第134話 農場長クマちゃんの慌ただしいスローライフ
「クマちゃん待って待って待って、それとそれ混ぜたら大変なことになっちゃうから」
リオは慌てて目の前のもこもこの肉球をムニ――と優しく押さえた。
湯上りに冷たいものが飲みたいと言ったリオのためにもこもこが作ってくれている飲み物に、強い不安を覚えたからだ。
南国の鳥の『先程作ったものを混ぜれば――』という言葉を聞いたクマちゃんは、『クマちゃ……!』ともこもこ的な解釈をしたのだろう。
可愛いもこもこの前には加糖練乳のような〈甘くておいしい牛乳・改〉と、先程作ったばかりの、甘いイチゴを大量の砂糖で漬け込んだイチゴシロップが入った瓶が並べられている。
それとそれは混ぜてはいけない物だ。
喉が通過を拒否し『んば……』と出てきてしまう。
普段から味の細かな違いを気にしない無神経な男が、気になることが多すぎる繊細な金髪に低く色気のある声で、
「細けぇな」
本当に細かい人間が聞いたら血圧に変化が起こりそうな発言をし、作業を中断され獣のような顔で肉球を齧っているクマちゃんを抱きかかえた。
大好きな彼に仰向けで抱っこされたもこもこはすぐにいつもの愛らしい顔に戻り、肉球をペロペロしながら彼を見上げている。
その隙にリオが「お兄さんこれ普通の牛乳と交換しない?」と瞳を閉じて座っている美しいお兄さんに交渉を持ち掛け、もこもこプレミアムな〈甘くておいしい牛乳・改〉から、森の街で入手可能な普通の牛乳へ降格させてしまっていた。
絶対に怪我などしないであろうお兄さんは受け取ったもこもこプレミアムをじっくりと眺めてから長いまつ毛を伏せ、ゆったりとした動きで頷くと、大切そうに闇色の球体の中へ、それを仕舞った。
――その姿は子供が作った工作を大切に保管する親のようにも見えた。
もこもこが思わず「クマちゃ……」と肉球を齧ってしまうようなことがあったが、「クマちゃ」と気を取り直したもこもこは、皆のために癒しの力を籠めたおいしいイチゴ牛乳を作り、氷の紳士から丁度いい大きさの氷を貰って「クマちゃ」と握手を交わし、今度こそ、皆で仲良く冷たい飲み物を飲むことに成功した。
もこもこ飲料メーカーのおいしいイチゴ牛乳には「クマちゃんこれすげぇ美味い。ありがとー」とかすれた声の金髪を喜ばせるだけでなく、強い癒しと、お肌が綺麗になるという素晴らしい効果もあった。
しかし毎日もこもこが作ったものを食べたり飲んだり浸かったり浴びたりしている彼らは、完全な健康体で、その上美貌も最上級だ。
残念ながら、彼らの外見にもこもこが「クマちゃ!」となるような目立った変化はなかった。
自分達の森へ帰る前にイチゴの種を撒きたいという無法者が「クマちゃん」と言ったため、
「えぇ……クマちゃん、この森普通に持ち主いるとこだから、見つかったらクマちゃんのイチゴ駄目になっちゃうと思うんだけど」
かすれた声の常識人は自宅の範囲を理解する気のない猫のようなもこもこに『実はそこはあなたの家では無いんですよ』というもこもこが驚くべき事実を告げ、『あなたのイチゴが引っこ抜かれますよ』と優しく教えてあげた。
森育ちで農業も営んでいるもこもこの耳元で風が吹き、『クマちゃん――この森普通に――クマちゃんのイチゴ――なっちゃうと思うんだけど』という、ややかすれ気味の声が聞こえた。
かすれた常識人のかすれた話をしっかりと受け止めた農場長が深く頷き、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と答える。
『クマちゃん、種蒔き』と。
農場長は種を蒔いてしまうらしい。
物欲に支配されたクマちゃんの脳内に『クマちゃんのイチゴ――なっちゃうと思うんだけど』が繰り返される。
「えぇ……クマちゃん絶対俺の話聞いてないよね」
不法侵入、森林窃盗、世を乱す悪党クマちゃんの頭の中で繰り返される『クマちゃんのイチゴ――なっちゃうと思うんだけど』を知らない金髪が目を細め、肉球の手入れをかかさない猫のような農場長に『なんて人の話を聞かないもこもこだ』という視線を向ける。
しかし、ピンク色なこの場所にはもこもこした農場長の味方しかいない。
もこもこの言う事をなんでも聞いてしまう悪い男ルークは、彼が丁寧に乾かし専用ブラシでお手入れした、ふわっふわで最高に美しく愛らしい農場長にイチゴの帽子と葉っぱのようなよだれかけを装備させると、「場所は」と低く色気のある声で尋ね、「クマちゃん、クマちゃん」という幼く愛らしい声に導かれるままフラリとピンクな森へ消えてしまった。
