです』と歌っているようだった。

 

「クマちゃんが自分でやったんでしょ! 何でウソつくの!」


 自身を石鹼で丸洗いしていた金髪の『クマちゃん、駄目!』が露天風呂に響く。


 天才シンガーソングライターの鼻歌、『冤罪畑』に早速苦情が入ってしまった。

 過激なクレーマーはシンガーソングライターの癒しの時間にまで現れ、いちゃもんをつけるらしい。


「おい、子供の可愛い鼻歌にまで一々口を挟むな」


 もこもこに甘いマスターは、小さいことを気にする金髪に残念なものを見るような目を向ける。

 お風呂でご機嫌な赤ちゃんクマちゃんのお歌の時間を邪魔するのは、大人のすることではない。


「いや声はすげー可愛いけど歌詞は可愛くないでしょ……」


 孤独に戦う金髪がかさかさで力のない言葉の矢を放ったが、残念ながら誰にも当たらず、かすりもしなかった。



 清麗でお上品なもこもこに戻ったクマちゃんは、優しいマスターに抱えられたままピンク色に輝く湯につかり、ゴリラちゃんと仲良く握手をしたり、リオに「あー、めっちゃぷにぷにしてる。めっちゃぷにぷに……」と肉球を揉まれ「クマちゃ……」したりしながら、穏やかで幸せなひとときを過ごした。


「綺麗になったな」


 黒いズボンとはだけたシャツ姿でふわふわの布を持ったマスターは、ほっそりしたもこもこの水分を優しく丁寧に拭き取り、甘やかすように笑いかける。


「ずっと灰色のままかと思ったし」


 リオは戻って来た服を羽織っている途中で、畑から引き抜いた瞬間のネギを思い出し、嫌そうな顔で呟いた。

 もこもこを溺愛し、いつも丁寧に被毛の手入れをしている魔王のような男が脳裏に浮かぶ。

 世界最強のあの男ならば、たとえもこもこがおかしな色になっても、染まった被毛を元に戻す魔法を有り余る魔力で創り出してしまうような気もする。

 面倒なことを嫌う癖に、もこもこのためなら時間も魔力も能力も惜しみなく使う、もこもこへの愛の深さも世界最強の男だ。


「あー、そうか。ブラシが無いな」


 もこもこを拭き、時々魔法でやや雑な風を起こしながら被毛の手入れをしていたマスターが、ふわふわの布をくしゃくしゃにする愛らしいが困ったもこもこに「手櫛でもいいか?」と視線を向ける。

 小さな黒い湿った鼻の上に皺を寄せ、ふわふわの布をくしゃくしゃの布にしていたもこもこは、『手櫛で――』を聞いた瞬間、ハッと何かに気付いたように「クマちゃ」と言った。


『イチゴちゃ』と。



 もこもこを抱えたリオは片手でイチゴを収穫し、お兄さんが用意してくれた緩衝材入りの箱に詰め、


「じゃあ帰ろっか」


そのまま自分達の森へ帰ろうと言った。

 その瞬間、イチゴ畑に「クマちゃ~ん、クマちゃ~ん」が響き渡る。


『犯人はリオちゃ~ん、犯人はリオちゃ~ん』


 子猫のような愛らしい歌声。

 抉られた、繊細な誰かの心。『冤罪畑』第二楽章である。


「……クマちゃん分かったからそれやめて。あれも収穫すればいいんでしょ」


 嫌そうな金髪は赤い頭巾を被った愛らしいもこもこの頭に顎をのせ、かすれた声を出した。


「お前が先に白いのに意地悪なことを言ったんだろ」


 もこもこに甘いマスターが彼の腕の中から『クマちゃ~ん』なもこもこを抱き上げ、


「あれも箱に詰めればいいのか?」


と優しく尋ねた。

 

