第165話 「……俺は忙しいんだが……」農場長に巻き込まれるマスターと、イチゴ畑の可愛いイチゴ。

 彼らが学園の裏にある愛の森へ出掛けようとしていたとき。

 リオの視界の端、別荘の入り口あたりにマスターが見えた。

 どうやら、クマちゃんの便箋を持ってきてくれたらしい。

 片方の手をポケットに突っ込み、怠そうに歩いている。


 リオの腕の中で肉球をペロペロしていたクマちゃんが、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。


『まちゅた、一緒』と。


 まちゅたーもクマちゃん達と一緒に畑に行くといいと思います、という意味だ。

 もこもこした可愛い両手を伸ばしたもこもこは、非常に甘えた声で「クマちゃ~ん、クマちゃ~ん」と彼を呼んでいる。


 苦笑を浮かべたマスターが彼らへ近付き、リオに便箋を渡す。

 彼はもこもこを優しく抱き上げ、


「ああ、おはよう白いの。今日も可愛いな。それはチェリーか?」


甘やかすように声を掛けた。


「ん? お前ら、どこかに出掛けるのか?」

 

 察しのいい彼は、立ち上がっているお兄さんを見て彼らに尋ねた。


「俺らだけじゃなくてマスターも行くらしいよ」


 リオはもこもこの大事な便箋をふわふわの敷物の上に置きつつ、すぐに戻って仕事をしようとしていた彼に視線すら向けず、『マスターに拒否権はない』とかすれた声で告げた。


「……俺は忙しいんだが……」


 マスターはぼそりと呟いた。

 腕の中では愛らしく生温かいもこもこが彼を見上げ「クマちゃ」している。

 一度抱いてしまうと手放せなくなる、最高の手触りの、可愛すぎて大変なもこもこだ。


 すぐ近くで『残念ですが……』の雰囲気が漂う、湿った鼻の上にキュッと皺が寄り、つぶらな瞳が潤んでしまいそうな言葉を聞いてしまったもこもこが、両手の肉球をもこもこした口元にサッと当て「クマちゃ……」と衝撃を受けたもこもこのような声を出した。


