第141話 クマちゃんと彼らの幸せな時間

 クマちゃんのリンゴジュースを『幸せになるグラス』へ、チョロチョロ――と注ぐリオの耳に、ふん……ふんふん……チャ……チャ……という聞き覚えのある音が届いた。

 幸せではないクマ像様が舌を鳴らしている。

 喉が渇いているのだろう。

 日差しは然程強くないし、ここは日陰だ。

 息が苦しいのも無駄に喉が渇くのも、すべて『幸せになるお面』が原因に違いない。

 リオには判った。

 クマ像様の幸福度はじわじわと下がっている。

 


 チョロチョロ……――、とリオの幸福度まで下がりそうな無意味な作業を静かに終える。


 ――深く考えない彼はカフェのグラスに入っていたリンゴジュースをほぼすべて『幸せになるグラス』へ移しきった。


 親切な彼はカフェのグラスに残る氷にチラと視線を投げ、――解けかけの氷よりも氷職人が作ったものの方が喜ぶだろうと考えた。

 立ち上がるほどの距離ではないと判断した彼は、斜め後ろのテーブルで殺し屋のような雰囲気を放っている男の方へ座ったまま振り返り、コップを持った手を背凭れの外へ伸ばす。


「氷ちょうだい」


 椅子の前脚を少し浮かして曲芸のようにバランスを取りつつ、常に不機嫌そうな顔のクライヴが憎いグラスでも見るような顔で氷を入れるのを待つ。

 黒い革の手袋に包まれた左手が『幸せになるグラス』へ伸ばされ、カラカラカラ――と解けにくく大きさも丁度いい、クマちゃんが喜びそうな氷が入れられていった。

 ――あまり幸せそうではないクマ像様の『幸せになるグラス』が、どんどん冷たく、重たくなってゆく。


「リオ。お行儀が悪いよ」


 気持ちのいい風に吹かれ、愛らしいもこもこの可愛いお耳を見つめていた南国の鳥のような男が、赤ちゃんクマちゃんの教育に悪いことをする金髪に注意した。

 彼の頭の中には、クマちゃんが椅子に座り、傾け、そのまま成す術もなく『クマちゃ!!』してしまう悲しい場面が浮かんでいる。

 皆が見ている時であれば助けられるが、お留守番の時に『クマちゃ!!』してしまったら大変だ。


「はーい」


 また同じことをする人間特有の返事をしたリオが、殺し屋風氷職人へ「どーも」といいかげんな礼を言い、カタ――と椅子を戻した。

 彼はグラスを渡そうとクマ像様へ視線を移し、もこもこの可愛い猫のようなお手々がテーブルに届かないことを思い出す。


 ガタ――。


 ――不幸配達人が席を立つ。

 あまり幸せそうではないクマ像様へ近付く、不幸配達人。


 ……ふんふん……ふん……チャ……チャ……。


 クマ像様の苦し気な息遣いと喉の渇きをあらわす愛らしい音が聞こえる。


 不幸配達人は言った。


「ほらクマちゃん冷たいリンゴジュース持ってきたよー」


 クマ像様の愛らしく生暖かいお手々を握る不幸配達人。

 不幸配達人の冷たい手に生暖かい肉球を握られたクマ像様の幸福度が、若干下がる。

 クマ像様が若干『クマちゃ……』したことに気付かない配達人は、愛らしい肉球に冷たく、重たいグラスを持たせた。

 猫のような可愛いお手々がしっかりと不幸を受け取ったことを、しっかりと見届けた、不幸配達人。


 いきなり冷たく重たいグラスを持たされたクマ像様のもこもこの両手が、微かに震えている。

 気付いたルークがクマ像様を優しく魔力で包み込む。

 やや持ち直す、幸福度。


 不幸配達人は言った。


「つーかクマちゃんそれ外さないとジュース飲めないじゃん」


 クマ像様の壮大な幸福計画を知らない不幸配達人は、計画の根幹である『幸せになるお面』を外し、幸せそうではないクマ像様をただの幸せなもこもこに戻そうと、クマ像様にとって非常にありがた迷惑なことを考えた。


 不幸配達人の指先が、クマ像様の『幸せになるお面』に掛けられる。

 ――忍び寄る不幸。


「あれ、クマちゃんこれどうやってくっついてんの?」 

 

 己がクマ像様へ運んで来たのはリンゴジュースではなく時限式不幸爆弾だと気付いていない不幸配達人。


 冷えすぎ、力の入らないクマ像様の肉球。

 リンゴジュースと氷がたっぷり入った『幸せになるグラス』

 テーブルの下で徐々に下がっていく、もこもこした手。

 限界な肉球――。

 傾く不幸――。

 

