第155話 可愛いもこもこを甘やかす、休憩中のマスター。

「マスター荷物多すぎじゃね?」

 

 リオが心の声を吐き出す。


「……海の中みたいで綺麗だな。その格好と良く似合ってる」


 マスターは失礼なクソガキを無視した。

 紳士なクライヴに甘いカクテルを両手の肉球で「クマちゃ……」と渡し、ヨチヨチもこもこと彼の方へ歩いてくる愛らしいクマちゃんを抱き上げるため、荷物をドサ、と降ろす。

 クマちゃんが彼へ向かって猫のような可愛いお手々を伸ばし、「クマちゃ……」と言った。


『まちゅた……』と。


 彼はもこもこしていて愛らしい赤ちゃんクマちゃんをふわりと抱き上げると、


「ん? もしかして眠いのか? ……お前は少し頑張りすぎだな」


甘やかすような声で話しかけ、もこもこの頬や顎の下を擽るように撫でた。

 ――完全に体の力を抜いたもこもこは、生暖かく、ぐにゃっとしていてとても可愛らしい。


 クマちゃんは手足の力を抜いたまま、子猫のような声で「――クマチャーン――」と格好良く歌い始めた。


『――クマちゃんねむくなーい――』と。


「いやそれ絶対眠いやつ」


 リオは伸びかけの髪をかき上げながら、いつもよりもかすれた声で、もこもこした眠くない生き物を刺激するようなことを言う。

 マスターの腕の中で彼に甘やかされ、すべての肉球を放り出しているクマちゃんは、再び子猫のような声で「――クマチャーン――」と聞き覚えのある歌を歌った。


『――クマちゃんねなーい――』と。


「可愛いけど腹立つ……」


 もこもこの素晴らしい歌声を聴いた金髪が、目を限界まで細くして、じっともこもこを見た。

 やつの歌声は世界一愛らしいが、歌詞が憎たらしい。相変わらず『チャーン』の部分が妙に耳に付く。


 肉球ひとつ動かさない歌手。

 始まったばかりの曲は嚙みしめる前に最高のラストを迎える。

 子猫のような歌声が「――クマチャーン――」と水のもこもこ宮殿に響き渡った。


『――リオちゃんもねなーい――』と。


「勝手に決めちゃダメでしょ!」


 リオは素早く『クマちゃん、駄目!』をした。

 悪い子なもこもこを叱るときはその場ですぐに『ダメ!』と言わなければならない。

 でないと何故叱られているのか分からないからだ。


 新曲『ふたりとも寝ない歌』に早速苦情が入ってしまった。

 しかしこの場にはシンガーソングライターの大ファンしかいない。

 素晴らしい歌声に感動した彼らは「宮殿で聴く歌声も、美しく澄んでいてとても愛らしいね」「ああ、セイレーンよりうめぇな」「白いのの深い想いを感じる……」「お前の歌声は本当に可愛らしいな」と、もこもこした歌姫を称賛している。


 酒を浴びていた冒険者達も『いい歌だ……』『ああ、ふたりが仲良しなのが伝わって来た……』『一緒がいいんだね……』『なんだろ……なんか泣ける……』『ほんと、可愛い……』『ずっと一緒ってことか……』『これは絶対に寝れないな……』と小さな声で感想を伝え合っている。


