第143話 元々幸せなクマちゃんとリオ
クマちゃんがルークに買ってもらった大切なグラスは、無事もこもこの力で癒された。
それを見て、うっかり『哺乳瓶じゃ――』と言ってしまったうっかり野郎なリオは、つぶらな瞳で彼を見つめるクマちゃんの視線に気が付き、すぐに己の迂闊な口を閉じる。
自分の事を大人だと思っていそうな赤ちゃんクマちゃんに聞かれたら、せっかく魔法で修理したグラスを使わなくなってしまうかもしれない。
まだ先程の『パリーン』の件を謝っていないというのに、これ以上もこもこに悲しい想いをさせたくない。
もこもこの神聖で心が洗われる様な癒しの力と、完成した品の素晴らしさに感動した保護者達が「あの店のグラスよりも機能的で美しくて、凄く素敵なグラスになったと思うよ。クマちゃんは天才だね」「ああ。こっちのほうがすげぇな」「――素晴らしいグラスだ。この世で一番愛らしいグラスだろう」と拍手を贈っている。
リオの口からは勝手に「えぇ………………」というかすれた声が出ていたが、可愛いもこもこと目が合ったまま拍手をしている彼は気付いていない。
愛らしいもこもこを観察するのと考え事で忙しいせいだ。
そうだ、あの時リオがリンゴジュースをなみなみと入れなければ――いや、それよりも、先にお面を外し、あの可愛い口元まで運んで飲ませてやっていたら――。
――割れる前と同じ物もあったほうが喜ぶだろうか。
うっかり金髪野郎は己の所業とウィルが『あまり品質が――』と言ったグラスを思い出し、
(あの雑貨屋、同じの売ってんのかな……)
あの店の店長が『お客様……!』と商品を抱えて走り寄って来そうなことを考えた。
そして、実は敵には容赦のない彼が、
(――グラス買いに行くとき騎士も連れてったらいいんじゃね?)
涙を浮かべた店長が『お客様……!!』と足に縋り付いてきそうな計画を立てていると――愛らしいもこもこが肉球の付いた可愛い両手に『元・幸せになるグラス(現・哺乳瓶)』を持ち、カフェの椅子に浅く座っているリオのもとへ、ヨチヨチもこもこと近付いて来た。
可愛いもこもこの口元から、幼く愛らしい「クマちゃ、クマちゃ」という声が聞こえる。
『リオちゃ、ジュースちゃ』と。
リオちゃん、クマちゃんのジュースはどこですか、という意味だとリオには分かった。
可愛いクマちゃんの質問パンチがリオの心を抉る。
なんと答えにくい質問をするもこもこだろうか。
曇りのない愛らしい瞳が彼を見上げている。先程リオが注いだジュースが、まだ残っていると思っているに違いない。
彼の心臓が、再びギュッと締め付けられた。
『パリーンの前に全部バシャってなったかも』などと言うわけにはいかない。
クマちゃんに嫌われ『クマちゃ……!』と言われてしまったら、リオの心も〝パリーン〟してしまうだろう。
「あ、ああー、あーちょっと待っててクマちゃん。テーブルあっちにあるから」
考える時間の足りないリオの口から無意味な音が漏れ出す。
いっそずっと『ラララ~』と言ってクマちゃんを愛でていたい。
――パリーンの後すぐに注文に走っていれば――!
リオは動揺を隠し、すぐに足元で返事を待つ愛らしいもこもこを両手でもふ、と優しく抱き上げた。
心を落ち着かせるため、もこもこの丸くて可愛い頭をもこもこが『クマちゃ』と言うまで撫でまわす。
(あー、めっちゃもこもこしてる。めっちゃもこもこ……)
「クマちゃ」
思わずまふ――と頭を銜えたくなるような生暖かく滑らかで素晴らしい手触りと、いつも通りの愛らしい声に落ち着きを取り戻した彼は、南国の鳥が歩道に置いたカフェテーブル、というには普通に大きさのあるテーブルへ近付く。
あれだ――。
リオが目を付けたのは、ルークの注文したリンゴジュースだった。
味に拘りのない彼は、愛しのもこもこがお代わりを欲しがり『クマちゃ』と言うことも想定していたのかもしれない。
解けた氷で薄まってしまっているが、リオの頼んだショウガの入った炭酸ジュースよりも、こちらの方がいいだろう。
完成した哺乳瓶を抱えたもこもこを抱えているリオは、チラとルークへ視線で確認を取る。
木漏れ日は似合うがカフェは似合わない魔王のような男が、道具入れを下げたベルトに片手の親指を引っ掛け、若干怠そうに立っているのが見えた。
切れ長の美しい森の色の瞳が、リオからもこもこへスッと移される。
クマちゃんにあげていいということだろう。
「クマちゃんそれ貸して」
腕の中でリオを見上げている愛らしいもこもこから哺乳瓶を受け取り、クマちゃんを落とさぬよう気をつけながら、蓋を開ける。
――背中に保護者達の圧を感じる。
消毒を忘れるな、ということだろう。
自身の手ごと魔法で哺乳瓶を浄化し、温そうなリンゴジュースを片手で注ぐ。
――先程牛乳を飲んだばかりなのに、飲ませてもいいのだろうか。