常識人なリオは「……つーかまさか勝手に畑作るつもりじゃないよね」とかすれた声で呟きつつ、彼らの後を追い、予想通り露天風呂のすぐそばに出来ていた畑を見て「えぇ……」と言った。
イチゴの帽子を被った農場長が人様の森を勝手に開墾し、大きなベッドを六個は並べられそうな大きさの畑で、局地的な種蒔きをしている。
後ろ姿しか見えないが、肉球で何かを掴み、もこもこの手でパッ――とそれを投げるような動作をしているのだから、間違いないだろう。
農場長は一つの場所にとどまり全く動かない。
そこにしか撒かないのなら何故そんなにデカい畑を作ってしまったのか。
己の素晴らしい種蒔き技術に納得したらしい農場長が深く頷き、お兄さんが闇色の球体でもこもこの横へ置いてくれた、可愛らしい真っ赤なジョウロで水を撒く。
水が掛かった場所が光り、ボッ――と局地的に葉が生えた。
農場長が肉球で飛ばした種がすべて足元に落ちていたせいだろう。
「クマちゃんの前しか葉っぱ生えてないじゃん。他んとこどーすんの」
大きなベッドほぼ六個分の無駄な畑はどうする気なのか。
イチゴの帽子も葉っぱのようなよだれかけも、もこもこ専用の真っ赤な小さいジョウロも可愛らしくて気になるが、農場長の足元にしか葉の茂っていない広い畑の方が気になる。
「次に来た時に又植えたらいいのではない? 今日のクマちゃんは街へお出掛けをする大事な予定があるようだから、無理をしなくてもいいと思うのだけれど」
成分表示をしたら苦情が殺到するもこもこ飲料メーカーの飲み物のようにクマちゃんに甘い男が、涼やかな声で農場長を甘やかす。
甘すぎて血糖値が上がりそうだ。
リオから『クマちゃん葉っぱちゃんどうするの?』と尋ねられた農場長は深く頷いた。
うむ、今日のクマちゃんはとても忙しい。おいしいイチゴの収穫は次に来た時でいいだろう。
作業を終えようとしたクマちゃんの頭に――生産者――顔――という不思議な言葉が浮かぶ。
「畑デカく作り過ぎだと思うんだけど。つーかこのイチゴもう赤くなりそうじゃん。クマちゃんこれこのままで大丈夫?」
生産者というのは、クマちゃんのことだろうか。
顔というのは、おそらく、生産者の顔をどうにかしろということだろう。
生産者のクマちゃんの顔をどうにかする――可愛いクマちゃんの似顔絵を描いたらいいのでは。
難しい表情で肉球をペロ――とひと舐めしたクマちゃんは、ハッとした。
横に人の気配を感じる。
生産者のクマちゃんの横に、人が――。
生産者のクマちゃんの横に立っているということは――ほぼ生産者だろう。
うむ。急いで二人分の似顔絵を描かなくては。
リオがもこもこに「クマちゃんもう帰る?」と尋ねようとした時、イチゴの帽子を被った可愛いクマちゃんがお兄さんの方へポテポテポテポテ! といつもよりも素早く走り寄り「クマちゃ、クマちゃ」とやや早口で話しかけた。
『クマちゃ、リオちゃ、看板』と。
「なになになに今なんか俺の名前入ってなかった?」
去ったイチゴ帽を追わず、赤くなりそうなイチゴをぼーっと眺めていたリオが、何かを察知し振り返った。
イチゴ帽の無法者は今、妙なことを言わなかっただろうか。
『クマちゃん看板』なら特に問題はないが、『クマちゃんリオちゃん看板』にはまぁまぁよろしくない何かを感じる。
「別に問題ねぇだろ」
畑から少し離れた場所で、ウィル達と話をしながらもこもこを見守っていたルークが、低く色気のある声で若干面倒そうに答えた。
「いや俺の看板のことは俺が決めたいんだけど」
今のリオに『リオちゃん看板』は必要ない。万が一、何らかの理由で『リオちゃん看板』を立てるとしても、それは持ち主が居る森の中に勝手に作ったイチゴ畑の前ではない。
しかし、リオがルークと話をしている間に、畑の前には木製の看板が立てられ、その前にいるもこもこがお腹の鞄をごそごそしている。
きっと看板に『クマちゃん、リオちゃん』と書くつもりだろうと思ったリオがそれを阻止しようとするが、
「リオ、小さな子が一生懸命頑張っているのだから、あまり邪魔をしてはいけないよ」
と、大体クマちゃんにしか優しくない男が優し気な声でリオの心に優しくない、正論にも聞こえるようなことを言った。
「今一瞬『一理ある』とか思っちゃったんだけど……いやでもリオちゃん看板はちょっと……」
