第135話 赤ちゃんクマちゃんのお金
古城のような学園の裏にある、結界に覆われた森の中。
謎の靄に包まれ枯れかけていた不気味な森は、癒しのもこもこの手により癒され、まるで桃源郷のように美しく、薄桃色の花と光であふれている。
気になる事があると他のものが目に入らなくなってしまう猫のようなもこもこは、手紙のことも、種が蒔かれなかった悲しい畑のことも忘れ、街へお出掛けをする準備をしていた。
うむ。街で必要になるものと言えば、やはりあれだろう。
そして、あれを入れるための袋も必要である。たくさん入りそうな大きな袋がいい。
お腹の前に下げた斜め掛けの鞄から、大き目の袋をズルズルと引っ張り出し、街で必要になるそれらを入れていく。
お出掛けの準備で忙しいクマちゃんに、かすれた声が掛けられた。
「クマちゃん袋ん中で何やってんの?」
袋がもこもこと動く様子が気になったリオは、何かをしているらしいクマちゃんに声を掛けた。
氷の男が抱えるもこもこ袋の中に入っているクマちゃんは、先程歌っていた時も顔を出していなかった。
黒革に包まれたクライヴの手が、そっと袋を撫でる。
袋はまだもこもこと動いている。
リオがその様子を見つめていると、そこからクマちゃんの幼く愛らしい「クマちゃん、クマちゃん……」という声が聞こえてきた。
『クマちゃんの、おさいふ……』と。
「お財布? クマちゃんお金持ってないでしょ」
考える前に言葉が出てしまう男の口から、もこもこの名誉を毀損する失礼すぎる発言が飛び出した。
当然保護者達からの厳重注意を受け「クマちゃんごめん……やっぱ持ってるかも……」とかすれた声で訂正する。
クマちゃんはお金を持っていないのではない。
もこもこ飲料メーカーが販売している元気になる飲み物の売上金を、ルークに預かってもらっているだけだ。
赤ちゃんクマちゃんが一人で街へ買い物に行くことなどない。
そして庇護者で保護者なルークは赤ちゃんクマちゃんにお金を払わせたりしない。
もこもこに必要な物や欲しがっている物を購入するのはルークである。
――因みに、決まった額のお小遣いを渡すのではなく、もこもこが欲しがっている物なら何でも買うという危険な子育て――もこ育てだ。
「クマちゃんお財布とか持ってたっけ?」
リオは前回買い物に行った時に買ったあれこれと、買い物袋の中身を思い浮かべ、
(服と本とおもちゃと……服が多すぎて覚えてねー)
すぐに諦めた。
するとクライヴの腕の中の袋がもこもこもこもこと動き、愛らしいもこもこが顔を出す。
肉球付きのもこもこのお手々が、白い布の端をキュッと握っている。
「何、その布」
不思議に思ったリオはクライヴが抱えるもこもこに尋ね、近くへ寄った。
イチゴ帽を被った愛らしいクマちゃんが、白い布を握ったままリオを見上げている。
もこもこイチゴちゃんが幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。
『クマちゃんの、おさいふちゃん』と。
「財布っつーか、布じゃね?」
端しか見えていない白い布は猫のようなお手々のクマちゃんがキュッと握っているせいか、中々大きく見える。
気になったリオが「クマちゃんそれ見てもいい?」と言い、人様――もこ様の財布を覗こうとする。
「リオ、クマちゃんのお財布を覗くのは――」
ウィルが止めようとするが、富豪クマちゃんは見られても構わないらしく、「クマちゃ」ともこもこの手で彼に布の端を差し出している。
「ありがとー」
赤ちゃんクマちゃんの財布を覗こうとする悪い大人リオが、にこやかにもこもこから布の端を受け取り、それを引っ張る。
クライヴの手元の――もこもこが顔を出している――袋から、ズルズルと出てくる布は、彼の想像よりも長い。
――クマちゃんは目の前でズルズルしている布の何かが気になるらしく、肉球でペシッ、ペシッ、と赤ちゃんクマちゃんパンチを繰り出している。
子猫より攻撃力の低いクマちゃんに攻撃されている布は、よく見ると布の端が縫われているらしい。
無地の白い布で出来た、長い袋だ。
「なに、この袋。めっちゃ長いんだけど。財布っつーかただの長い袋じゃん。…………つーかこれ枕カバーじゃね?」
考える前に口が動く男から、クマちゃんのお財布に対する失礼な感想が零れる。
袋の中身が気になっているリオは、外側のそれについて深く考えようとしない。
目の前のもこもこが『クマちゃんの、おさいふちゃん』と呼んでいる枕カバーが、誰の枕カバーなのかを。
リオは枕カバーに似ているそれの中を覗き、
「中見えにくいんだけど…………めっちゃ緑のもの見えるし。これ絶対お金じゃないでしょ」
とクマちゃんのお財布と、緑色の物ともこもこの財産を馬鹿にするような発言をした。