蓋を閉めつつもこもこを見る。
(めっちゃ見てる)
リオがもこもこを仰向け気味に抱えているせいか、もふもふの手の先をくわえたもこもこは、リオの手元ではなく彼の顔を見上げている。
――可愛い。
可愛いクマちゃんの期待を裏切るわけにはいかない。
彼はもこもこを抱えたままキュッ、と蓋を閉め、もこもこが飲みやすいよう抱え直すと、薄いリンゴジュースの入った哺乳瓶を、そっともこもこの口元へ近付けた。
クマちゃんが丸くて可愛い瞳を少しだけ閉じ、哺乳瓶をチュ……、チュ……、と吸っている。
可愛らし過ぎて眉間に皺が寄る。
可愛いもこもこの可愛らしさに抵抗するリオが、まるで睨みつけるようにリンゴジュースをチュウチュウ吸う愛らしいクマちゃんの口元や目元を見ていた時――。
真っ白な赤ちゃんクマちゃんの周りに、薄いピンクや紫、水色、黄色、といった可愛い花が、ふわ、ふわ、と浮かび始めた。
それはスイートピーのような淡くて優しい色合いの、ベゴニアのような形をした可愛らしい花だったが、森の街の人間は花の名前など気にしない。
リオがその花を見た感想は『何か可愛い花』だ。
「何この可愛い花」
何だこの花は。クマちゃんが可愛すぎるせいで幻覚でも見えているのか――。
もこもこの周りにふわふわと浮かぶ花が、クマちゃんと哺乳瓶で両手が塞がっているリオの口元へぶつかった。
しかし彼の身には何も起こらず、やはりクマちゃんが可愛すぎるせいで――と再度考えたリオは謎の花を放置し愛らし過ぎるもこもこ観察へ戻る。
チュウ……、チュ……、チュ、とリオが持つ哺乳瓶からリンゴジュースを飲むクマちゃんは、とにかく可愛い。
肉球付きの可愛いお手々が哺乳瓶の側にあるが、猫が仰向けで寝ている時のように手首を下向きに折り曲げているだけで、自分で持つ気はなさそうだ。
――手首も可愛い。
瓶の中身がほとんど減っていないのは、味を楽しんでいるからだろうか。
とても幸せそうだ。
見ているだけで自分まで幸せになる。
もうこの哺乳瓶に特別な力など必要ない。
リンゴジュースを美味しそうに味わうクマちゃんも、愛らし過ぎるクマちゃんを眺める自分も幸せだ。
どこかの副会長であれば『クソ可愛すぎんだろうがこの――』と汚い言葉で己の心に渦巻くもこもこへの愛おしさを無駄に熱く吐き出すだろう。
――『元・幸せになるグラス』でジュースを飲む愛らしいクマちゃんに免じて、あの雑貨屋へ騎士を連れて行く計画は、中止してやってもいいかもしれない。
『雑貨屋』と考え、リオはハッとした。
闇が深そうな雑貨屋が売っていた絶対に何の効果もないであろう『幸せになるグラス』を、本物の癒しの力を持つもこもこが願いを込めて改良したのだから、もこもこ製『幸せになる哺乳瓶』は本当に幸せになる哺乳瓶なのではないだろうか。
もこもこの周りにふわふわと浮かんでいる花がとても怪しい。
怪し過ぎる。
そして、とても気になる。
怪しいがもこもこの魔法に害はないだろう――リオは自身の顔の前にふわふわと浮かぶ薄い水色の花を、パク、と唇で挟んだ。
「…………」
花がスッと溶けるように消えてしまったことに気付かず、唇を舐めたリオは思った。
「めっちゃリンゴの味」
思ったことがすぐに口から出る男の口から今思ったことが出てくる。
「何がリンゴの味なの?」
愛らしいもこもこを愛でるため、数歩の距離をゆったりと歩いてきたウィルが彼に尋ねた。
ウィルが静かに歩くたび、シャラシャラと繊細な音が鳴る。
「クマちゃんの周りに浮いてるやつ」
リオは足を交差させ、その場でクルリと静かに振り返った。
リンゴジュースに夢中な愛らしいクマちゃんは、安心安全快適な乗り物リオの動きに気付いていない。
「おや、フワフワしていてとても可愛らしいね。愛らしいクマちゃんの周りに浮いているから、余計に可愛らしく見えるよ」
彼らの側へ来たウィルは、真っ白でふわふわなクマちゃんとクマちゃんがチュ……、チュ……、と少しずつ吸っている哺乳瓶、その周りに浮かぶ花へ視線を動かし感想を述べる。
優しい眼差しの彼は少しの間もこもこを間近で眺め、「本当に愛らしい」と透き通った声で言うと、周りに浮かぶ可愛い花を指先でスッとつかまえた。
鮮やかな青色の髪の彼が、薄紫色のそれを口へと運ぶ。
「――確かにリンゴの味がするね。採れたての瑞々しいリンゴのような酸味と、爽やかな甘味を感じるよ」
派手で涼やかな声を持つリンゴの販売員のような男は、もう一度それを食べようか迷う消極的な客リオに丁寧に不思議な魔法の味の良さを伝え、
「もしかすると、リンゴジュースで幸せになったクマちゃんが幸せのお裾分けをしてくれているのかもしれないね」
と優しく笑った。
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