 イチゴとイチゴのお家を収穫した農場長とリオ。

 農場長は収穫作業をしていたリオの腕の中で、一生懸命肉球を上下に動かし、「クマちゃ! クマちゃ!」と収穫作業の応援をしていた。


 働き者の農場長は小さな黒い湿った鼻の上に皺を寄せ、愛用の杖と魔石で畑の奥の敷地を広げる。


 広げた空間の真ん中に置かれた、たったいま収穫したばかりの、小さなイチゴ屋根のお家。

 その前に立ったもこもこが、斜め掛けの鞄からごそごそと取り出したのは、棒の先にイチゴの模型とリボンが付いた、可愛らしいガーデンスティックだ。

 お庭を可愛らしく飾り付けるのに使う、お人形などが付いた棒である。


「何その可愛い棒」


 もこもこがおかしなことをしないよう見張っていた金髪が、愛らしい肉球が取り出した無害そうな物に警戒を緩める。

 クマちゃんは「クマちゃ……」と真剣な表情で頷くと、イチゴのスティックでイチゴの屋根を、コツ、コツ、と叩き出した。


 もこもこがもこもこした口を動かし、幼く愛らしい声で「クマちゃ、クマちゃ……。クマちゃ、クマちゃ……」と呟いている。


『クマちゃん、入居ちゃん……、クマちゃん、入居ちゃん』


 今日からクマちゃんが入居するらしいですよ……、今日からクマちゃんが入居するらしいですよ……、という意味のようだ。


「いや誰に言ってんのそれ、普通に無理でしょ」


 かすれた風が吹いたが、イチゴのお家と契約するのに忙しいもこもこには当然聞こえていない。

 あんなに小さな家ではもこもこの肉球くらいしか入れないだろう。


 しかし、癒しのもこもこ畑で育ったイチゴ屋根の家には不思議な力があるらしい。

 もこもこがコツ、コツ、とイチゴ棒で叩いているお家がポム、ポム、と可愛い音を立て、大きくなってきた。


 腕を組み、可愛らしいもこもこが一生懸命「クマちゃ……」しているのを見守っていたマスターが、


「……イチゴで叩いたからか? 何であれで大きくなるんだ……」


眉間に皺を寄せ、片手で目元を隠すようにこめかみを押さえている。

 もこもこに常識は通じないらしい。

 畑で育った家は、もこもこが入居したいと言いながらイチゴの模型で叩けば、中に入れるほど大きくなるようだ。

 赤ちゃんクマちゃんの純粋な願いだからだろうか。

 いや、とにかく可愛いからだろう――。


「すげー。マジですげーけど納得いかねー」


 農場長クマちゃんが収穫したおもちゃの家が巨大化したのを見たリオの口から素直な感想が零れる。

 あのイチゴの棒とイチゴの屋根は何か関係があるのか。

 いや――無い。リオはもこもこの赤い頭巾を見つめ、頷いた。

 あのもこもこしたおかしな生き物は、おそらくイチゴっぽい見た目の屋根だからイチゴっぽい棒で叩いたのだ。

 色々気になるが、クマちゃんの癒しの力で出来ないことはない、ということだろう。


 大きくなったイチゴ屋根のお家を見たもこもこが、幼く愛らしい声で「クマちゃ、クマちゃ……」と言った。


『ルーク、ルーク……』と。


 赤ちゃんクマちゃんは寂しくなってしまったようだ。

 このお家に入ってもルークには会えない。抱っこもしてくれない。

 クマちゃんが何かを作っても『すげぇな』と、優しく撫でてくれる彼がいない。

 そのことに気付いてしまったのだろう。


 マスターとリオは『今は会いに行けない』ともこもこに伝えるつもりだった。

 彼らのいる場所が湖から大分離れた場所だと予想したからだ。


 しかし、もこもこのバックには空気を読むということを知らない、人間ではなさそうな庇護者がついている。

 マスター達が声を出す前に、彼らともこもこ、お兄さんとゴリラちゃん、ついでにイチゴ屋根のお家は大きな闇に飲まれ、愛の森から消えてしまった。



 もこもこが居ない鬱蒼とした森の奥。早く帰ってもこもこを甘やかしたい彼らが、無慈悲な魔王軍のように敵を屠っていたときだった。


 ルークがスッと視線を動かした。


「行くぞ」


 低く色気のある声が、森の中に響く。

 彼らは理由を尋ねようとしたが、青白く輝く剣を両手に持った無表情な男は、すでにその場にいなかった。

 少し先で、大きなものが何かに激しくぶつかる音と、草木が揺れる音が聞こえる。

 魔王のような男がついでのように敵を倒し、彼の剣で吹き飛んだ魔物同士がぶつかったのだろう。

 

