第160話 ピンク色の森の中、クマちゃんの愛があふれる。

 クマちゃんのお目目が勝手に閉じようとする。

 おかしい。

 肉球に力が入らない。

 しかし、クマちゃんは絶対に今日中にお手紙を書くのだ。

 生徒会長が書いてくれた素敵なお手紙に、返事を。まだ一部しか読めていないそれの、返事を――。


 クマちゃんからのお手紙が届かなかったら、『クマちゃんは私の手紙を読んでくれなかったのですか?』と彼が泣いてしまうかもしれない。


 そうだ、贈り物がひとつしか出来ていないのだった。

 急がなければ――。



 リオは頭がぐらついているもこもこを見守りながら、考えていた。

 寝たほうが良い。絶対に。

 もこもこは「クマちゃ……」と言いながらヨチヨチと立ち上がり、ルークの周りのクッションにぽふ、ぽふ、と愛らしい模様を付け始めた。

 あれも贈り物にするということだろうか。

 変態生徒会長は大喜びするだろう。デカいそれを常に持ち歩くほどに。


 車座の中から氷のような男の気配が消えた。

 肉球の可愛い模様と、「クマちゃ……、クマちゃ……」と呟く愛くるしい声。ふわふわの丸いしっぽが愛らし過ぎるクマちゃんの後ろ姿。

 心配ともこもこへの愛しさが限界に達したに違いない。


 クッションに模様を付け終わったらしいクマちゃんがヨチヨチと移動し、便箋の前にもこもこと座る。

 

「クマちゃんそれ明日の朝にしたら?」


 声を掛けてみるが、もこもこは便箋に肉球をのせたまま、動かない。

 頭が完全に下を向いている。まるで力尽きた真っ白なぬいぐるみのようだ。


「クマちゃ……クマちゃ……」と呟く小さな声が聞こえる。

 

『クマちゃ……、かすみ目……』と。


「いやそれ眠いだけだから」


 リオの声が聞こえたのか、クマちゃんはスッと姿勢を正し、ぽん、ぽん、と便箋に肉球で模様を付けている。

 もこもこした口は幼く愛らしい声で「クマちゃ……、クマちゃ……」と呟き続ける。


『クマちゃ……、がんばって……』と。


 クマちゃんの便箋が残り一枚になった。

 リオはお兄さんにチラ、と視線を向ける。

 秀眉の間に皺が寄ってるのが見えた。

 彼も心配しているのだろう。もこもこが最後の一枚を書き終えたら、彼が手紙を運ぶのだろうか。


 リオがクマちゃんに視線を戻すと、愛らしい模様は二個目で止まり、肉球が紙の上をスーッと滑って行った。



 手紙を書いている途中で力尽きたクマちゃんだったが、もこもこの口はもこもこもこもこと小さく動いていた。


「クマちゃ……、クマちゃ……」


『クマちゃの……、お手紙ちゃ……』と。


 クマちゃんは絶対にお手紙を渡しに行くのです、という意味だ。


 魔王のような男は便箋の上に倒れかけたもこもこを長い腕で掬い、ふわりと抱き上げた。

 彼の大きな手が『わかってる』というようにもこもこの頭を優しく撫でると、赤ちゃんクマちゃんの小さな黒い湿った鼻からキュ、と甘えた鳴き声が聞こえた。

 無意識なのだろう。ルークの手を肉球でつかみ、彼の長い指を赤ちゃんのようにくわえている。


 リオはもこもこの大事な便箋五枚を集め、キラキラと輝く貝殻をその上に重ねた。


「そちらの贈り物は僕たちが持つよ」


 シャラ、と立ち上がったウィルが可愛い肉球模様のクッションへ視線を向ける。


「ああ」


 もこもこを抱いているルークが低く色気のある声で答え、魔法でそれをふわりと浮かせた。



 愛のもこもこ露天風呂のある広場。

 風呂から上がった彼らは、すぐに学園に戻る気にもなれず、美しい花と光の雫を眺めながら、クマちゃんの力で生まれ変わった愛と癒しの森で癒されていた。

 愛の広場の端に設置された木製のテーブル席に着き、もこもこの愛らしさと素晴らしさについて、彼らが語り合っていたときだった。


「お前ら夜中にこんなとこで何やってんの?」


 自分達以外誰もいなかったはずの場所に、かすれ気味の綺麗な声が静かに落とされる。

 驚いた彼らは、パッとそちらへ視線を動かした。


「私の可愛いクマちゃん!!」


 嬉しそうな生徒会長の声が、桃源郷のような愛の森に響いた。


◇ 


 お兄さんの闇色の球体を通り抜け、保護者達が到着した場所は、愛のもこもこ温泉のある広場だった。

 生徒会長達は学園の制服を着たまま、森の中にあるテーブル席でもこもこへの愛を熱く、しつこく、とにかくしつこく語っている。


 リオは心の底から思った。


「お前ら夜中にこんなとこで何やってんの?」 


 