『まちゅた……』


 まちゅたも行くらしいよ、と。


 大人の言葉をすぐに真似ようとする幼いもこもこ。

 つぶらな瞳で『まちゅたも……まちゅたも……』と伝えてくる愛らしいクマちゃんに、当然彼は勝てなかった。

 もこもこの猫のような可愛いお手々。その先に付いている攻撃力の全くない爪が、彼の黒いベストをカリカリ、と寂しそうに引っかいている。

 頭の天辺に茎と葉を付けたもこもこを抱き上げてしまったとき、すでに彼の負けは決まっていたのだ。

 マスターは愛おしそうに腕の中のもこもこを見つめ「……分かった、一緒に行こう」と、やや苦い笑みを零した。



 昨日完成したばかりのもこもこ温泉郷や、冒険者達と共にウロウロする猫顔のクマ太陽の癒しの力が広がり、湖の近くにはモンスターがいない。

 真面目に仕事をこなすルーク達は調査のため、果ての見えない森の奥へと進んでいた。

 数日間休暇をとっても湖に危険が及ぶことはないだろうが、拠点から一番近い敵はどのあたりか、一晩でどのくらい増えたのか、調べなくてはならない。


「うーん。このあたりまで来ると、クマちゃんの癒しの力は届いていないようだね。――早く戻って寂しがり屋なあの子を安心させてあげたいのだけれど」


 ウィルは魔法を使わず、敢えて物理攻撃で敵を倒し、透き通った声で彼らに話しかけた。南国の鳥のように美しいが、見た目と違い大雑把な彼の武器は、拳である。

 魔法でなくとも倒せる、ということは、この敵はクマの兵隊さんの魔法に当たらなかったか、あの事件よりも後に生まれた個体ということだ。

 産み落とされたのか、発生したのか、どこかから移動してきたのか――。


「ああ」


 色気のある低い声が、彼に答えた。『癒しの力は――』ではなく、『早く戻って――』に対する相槌だ。

 見目麗しい魔王のような男は、おもむろに立ち止まり、己の魔力でつくりだした無属性の剣を、数え切れぬほど周囲に浮かべた。

 それらは青白く輝き、それぞれが意志を持った生き物のように舞い、鬱蒼と茂った森のなか障害物をすり抜け光の軌跡を残す。

 潜んでいた気配が次々と消えてゆく。


「泣いていないといいが……」


 もこもこを愛する氷の紳士が、冷たい声と表情で呟く。

 森に恐ろしいほどの冷気が広がり、飛び掛かって来たモンスターをまとめて凍り付かせた。

 暗殺者のような男が無意識に作り出した氷像が、強化された拳と青白い剣に貫かれ、キラキラと砕け散る。


 敵が増えても戦闘に苦労することはないが、とにかく早く、なんなら今すぐ帰りたい彼らは、周りに他の冒険者がいないことを確認すると、彼らこそが厄災ではないか、というほど高火力の魔法を盛大にぶちまけ、まるで魔王軍のように無慈悲に、それらを殲滅していった。



 お兄さんが作ってくれた闇色の球体を通り抜けた彼らは、もこもこした農場長の素敵なイチゴ畑に来ていた。

 クマちゃんの可愛いイチゴは真っ赤に色付き、美味しそうに実っていたが、リオの土しかない畑には異変が起こっていた。


 土の上には、


『可愛い天使な美クマちゃんの宮殿建設予定地』


木の枝で書いたであろう、妙に達筆な文字と、幼い子供がおままごとに使いそうな、ヘタ付きイチゴの上半分のような屋根が愛らしい、小さなお家のおもちゃが置かれていた。


 畑の側には犯行に使われたと思われる木の枝が落ちているが、イチゴ畑落書き事件の容疑者である奴らは見当たらない。

 古城のような学園で授業を受けているのだろう。


「あいつら俺のことなめてんの?」


 リオは陽気で優しいお兄さんから、闇の深そうな金髪の守護者に姿を変えた。

 かすれているが良く通る綺麗な声が、いつもよりもやや低くなり、左右で色の違う美しい瞳はスッと細められ、ここにはいない獲物を見ている。

 もこもこが彼にくれた畑の前には、一目で持ち主がクマちゃんとリオだと判る看板が立っている。

 容疑者達は彼の顔を知っているのだから、これは彼に対する挑戦状だ。

 あの小さなおもちゃを置くのに、わざわざこの畑を選んだのだ。売られた喧嘩は買わねばならない。

 彼は大人なので学園生に怒りをぶつけたりコツンとしたりはしないが『畑はやめて他の場所で遊びます』と誓わせる必要がある。

 自分達のほうが侵入者だということは分かっているが、だからといって赤ちゃんクマちゃんの畑を荒らす者を捕まえないという選択肢も、リオにはなかった。

 しかし犯人を捕まえたとしても、言う事は一つだけである。


『そのイチゴ屋根のおもちゃはイチゴじゃねーから畑に置くな』


 言われなくても『あ! これは……屋根がイチゴっぽいだけで、イチゴじゃない!!』と気が付きそうだが、あの学園には変人しかいないのだ。そういうこともあるだろう。

 

 生徒会長達は彼らの愛するもこもこが素敵に生まれ変わらせた、典麗で幻想的な花樹たちを切るわけにもいかず、仕方なく、樹のない、イチゴもない場所に宮殿の見本を置いたのだが、金髪の守護者はもこもこの手紙の内容を知らない。


 最後の一枚を書いている途中で力尽きてしまったせいで、『クマちゃんの きゅうでんは かんせい しました かいちょうへ』の『ちょうへ』が抜けてしまったのだ。

 誤解した彼らが急いでもこもこの宮殿を建設しようとし、場所が見つからず、リオの土しかない畑に目を付けたのは仕方がないことだった――のかもしれない。

 


「宮殿……? おい、まさか宮殿っつーのは、そのおもちゃのことか? ……あいつらは本当に大丈夫なのか」


 もこもこを抱えたマスターが、土の上の落書きとおもちゃを見て複雑そうな顔をする。

 赤ちゃんクマちゃんほど素晴らしい建築家になれとは言わないが、そのイチゴ屋根のお家は宮殿ではないだろう。


 農場長はイチゴ畑に置かれたイチゴ屋根の宮殿を見つめ「クマちゃん……」と真剣に、何も考えてなさそうな顔で頷いた。



 うむ。あの可愛いお家は宮殿らしい。イチゴ畑に生ったのだから、あれもイチゴなのだろう。

 とても不思議だが、生ってしまったのだから、育てなければならない。

 

