第159話 クマちゃんは頑張り屋さん。時間は刻々と。「クマちゃん――でしょ」

 クマちゃんは焦っていた。

 大変だ。

 生徒会長のお手紙はとてもたくさん文字が書かれている。枚数もたくさんだ。

 クマちゃんはまだ一枚の半分しか読めていない。

 今夜中に読むことが出来るだろうか。

 そのうえ、お返事を書くための便箋が五枚しかない。


 足りない。


 時間も、便箋も足りないのである。

 お布団に入るまで、あとどれくらいの時間があるだろうか。

 クマちゃんがとても困っていたとき、頭の中に不思議な言葉が浮かんだ。


 速読――。


 クマちゃんは難しいことは良く分からないが、それが出来たらなんとなく、早く読めそうな気がする。

 早口で読めばいいのだろうか。

 とにかく、やってみるしかないだろう。



 便箋が五枚しか見つからなかったことを聞き、ふるふるもこもこと震えていたクマちゃんを、保護者達は心配し、見守っていた。

 赤ちゃんクマちゃんがヨチヨチもこもこと動き出し、リオの膝からルークの膝までの冒険を始める。


「あ、クマちゃん降りる?」


 リオは座ったまま、もこもこの生温かい胴をもふ、と掴み、魔王のような男の側へもふ、と置いた。

 自分で素早く移動したつもりらしいもこもこが、疲れたように「クマちゃ……」と呟きながら、ルークの膝に乗ろうと肉球をかけ、見守っていた彼はおもむろにクマちゃんを抱き上げ、片膝を立てていないほうの脚へ、もふ、と座らせてやる。


「クマちゃん……」と生徒会長のお手紙を探すもこもこの肉球に手を添えたルークが、一緒にそれを持つ。


 もこもこが深く頷き、頭を下げたまま、動きを止めた。


 魔王のような男の膝の上に、ガクリとうつむき、力尽きたような真っ白なぬいぐるみが置かれている。


「クマちゃん――寝てるでしょ」


 名探偵リオのかすれた声が響く。

 彼の言葉が聞こえていたのか、もこもこがゆっくりと頭を起こし、チャ――、チャ――、チャ――と舌の調子を確かめた。


「いや、絶対寝てたでしょ」


 名探偵はもこもこに『俺はすべて解っている』と鋭い視線を向けるが、奴は返事をしない。

 謎の洗顔を繰り返す猫のように、肉球の横の部分を使って何度も顔をこすっている。



 クマちゃんは気合を入れるようにキュ! と鳴き、子猫のような愛らしい声で、


「クマちゃ、クマちゃ! クマちゃ、クマちゃ!」


一生懸命手紙の音読を始めた。


『クマちゃ、クマちゃ! クマちゃ、クマちゃ!』と。



 もこもこは『クマちゃん』と書かれた部分だけを読み上げている。

 読み飛ばされた部分には、何が書かれているのだろうか。

 読んでいるクマちゃんにも分からないに違いない。



 手紙が見える位置にいるはずのルークは『クマちゃ、クマちゃ!』と、子猫のように愛らしい声を出しているもこもこの可愛い後頭部を見つめ、長い指でくすぐるように撫でている。


「あの手紙やばすぎじゃね? まさかあの二十枚くらいありそうな紙にびっしり『クマちゃ』って書いてあるわけじゃないよね」

 

『クマちゃ』は愛らしいが、あれは本当に大丈夫なのだろうか。端から端まで好きな子の名前で埋められた怪しい手紙のようで、少し、いや大分そわっとしてしまう。

 しかし、学園生とクマちゃんの手紙の中身を、もこもこの親のような自分達が一々確認するわけにはいかない。

 非常に気にはなるが。


 ウィルの笑顔が消え、長いまつ毛を伏せているのが怖い。片膝を立てた足を囲うように緩く手を組み、静かに座っている。

 変態生徒会長が変態なのが気になるのだろう。

 確かに、一枚に書かれている『クマちゃん』の数が多すぎる。まさか本当にすべてが『クマちゃん』なのでは――。


 リオは琥珀色の酒が入ったグラスを持ち上げ、それに口を付けつつ、氷のような男を見た。


「こわっ!」


 視線で手紙が砕け散りそうだ。

 怖いので見なかったことにしよう。


『クマちゃ、クマちゃ!』という愛らしい声が止み、もこもこが再び動き出す。



 クマちゃんは素晴らしい速読を終え、次の作業について考えた。

 新しい能力を身につけたクマちゃんは、凄い事を閃いてしまった。

 早く読む方法があるのだから、早く書く方法もあるだろう。

 文字を早く書くのは難しい。

 うむ。


 書かなければいい。


 天才なクマちゃんは己の手のひらを眺め、うむ、と頷く。

 クマちゃんの素晴らしい手があれば、数分で手紙を書くことが出来るだろう。



 もこもことルークの膝から降り、「クマちゃ……」と呟くクマちゃん。便箋が欲しいようだ。


「ああ。すまんな……、今日はこれで、我慢してくれ……」


 マスターは寂しげに笑い、またもやパンを一つしか買えなかった父親のようなことを言いながら、もこもこにそれを渡す。

 クマちゃんはしっかりと両手の肉球でそれを受け取り、深く頷いた。重そうな頭が、斜めに傾いている。

 もこもこの口元が微かに動き、幼く愛らしい「クマちゃ、クマちゃ……」という小さな声が聞こえた。



『まちゅた、すまんな……』と。



「…………お前はそろそろ寝る時間だな……無理はするなよ」


 彼は眠そうな赤ちゃんクマちゃんの顎の下をあやすように撫で、自身のクッションの山に戻った。

  

 傾いたままのもこもこは、再び朱肉の入った容器をカチャ、カチャ、と開け、そっと猫のような可愛いお手々をかざした。 

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