 生徒会長の大きな「私の可愛いクマちゃん!!」という声にビクッと体を跳ねさせたクマちゃんの口から「クマちゃ……」という小さな声が漏れる。


『かいちょ……』と。


 最愛のもこもこに名前を呼ばれたことに気付いた彼は、


「私の可愛いクマちゃん! 私はここにいるよ!」


もこもこを抱いたルークの前へ駆けた。


「会長……失礼な事しないほうがいいっすよ」


 副会長は木製の椅子からガタ、と立ち上がり、生徒会長の後ろ姿に声を掛ける。

 クマちゃんの守護者達の表情に気付いたからだ。

 危険すぎる。

 彼らはうるさい生徒会長を、物理的に静かにしてしまうつもりなのだ。


「だから全体的に良くないと言ったのに……」


 会計は悲しそうに呟いた。

 美形だが色々鬱陶しい生徒会長は、美クマちゃんの美麗な守護者達の手で静かな生徒会長にされてしまうだろう。


 しかし、生徒会長は無事だった。守護者の方たちは人間にも優しいのかもしれない。

 指先ひとつ動かすことなく、一瞬ですべての敵を屠ることができるであろう彼らからすれば、人間など小動物とさして変わらないということか。


 ルークの腕の中のクマちゃんが幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。


『お花ありがと、クマちゃん、うれしい』と。


 生徒会長は自身の力作がクマちゃんのもとに届いたことに「まさか……」と驚き、嬉しいという言葉に涙ぐみ、口元を押さえ、頷いている。


「……なるほどな……。天使への贈り物だから、自動で届くのか」


 副会長は納得したように呟いた。

 天使なクマちゃんなら、そういうこともあるだろう。


「そう……なんですか? 違うような気もしますが」


 冷静な会計は、消えた贈り物の謎が、さらに複雑になってしまったように感じた。

 学園生の誰かが、廊下に落ちていた花束を職員室へ届けた、というなら納得はいく。

 天使への贈り物が自動で本人に届くのであれば、神殿の人間がそのことについて騒がないわけがないと思うが。


 天使のように愛らしいクマちゃんがもこもこの口を動かし、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言う。


『お返事ちゃん、贈り物ちゃん』と。


 金髪の守護者リオがもこもこの可愛い肉球に便箋を渡し、それをクマちゃんが生徒会長へ渡す。

  

「ありがとう……私の可愛い――」


 生徒会長は美しい笑みを浮かべ、優し気な声でクマちゃんに話しかけていたが――もこもこの手紙を受け取っている途中で目をカッと見開き、手を震えさせた。


 手紙に、愛らしい、肉球の模様が――!


 生徒会長は両手で手紙を持ち、息を荒くして震えている。

 リオの優しいお兄さんではない表情に気が付いていない。


「クマちゃん、これ渡したら会長クン死んじゃうんじゃねぇの?」


 クマちゃんの真心のこもった贈り物を、変態に渡したくない。

 リオはもこもこの肉球に貝殻を手渡しながら思ったが、もこもこは絶対にそれを贈りたいようだ。


 クマちゃんが猫のような可愛い両手にそれを持ち「クマちゃ」と彼へ差し出す。


 生徒会長は手を大きく震えさせ、愛らしい肉球の模様が付いた、キラキラと輝くこの世の物とは思えないほど美しい貝殻を受け取る。

 

「私の可愛いクマちゃんの肉球が……肉球が……」


 彼は肉球の模様をじっと見たまま、ぶつぶつと呟いている。

 リオが震えすぎなそれに視線を移し「すげぇガタガタしてんだけど……」と微妙に嫌そうな声を出した。


 ルークの腕の中のクマちゃんが両手の肉球をもこもこの口元に当て、幼く愛らしい声で「クマちゃ……」と少しだけ恥ずかしそうに言った。


『裏ちゃん……』と。


 裏側も見て下さい、という意味だ。


 あまりに愛らしいもこもこに、この場にいる者の一部が、攻撃をくらったかのように膝を突いている。

 守護者の一人が冷気だけを残し、気配を消した。


 副会長は花びらのタイルの上に転がっている。

 制服のタイを片手で緩め、「やべぇ……、天使の魅了は人間の俺にはきつすぎるぜ……」と苦し気に息を吐き出した。


 椅子から離れ、もこもこの姿をよく見ようと移動していた会計が「美クマちゃんが……美クマちゃんが……」と恥じらうクマちゃんの可愛さに瞳を潤ませ、じっとりとしつこく、もこもこがそれに気が付いたら「クマちゃ!」と言いそうなほど熱い視線を送っている。


「…………」


 限界を超え、真顔になってしまった生徒会長が震える手で貝殻を裏返す。


 幼い子供が一生懸命描いたような、可愛らしい似顔絵。

 白っぽい金髪の男の子。


 それが自分の似顔絵であることに気付いた生徒会長は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。

 何かを言おうとしたが、声が出せなかった。

 人間は感情が高ぶると、いままで普通に出来ていたことすら出来なくなるらしい。


 最愛のクマちゃんの愛らしい声が聞こえる。


「クマちゃん、クマちゃん」


『かいちょ、嬉しい?』と。


 泣きすぎて苦しいし声も出そうにないが、クマちゃんを心配させるわけにはいかない。

 彼は手紙と貝殻を抱え、何度も頷いた。

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