「うーん。早く行った方がよさそうだね」


「――そのようだな」


 魔王軍の幹部のような彼らは短く言葉を交わすと、すぐに魔王のあとを追った。

 見失ったとしても彼の大きな魔力を追うのは難しくないが、追いつくのに時間が掛かってしまう。

 彼らは向かってくる敵を一瞬で倒し、森の奥へと消えた。



 土しかないどこかの広場に到着した、二人と一匹とお兄さんとゴリラちゃん。とイチゴ屋根の家。


「ちょっとお兄さんここ抉ったでしょ!!」


 闇に飲まれる直前に目の前のもこもこを抱え込んだリオが、酷い景色のそれを見てお兄さんに視線を移す。

 自分達の住む森には、このように抉られて凹んだ茶色い場所などないはずだ。

 何故か家も持ってきたお兄さんが、置き場に困って樹ごと抉ったに違いない。

 いつも素敵なお花畑に囲まれ、綺麗に整えられたお部屋や宮殿で生活している、高貴でお上品なもこもこが、まるで衝撃を受けたもこもこのように、もこもこした口元を押さえ「クマちゃ……」と言った。


『お土ちゃん……』と。


 

「ん? 結構奥じゃねぇか? ……敵は……この近くにはいねぇな」


 大事なもこもこをリオに任せ、周囲の気配を探るマスター。

 一部どこかの人外に抉られてしまった森だが、視線の先の大樹には見覚えがある。

 今のところ気配は感じないが、大型モンスターがいつ現れてもおかしくない。

 黒髪の美麗な〝お兄さん〟が持ってきてしまったもこもこ畑産の家は、癒しの力を纏っているはずだ。

 弱々しい赤ちゃんクマちゃんはその中に入れたほうが良いだろう。


「なに、クマちゃん。ここ危ないから家のなか入ろ」


 リオが地面に降りようとするもこもこを止める。

 しかし心優しいもこもこが「クマちゃ……」というため、見張りをマスターに任せ、抉れた地面の修復を手伝うことにした。



 愛用の杖と魔石、鞄から取り出した数本のお花を使い、愛らしい花畑を完成させた赤ちゃんクマちゃん。


「クマちゃんの魔法マジですげー」


 鬱蒼とした森の中に出来た美しい花畑に、木漏れ日がきらきらと降り注いでいる。

 天才魔法使いクマちゃんをそっと抱き上げたリオが、


「んじゃお家入ってみよー」


とイチゴ屋根のお家のドアを開けた。



 武器を消した魔王様の両手から、光がキラ、と風に流れるように零れ落ちる。


「このあたりには何もないと思うのだけれど……」


 ウィルは静かに辺りを見回し、独り言のように呟く。

 極大な森林のすべてを知っているわけではない。

 だが彼らは幼い頃から森に出入りしている。

 他の冒険者であれば行かないような奥地でも、彼らにとっては庭のようなものだ。


 クライヴも同意見らしく、視線を伏せたまま微かに頷く。

 ルークが片手でがさり、と植物をかき分け前に進むと、葉の隙間から光が射しこみ、その先が明るいのが分かった。


 

 リオとマスターが「探しに行かなくてもリーダーなら気付きそう」「あー、だろうな。こちらが動くより、あいつらがこっちに来る方が早いだろう」と話し合っていたとき。



「凄く可愛らしいお家だね。マスター達はここで何をしているの?」


 ドアが開き、ウィル達が中へ入ってきた。

 完成したばかりの花畑は、もう彼らに発見されたらしい。


「リーダー見つけるの早すぎ。まだここ来てから十分も経ってないと思うんだけど」


 ソファに座りもこもこを撫でていたリオが、「クマちゃ」と甘えた声を出し愛らしく肉球を伸ばすもこもこを抱き上げたルークを見上げ、声を掛けた。


 彼の腕の中で愛らしい顔をしているクマちゃんの側に現れた、暗殺者のような男。

 冷気を纏う男の冷たい眼差しが、つぶらな瞳の赤ちゃんクマちゃんを刺し貫く。

 赤い頭巾を被った愛くるしいもこもこが、お上品に肉球を持ち上げる。

 黒革に包まれた彼の手が、肉球をそっと、下から支えた。

 見つめ合う、一人と一匹。 

 

「顔こえー」


 余計なことしか言わないかすれた声。


 仲良しな彼らは互いの存在を視線で確かめ合い、優雅に再会の握手を交わした。

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