 クマちゃんはお兄ちゃんに、クマちゃんの素敵なジョウロを下さい、と伝え、早速水やりをすることにした。



 リオが腕を組み、畑の上のおもちゃと落書きを見ていると、彼の背後から幼く愛らしい「クマちゃん、クマちゃん」という声が聞こえた。


『クマちゃん、ジョウロちゃん』と。


「クマちゃんのイチゴもう収穫出来んじゃねーの? かなり赤いと思うんだけど」


 不思議に思ったリオは広い畑のなか、局地的に育っている農場長のイチゴを観察するため、側にしゃがみ――素行の悪い学園生のように――両膝に腕をのせた。

 間違いなく真っ赤になっている。とても美味しそうなイチゴだ。


 彼がぼーっとイチゴを眺めていると、真っ赤なジョウロを両手の肉球で持った、赤い頭巾姿の愛らしいクマちゃんが、ヨチヨチもこもこと、頭の上の茎と葉っぱを揺らしながら歩いて来た。

 

 ヨチヨチ、もこもこ、ヨチヨチ、もこもこ――。


 リオとマスターはもこもこの愛らし過ぎる後ろ姿と、丸くてフワフワの可愛らしいしっぽ、頭の上で揺れる茎と葉っぱを見つめていた。

 もこもこはヨチヨチ、ヨチヨチと一生懸命土の上を進み、落書きの上にも猫そっくりの可愛い足跡を付け、イチゴ屋根のおもちゃの前に辿り着く。

 

 彼らが見守る中、もこもこは愛らしい肉球で持った真っ赤なジョウロを傾けた。


 キラキラと、雨のような細かな水が、ジャー、とイチゴ屋根のおもちゃを濡らす。


「えぇ……めっちゃ水弾いてんじゃん……」


 リオが心の声を漏らした。

 土で汚れたおもちゃを水で綺麗にしているつもりか。

 開始三秒で最初より汚れている。獣は肉球を止めない。何も考えてなさそうな顔のもこもこには、あの惨状が見えていないのだろうか。


 小さなジョウロを傾け続ける農場長。

 突然の豪雨に見舞われたイチゴ風ハウス。

 何故か尽きない水。

 緩む地盤。

 浮くハウス。

 集中豪雨と戦う畑。

 かつては純白だったもこもこ。


 早くもこもこをあそこから救出しないと大変なことになってしまう。

 いや、もう駄目かもしれない。


「……あー、そうだな。取り合えずやってみる、っつーのは大事なことだと思うぞ……」 

 

 マスターはもこもこの生き様を褒めた。

 おっとりしたお上品な赤ちゃんクマちゃんは、叱るよりも褒めて育てたほうが良い子に育つだろう。


「それどころじゃなくね? 泥ついたネギみたいになってんだけど」


 あの美しい被毛のもこもこはどこへ行ってしまったのか。

 服は浄化すればいいが、あの毛は早く洗った方がいい。

 彼は立ち上がり、汚れたネギを畑から抜くことにした。


 リオが「クマちゃん泥だらけになっちゃってるからお風呂いこ」と声を掛けようとしたときだった。


 イチゴ風のお家がピカッと光り、そこからワサッと葉っぱが生えた。


「いや何かキモイんだけど!」


 イチゴの屋根から伸びた葉っぱに嫌そうな顔をするリオ。

 爽やかな風が運んだ『い――イんだけど!』に、農場長が深く頷き「クマちゃ……」と言っている。


『クマちゃ……』と。


 いいですね……、という意味だ。


 リオは何となく見た目がよろしくないそれからもこもこを引き離すべく、泥だらけちゃんを畑からドロ……、と引っこ抜いた。

 もこもこした農場長は汚れ切っている。

 泥水は愛らしい顔にまで跳ねたらしい。


 彼の視線の先で、ワサッと生えた葉っぱが育ち、イチゴ屋根のおもちゃがポム、ポム、と増えてきたのが見えたが、もこもこを綺麗で可愛いクマちゃんに戻すのが先だ。


 お兄さんが白い部分のほとんどないもこもこを、感情を失ったような瞳で見つめている。

 後ろよりも前から見たほうが悲惨なもこもこだからだろう。


「……あー……、そうだな。早く洗った方がいい。これは、普通の石鹼で落ちるのか……?」


 マスターは苦いものを口にしたような、泥牛乳なクマちゃんを思い出した時のギルドマスターのような表情で、もこもこを見つめる。

 

 生温かくて愛らしい泥を抱っこしたリオも泥だらけだ。

 彼らはポム、ポム、と不思議な音を立てる畑に背を向け、愛のもこもこ温泉でネギの汚れを落とすことにした。

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