 ふわもこのクッションに埋もれた味方のいない金髪は、水の中から見上げる水面のような天井を眺める。

 彼は陸に憧れる人魚のように、かすれた声で切なく呟いた。


「――いや俺は寝るから」



 噴水の水音が響く、ガラスと水のもこもこ宮殿。

 天井から落ちる光の水紋が、広間をユラユラと照らし、彼らを水の中にいるかのように錯覚させる。

 冒険者達が楽し気に笑い、さざめき、声の波を光の魚が泳ぐ。


 もこもこ温泉郷から戻って来た冒険者達が、一級建築士クマちゃんの宮殿に驚き、それが完成した素晴らしい瞬間の話を、目撃者たちから聞いている。

 新しい温泉の美しさを聞いた者達が、そちらも見なくては、と入れ代わるように駆けていった。



 ふわふわで居心地の良さそうなクッションに誘われ、ルーク達の輪の中にマスターも腰を下ろす。

 終わらない仕事に疲れ切っている彼は穏やかな笑みを浮かべ、腕の中のもこもこをふわり、ふわり、と何度も優しく撫でている。

 おもむろに立ち上がったルークはお兄さんから貰った哺乳瓶を片手に、クマちゃんが先程宮殿とつなげたばかりの別荘の食堂へ、ふらりと歩いて行ってしまった。

 マスターの撫で方が気持ちいいらしいクマちゃんは、猫のようなお手々の先をくわえ、腕の中でじっとしている。

 

「ねぇマスター。その荷物はクマちゃんへの贈り物?」


 大きな花束と荷物へ視線を向けたウィルが、マスターに尋ねる。

 忙しい彼がギルド職員に頼まず、自身の手で運んで来たのは、少しの時間でもクマちゃんに会いたいからだろう。

 ウィルは自分が彼の立場だったとしても、人には頼まないだろうと考えつつ、彼の返事を待つ。


「ああ……ん? いやこっちは――」


 もこもこを撫で続けているマスターが肯定し、何かを言いかけたが、途中で視線を高貴なお兄さんへ移した。


 ゆったりとクッションに背を預ける姿が異様に似合うお兄さんが、クマちゃんの零してしまったピンク色の液体を闇色の球体で片付け、代わりのように大量の酒瓶とグラスを出してくれた。それらはふわふわの敷物の上でも、何故か倒れない。彼が不思議な力で護っているのだろう。


 マスターはお兄さんに「ああ。ありがとう」と感謝を伝え、片手を伸ばし――。

 腕の中から聞こえたキュオ……、という寂しそうな声に


「俺が悪かった。ずっと撫でててやるから……」


すぐに手を引っ込め、甘えっこなもこもこを撫でるのを再開した。

 愛くるしいもこもこが戻って来た彼の手に、可愛いおでこをぐいぐいと擦り付けている。


「マスタークマちゃん甘やかしすぎ」


 リオはもこもこを甘やかす勢力に対抗するべく、仰向けでクッションに埋もれ、腹の上に手をのせただらけた格好のまま、キッと彼を睨みつけた。

 しかし、勇ましくない戦いが始まる前に、もこもこを誰よりも甘やかす悪の親玉が戻ってきてしまった。

 ルークは赤ちゃんクマちゃんに水分をとらせるために飲み物を作って来たらしい。

 無表情な彼はマスターの肩越しにそれを渡すと、何事もなかったように元の場所へ座る。


「ん? 哺乳瓶?」


 受け取った物の正体を確認したマスターは訝し気な声を上げ――つぶらな瞳で可愛らしく彼を見上げるクマちゃんに「……飲むか?」尋ねた。


 

 お手々をお昼寝中の子猫のように曲げたもこもこが、哺乳瓶をチュ――、チュ――、と幸せそうに吸い、もこもこを抱えたマスターが優しい瞳でそれを見つめる。


「えー、俺もそれやりたい。マスタークマちゃんと哺乳瓶チョーダイ」


 リオはもこもこを甘やかす勢力に向けていたへにょへにょの矛をスッと収めた。

 赤ちゃんクマちゃんに哺乳瓶で飲み物を飲ませるのは、甘やかしではない。

 自身の脳をふわふわと甘やかした彼は、愛らしくチュウチュウしているクマちゃんの方へ『チョーダイ』と手を伸ばす。


 マスターは金髪のかすれた言葉を聞き流し、

 

「――そっちの荷物のほとんどは、街の人間からこいつへの贈り物だ。それで、花束は冒険者からの……」


先程言いかけたことの続きを話し出すが、すぐに「いや、少し違うな……」と言葉を切る。

 彼は視線を背後の荷物の山へ向け、それについての説明を付け加えた。


「三階のやつらが『落とし物』だと言って俺のところへ持ってきたもんだ」

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