色々失礼な男リオがもこもこの保護者達からのそれに「殺気飛ばすのやめて欲しいんだけど……」と言うが、自身の行為を止める気はないらしい。
「クマちゃんの財布っつーか枕カバー、葉っぱと木の実と石しか入ってないんだけど…………」
金髪の失礼な男はクマちゃんのお財布の中身にいちゃもんをつけ――。
その途中で、もこもこが猫のようなお手々でお気に入りの木の実や葉っぱを掴み、『クマちゃ……』と入店したお菓子屋さんで『クマちゃ』とそれを差し出し、品物を購入しようとしているところを思い浮かべてしまい、胸がキュッとなった。
もしも、もこもこに優しくない店員が『お客様、当店では葉っぱや木の実でのお支払いはお断りさせていただいております』と獣的な支払いをするもこもこへ冷たい視線を向け、クマちゃんが『……クマちゃ……』と悲し気に呟き、瞳を潤ませてしまったら――と想像してしまったのだ。
その店に優しい店員がいれば『その木の実は中々の珍品ですね。珍品すぎるので見せていただくだけで結構です』とそっと肉球に商品を渡してくれるだろうが。
クマちゃんのお財布に入っている――森の中でちぎったり拾ったりしたような――非常に森のもこもこらしい『お金』に胸がギュウギュウ締め付けられているリオは、
「……あーでも、この石めっちゃ綺麗じゃん。宝石っぽい」
とお金の代わりになりそうな綺麗な石に目を止め、その美しさを褒めた。
きっとルークがもこもこにお金を渡すだろうが、クマちゃんが自身の財産としてリオに見せてくれたものを『これはお金じゃない』と言うのは、彼の想像する優しくない店員が『お客様、当店では――』と愛らしいもこもこに冷たくするのと同じだ。
彼は手の平にそれをのせ、皆へ見せる。
「リオ、それは『宝石っぽい』のではなく、宝石よりも希少なものだと思うよ」
美しいものを好み、装飾品を目にする機会の多いウィルは、リオの手にのるそれをじっと観察し、真面目な声で告げた。
様々な原石を見てきた彼には、『クマちゃんの、おさいふちゃん』という名の枕カバーに入っているそれが、ただの綺麗な石ではないことが分かった。
まるでもこもこ飲料メーカーの輝きすぎている牛乳瓶のようだ。
それをのせているリオの手の平に光が零れ、小さく揺らめいているのが見える。
もしも出掛けた先の街中で、愛らし過ぎるもこもこがおさいふちゃんから『クマちゃ……』とそれを取り出せば――どこかから悪人が現れ、希少な宝石を肉球にのせ愛らしく『クマちゃ……』している希少動物もろとも枕カバーに放り込み、持ち運びやすくなってしまったもこもこは『クマちゃ!!』と連れ去られてしまうかもしれない。
赤ちゃんなクマちゃんには自由に色々なことを体験してほしいと思っているが、可愛すぎるもこもこが悪党に狙われてしまったら――と思うとつい、『そのお財布は置いていったほうが良いのではない?』と言ってしまいそうになる。
もこもこに悪人など近寄らせるつもりはないが、どこかからじっとクマちゃんを見つめているのでは、と考えるだけで、悲しい気持ちが抑えきれず、あちこちに殺気を飛ばしてしまいそうになる。
ウィルは心配そうに長いまつ毛を伏せ、腕を組む。
装飾品がシャラ、と綺麗な音を立てた。
「……まさか、あの泉の――」
マスターは誰かの枕カバーから出てきたそれを見て、思わず呟いた。
生暖かいもこもこを抱え、森の中を彷徨ったときに見た泉が彼の頭に浮かぶ。
精霊か何かの住んでいそうな神秘的な泉の周りに散りばめられた、宝石のような石。
あれは人間が手にしていいような物ではない。
もこもこがそれを拾っても無事でいられるのは、人間と違い醜い欲を持っていないからだろう。
白いのだけが採ることを許された特別な石を人間が経営する店で使い、赤ちゃん用のおもちゃやお菓子を買うなんてとんでもない話だ。
もしも店員が『この石が採れるところを教えてくれるなら――』と、疑うことを知らない純粋なもこもこがすぐに『クマちゃん』と言ってしまいそうな、危険な取引を持ちかけてきたら――。
――それを見たルークの反応も心配だ。
彼が大事に護り、ふわふわの布で包み、赤ちゃんの体に悪そうなものをすべて排除し、普段の無神経な彼からは想像もつかないほど大切に育てている可愛い赤ちゃんクマちゃんを、騙そうと目論む悪人。
『この石が採――』あたりでどこかへ放り投げてしまうかもしれない。
「あー、そうだな。一度酒場に戻って、白いのが使える財布を探すか」
仕事机の上の他にも心配事が増えたマスターは、袋から顔を出し何故かクライヴと握手をしている可愛いクマちゃんへ視線をやり――愛らしいもこもこには、誰かの枕カバーよりも相応しい財布があるだろうと、中に入れるお小遣いの額よりも気になったそれを、先に解決することにした。
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