第142話 大人なクマちゃんに相応しいグラス。「――じゃね?」
愛らしくチュ、チュ……、と哺乳瓶で牛乳を飲む赤ちゃんクマちゃんをひたすら見つめ続けた彼ら。
しかし、ついに哺乳瓶の中身が無くなってしまった。
ケフ、とも言わず中身のない哺乳瓶をチュウチュウしているもこもこに胸が締め付けられる。
カフェで注文した彼らの飲み物は、随分前に氷が解けきり、薄味で常温の何かになっていた。
足りなかったのだろうか。
しかし、そんなに牛乳ばかり飲ませるわけにも――と彼らが愛らし過ぎるもこもこに追加の牛乳を与えるべきか考えていると――。
赤ちゃんのように可愛いクマちゃんがハッと何かに気付いたように動きを止め、スッと哺乳瓶から口を離し、姿勢を正してしまった。
いつものようにまん丸のつぶらな瞳に戻ったもこもこは、チャチャッ、といつも通り舌を鳴らし、お上品に肉球を舐めている。
身だしなみに気を遣うクマちゃんらしい、大人びた振る舞いだ。
赤ちゃんクマちゃんの一番赤ちゃんらしい姿を眺める――という夢のような時間は、ついに終わりを迎えてしまったらしい。
「……お兄さん哺乳瓶ちょっと小さかったんじゃないの?」
何も悪くないお兄さんに言いがかりをつける、酒場の酔っ払い客のようなリオ。
酔っ払い客は自身の席へ戻ると、氷が解け、味が薄くなり、しばらく放置したせいで常温になってしまった飲み物に口をつけ「何かこの店のジュース味薄くね?」と店の商品にまで言いがかりをつけている。
物音を立てることが出来なかった天才撮影技師は最高の瞬間を残すことが出来ず、荒れた芸術家のようになってしまっていた。
クマちゃんはお上品に身だしなみを整えながら考えていた。
先程まで、クマちゃんはとても悲しかったが、大好きなルークに温かくて適温の美味しい牛乳を飲ませてもらったおかげで、心と体が満たされ、とても幸せになった。
あの不思議な形のグラスはとても素晴らしい。
飲み物がいっぺんに口に入って来ない、ぷにぷにした歯ごたえの素敵なストローがついていて、中身を零さず飲める。
お上品なクマちゃんにピッタリな形のような気がしてきた。
横にしても零れないのであれば、袋の中でも飲めるのでは――。
そしてクマちゃんはハッと思い出す。
そうだ。
ルークに買ってもらったクマちゃんの大切なグラスを修理しなければ。
クマちゃんはもうしっかりした大人なのだから、いつまでも落ち込み、すすり泣くという幼き者のような振る舞いをしてはいけない。
うむ。クマちゃんの素晴らしい魔法で、『すごく幸せになる絶対に割れないグラス』を作ろう。
保護者達が「本当にクマちゃんは愛らしいね。哺乳瓶で牛乳を飲む姿はまるで――純白の天使のようだったよ」「ああ」「え、赤ちゃんじゃないの」「…………」「無言で刺してくるのほんと止めて欲しいんだけど!」と愛らしいもこもこの愛らしさについて議論していると――。
大人びた雰囲気に戻ってしまったもこもこが、もこもこを抱えるルークの腕をそっと肉球で押し、クマちゃんは一度下へ降りようと思います――と丁寧に伝えてきた。
「…………」
ルークは無言でもこもこの頬を擽る。
彼は赤ちゃんクマちゃんを割れたグラスのある場所に降ろしたくないと思っていたが、もこもこには何かしたいことがあるらしい。
そして、もこもこのしたいことは割れたそれと関係しているのだろうと察したルークは、腕に大事なもこもこを抱えたまま立ち上がり、愛らしいもこもこの顔を大きな手でそっと隠した。
大人なもこもこが「クマちゃ」と愛らしく品のある声で呟き、ふんふんふんふんと自身の顔を隠すものの香りを確かめ、小さな黒い湿った鼻で、これはルークの手ですね、クマちゃんにはわかりますよ、しかし何故今クマちゃんの顔を隠すのですか――と質問するかのようにふんふんと、しっとりとさせている。
彼はクマちゃんの顔を隠している手の先でもこもこの頬を擽り『待ってろ』と伝えると、テーブルの下にあるはずの元グラスを、魔法で自身の足元へ集めた。
「やべぇ。めっちゃパリーンしてんじゃん」
物の状態を自動で説明するうるさい魔道具のような男が、『パリーン』という言葉が相応しそうな元グラスへの感想の述べる。
しかし、いつものように保護者達から注意される前に、大きな手で顔を隠されているもこもこから、キュ……と、悲し気な鳴き声が聞こえた。
もこも幸福度が下がりました――という合図だ。
ハッとしたリオは、
「ごめんクマちゃん言い方悪かったっぽい。あー、なんていうか……ちょっとパカってなった感じ」
ともこもこの可愛いお耳に優しい言葉を探した。
「…………」
席を立ったクライヴは言葉の選択に問題のある金髪を、全く手入れのされていない畑を見るような視線で見下ろし、ルークの足元に集められた『パリーン』の横にたくさんの魔石を置いた。
もこもこが衝撃的なそれを目にする時間は短いほうがいいだろう。
南国の鳥のような男はシャラ、と装飾品を鳴らし立ち上がると、もこもこが魔法を使いやすいよう、グラスが載ったままのテーブルをガッと片手で掴み、それを歩道へ置いた。
後で戻せば問題ない。
それを見たリオが「えぇ……」と肯定的ではない声を出したが、ウィルから返って来た視線はどこかの氷職人のように冷たかった。
『ちょっとパカって――』という表現も駄目だったらしい。
素材と魔石、やや広い場所、が揃い、クマちゃんが魔法を使う準備が整ってしまった。
心配した魔王のような男がもこもこの頬をもう一度擽る。
『本当に見んのか』と。
悲しみを乗り越え、生後二か月くらいに見えるもこもこから、生後三か月弱くらいに見えるもこもこまで、短い時間で急激に、大人びた雰囲気になったクマちゃんが、そっと自身を抱える彼の手に、肉球を添えた。
覚悟は出来ています――と。
まるで悲劇の地に降り立つ聖女のように、神聖な雰囲気を漂わせ、モフワリ――と『パリーン』の前へ降ろされたクマちゃん。
覚悟は決まっていても痛ましい姿になってしまった宝物に心が痛むのか、両手の肉球をサッともこもこの口元に当て、もこもこした体を震わせた。
なんてひどい――と。
悲劇の聖もこもこはつぶらな瞳を潤ませながらも、使命感に燃え、お腹の前に下げた鞄からごそごそと杖を取り出す。
そして最後にもう一度悲しき宝物へ視線を向け、キュ……と美しく湿った鼻を鳴らし、その姿をつぶらな瞳に焼き付けた。
癒しの力を纏う白き獣が、小さな黒い湿った鼻の上にキュッと皺を寄せ、ピンク色の肉球が付いたもこもこの両手で真っ白な杖を振った。
――キラキラとした優しい癒しの力が広がり、大怪我を負ったグラスと魔石が光に包まれる。
光の粒はすぐにおさまり、クマちゃんの魔法を受けた重傷者が、傷を癒され、別の姿で生まれ変わったのが見えた。
神聖な空気を纏う『新・すごく幸せになる絶対に割れないグラス』を見たリオの口から、それを見た感想が零れた。
「哺乳瓶じゃね?」と。
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