 ――バシャ――カラカラカラカラ……――。

 

 ――パリーン――。



「何いまの音」


 お面から手を放したリオがもこもこに尋ねる。

 森を護るクマ像様は動かない。

『幸せになるお面』の下から幼く愛らしい「……クマちゃ……、……クマちゃ……」という今にも泣きそうな声が聞こえてきた。


『……クマちゃの……、……クマちゃの幸せちゃ……』と。


 そして辺りに響き渡る、幸福度が大幅に下がってしまったクマ像様の、悲しみに満ちた鳴き声――。


 ――キュオー……キュオー……、キュオー……キュオー……――。


 不幸配達人の運んだ時限式不幸爆弾が、ついに爆発したようだ。


 幸せの求道者であるクマ像様が、全く幸せでないことが周囲に伝わる。

 

 

「もしかして、リンゴジュースの入ったグラスが重たかったのではない?」


 キュオー……、と切ない鳴き声が響く中、今回の事件の原因に気付いたウィルがリオに告げる。

『なみなみと入れすぎだ』と。


 グラスを重いと感じたことがない彼らは、クマ像様がその重さと戦っていることに気付けなかった。

 細身のグラスだったせいもある。

 それに、お面でつぶらな瞳が隠れてしまっていたのも良くなかったのだろう。

 困ったように潤んだそれに誰かが気が付いていたら、不幸爆弾は爆発しなかったかもしれない。



『幸せになるお面』を被ったままのクマちゃんは悲しんでいた。

 大好きなルークに買ってもらった『幸せになるグラス』が『パリーン』と割れてしまった。

 クマちゃんが欲しいと言ったから、優しい彼が買ってくれたのに。

 もっとしっかりと握っておけばよかった。肉球が痺れても、絶対にはなさずに――。

 

 クマちゃんの大切なグラスが――クマちゃんの大切なグラスが――。



 悲しみに満ちた鳴き声がキュオー……、キュオー……、とおしゃれなカフェテラスに響き渡り、もこもこを膝に乗せている魔王様が動き出した。

 彼はずっとクマちゃんを温かい魔力で包んでいたが、もこもこが震えていた原因は寒さではなかったらしい。

 

「怪我は」


 低く色気のある声で、ルークが尋ねる。

 彼の魔力を貫くガラスは無いはずだが――。

 ルークは鳴いているクマちゃんを仰向けに抱え、さりげない仕草でおでこの毛しか見えないお面を外す。


「えー。リーダーそれどうやって外してんの? さっき全然とれなかったんだけど」


 もこもこを心配するリオは自身の席へ戻らず、彼らの横に立ったままだ。

『パリーン』は大体彼のせいだが、リオに悪気は無かった。

 ただ、美味しいリンゴジュースを届け、邪魔なお面を外そうとしただけだ。


 クライヴは自身を責めていた。

 リンゴジュースが入ったグラスに氷を入れたのは彼だ。

 何故、もこもこが持てなくなると気付かなかったのか。

 少し考えれば、グラスの重さが増し、繊細な肉球に負担がかかると分かっただろうに――。


 美しいお兄さんの眉間に微かに皺が寄っている。

 事件はいつも――。



「また買ってやる」


 無駄に色気のある声の男が教育に良くないことを言いながら、ふわふわの布でクマちゃんの涙を拭った。

 優しく動く柔らかな素材の布が、ふわふわ、ふわふわ、とつぶらな瞳から零れる雫をそっと吸い取る。


 ――キュオー……、キュオー……、クマちゃ……、クマちゃ……、キュオー……――。


 幸せの求道者の減り過ぎた幸福度は、これだけでは回復しないようだ。

 ルークがふわふわの布で赤ちゃんクマちゃんをあやしていると、彼らのテーブルの上に闇色の球体が現れた。

 クマちゃんの庇護者であるお兄さんが、悲劇に見舞われたもこもこの幸福度を回復させる何かを用意したらしい。

 躊躇を知らない魔王のような男が球体へ手を突っ込む。


「えぇ…………」


 未だに闇色の球体に抵抗のあるリオの口から、かすれた本音が漏れた。

 球体が消え、そこに残ったルークの手に握られていたのは――。


「哺乳瓶じゃね?」


 リオの鋭い観察眼が、真実を見抜く。

 あの妙な形の透明な容器は、哺乳瓶である。人間の赤ちゃんが使う物よりも若干乳首の部分が細いのは、クマちゃん用ということなのだろうか。

 そして中に入っている白いのは、クマちゃんが大好きな牛乳だろう。

 あまり大きくはない。もこもこが自分で持てるくらいの大きさだ。


「…………」


 無言でそれを見つめたルークは幸福度が低そうなもこもこを膝に座らせると、一度哺乳瓶をテーブルに置いた。

 手慣れた動作で赤ちゃんクマちゃんの首によだれかけを掛ける。


「めっちゃ嫌がりそう」


 もこもこの幸福度が更に下がるのでは――とかすれた声で心配するリオ。


 魔王様のような容貌のルークが、愛しのクマちゃんが転げ落ちないようもこもこの腹部へ手を回し、準備を整える。

 キュオー……、という鳴き声を聞きながら心配そうに見守る保護者達。


 ルークがキュオー、と開いたもこもこの可愛い口元へ哺乳瓶を近付ける。

 自身に近付く何かに抵抗するように、肉球をスッと前へ出すもこもこ。


 今は結構です、という意味だ。


「あーやっぱ駄目か……あれ?」


 何故か拳を握りしめ、大型モンスターとの戦闘時よりも真剣な表情でもこもこの授乳を見守っていたリオの口から、落胆と――驚きの声が漏れる。

 肉球が触れたものの温かさに気が付いたのか、それとも何かを思い出したのか、もこもこの両手が前へ伸び、哺乳瓶をムキュと掴んだ。


 ――木漏れ日の落ちる美しいカフェテラスに、緊張が走る。


 いつもなら何か余計なことを言いそうなリオが、自身の口を片手で強く押さえている。

 絶対に声を出したくないらしい。


 真っ白で愛らしい赤ちゃんのようなクマちゃんが、哺乳瓶で美味しそうに牛乳を飲んでいる。


 ――サァー――チュ、チュ……チュ、チュ……――サァー――。


 心地好い風の音に混じり、哺乳瓶から牛乳を吸うクマちゃんのチュ、チュ、という音が微かに聞こえた。


 クマちゃんは肉球が付いたお手々をグー、パー、グー、パーと開き、何かを押すように、もこもこのお手々を一生懸命動かしている。

 まるで子猫が母猫からお乳を貰う時のようだ。


 愛らし過ぎて叫びたくなったリオは、それをぐっと堪え、冷静になるよう考えた。

『幸せになるグラス』とは、もこもこが幸せになるグラスではなく、その周りの人間が幸せになるグラスだったようだ。

 視線の先のクマちゃんはいつもはまん丸の目を少しだけ閉じ、潤んだ瞳で牛乳を飲んでいる。


 ――サァー――……チュ……チュ……チュ、チュ……――サァー――。


 先程まで不甲斐ない己を責め、もこもこと同じように幸福度を下げていた氷職人は、視線の先の奇跡の光景に完全に動きを止め、ついでに気配も消していた。

 もしも無駄に呼吸をしたせいで花粉や埃を吸いこみ咳が出て、ハッと気付いたもこもこが『クマちゃ』と姿勢を正し、哺乳瓶をス――と遠ざけてしまったら――。

 彼は自分のことが一生許せなくなるだろう。

 自身と戦う彼は黒革に包まれた手で胸元の服を強く握りしめ、苦しみを表現する美しい氷像のように顔を歪めていた。


 ウィルはルークの正面の席に座ったまま、愛らしいもこもこの最高に愛らしい姿を目に焼き付けていた。

 席を立ち近くで見たいという気持ちもあるが、音に気付いたクマちゃんが牛乳を飲むのをやめてしまうかもしれない。

 

 彼らが頼んだ飲み物は、一口も飲まれないまま、すでに半分以上氷が解けてしまっているが、大雑把な彼らは飲み物の味が薄くなっても気にしない。

 一部の人間は『この店の飲み物めっちゃ味薄いけど冷たくておいしー』と、用意した人間が『お客様……』と切なげに見つめてきそうなことを平気で言うだろう。


 気配を消したクライヴと同じ席に着いているお兄さんが、ゆったりとした動きで頷いている。

 彼の大事なもこもこの幸福度は、皆の望み通り順調に回復しているようだ。


 ――サァー――チュ、チュ……チュ……チュ……――サァー――。


 赤ちゃんクマちゃんと彼らの安らぎの時間を護るように、大きな樹が真っ白なテーブルを日差しから護っている。

 自然と共存する美しい風景のカフェには、ゆったりとした、幸せなときが流れていた。

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