クライヴに抱えてもらい看板の前でもこもこのお手々を動かしているイチゴなクマちゃんを視界に収めたリオは、人間が大事にしている物に興味津々な猫が『これは丁度いいところに……』と高い鞄で爪を研ごうとしているのを見てしまった時のように『いやそれはちょっと……!』という気持ちになり、『やっぱ俺の看板は今度でいいから』と問題を先延ばしにしようとしたが、もこもこイチゴは既に白い杖を取り出してしまっていた。
そして、もこもこイチゴを降ろした氷の男が地面に魔石を並べている。
声も視線も冷たいくせに、もこもこの望みを率先して叶えようとする非常に厄介な男だ。
イチゴの帽子を被った愛らしいもこもこは、小さな黒い湿った鼻の上にキュッと皺を寄せ、肉球のついたもこもこのお手々で真っ白な杖を振った。
もこもこの作業が終わると、
「――お前の愛らしさと美しさが良く表現されている」
感動した氷の紳士がそれを褒め、まるでドレス姿のお嬢様に手を差し出すように、もこもこをもこもこ袋の中へ丁寧にエスコートする。
モフワリと袋へ入ったもこもこ様がスッとお上品に袋の外へ肉球を出し、黒革の手袋に包まれた彼の手と、そっと握手を交わした。
「…………」
あまり見たくはないが看板が気になるリオがそちらへ近付く。
そして近付かなくてもよく見えた看板には、イチゴの帽子を被ったもこもこした農場長と、金髪の青年が可愛らしく描かれていた。
「髪だけ光らせすぎでしょ……何かクマちゃんの目に俺がどう映ってんのか心配になってきたんだけど……」
畑の前に立てられた木製の看板に、とても愛らしいクマちゃんと、右が琥珀色、左がピンクと青の木の実色の瞳、そして、何の塗料を使えばそうなるのか、髪の毛がキラキラと金色に輝く青年がはっきりと描かれている。
前に描いた似顔絵よりも精度が上がっているのは、予定が詰まっている――今日は忙しいもこもこが魔法を使って描いたせいだろう。
似ている。とても――。
看板を見た人間がリオを知らないことを祈るしかない。
絵に個人を特定する情報を詰め込み過ぎて、まるで『ここにイチゴ畑を作ったのは俺たちだぜ、へっへっへ』と被害者をおちょくっているようだ。
すぐ側に立つ氷の男が愛おしそうにもこもこ袋を撫でている。
そしてその袋から、もこもこしたシンガーソングライターの素敵な歌声が聞こえてきた。
「クマちゃーん」
その歌は『クマちゃんイチゴちゃーん』という愛らしい歌詞から始まった。
「クマちゃーん」
イチゴちゃんなクマちゃんは歌う。
『美味しいイチゴ畑』と。
「クマちゃーん」
もこもこは愛らしく共同経営者の名を歌い上げる。『リオちゃんの畑ちゃん』と。
始まったばかりのイチゴ畑の歌は、早くも終盤に差し掛かったようだ。
「クマちゃーん」
哀愁の漂う歌声がイチゴ畑に響き渡り、曲は最高の終わりを迎えた。
『土だけ――』と。
「俺に畑押し付けるのやめて欲しいんだけど!」
聞き捨てならない歌詞を聞いたリオがシンガーソングライターを責める。
新曲『蒔かなかった人の歌』は一部の人間から怒りを買ったようだ。
しかし袋の周りで愛らしい歌声に耳を澄ませていた聴衆達は「うめぇな」「クマちゃんの歌声は本当に愛らしいね、聴くだけで笑顔になるよ」「ああ、白いのは歌も上手いし、とにかく可愛い。特にあの声が良いな」と絶賛している。
愛らしい歌声を間近で聞いてしまったクライヴは、感動で震え、小さく何かを呟き、それを聞いたシンガーソングライターがカーテンコールに応えるように、そっと袋の外へ肉球を出し、ファンとの握手を交わした。
白い獣が勝手に『リオちゃん看板』を立てた彼の畑は、大きなベッド六個から、枕一個分を引いた部分、つまり、ほぼ全部だ。
歌の通り『土だけ』である。早く種を植えなければ、何も収穫出来そうにない。
しかし、彼らには街へ出かけるという大事な予定がある。
「リオ。残念だけれど、種蒔きは明日以降にするしかないと思うよ」
ウィルが『蒔かなかった人』を励ますように、優しく声を掛ける。
白い獣の善意で被害者をおちょくる犯人のような看板を立てられた男は、
「俺がめちゃくちゃ種蒔きしたがってるみたい言い方やめて欲しいんだけど」
かすれた声で冷静に答えた。
しかし彼は自分でもわかっていた。
縄張り争いを知らない、生まれたての子猫のようなもこもこは、『クマちゃ……』と一生懸命耕した畑を自分の物だと思っているだろう。
そして、その畑を一緒に使うはずのリオが中々種蒔きをしなければ『クマちゃ……』と落ち込み、心配するはずだ。
もしかしたら、心配しすぎて寝ている彼の手の中に『クマちゃ……』とイチゴの種を入れてしまうかもしれない。
危険だ。
最近もこもこのやりそうな事が少しずつ分かって来たリオは真面目な顔で頷き、
「――明日撒いた方がいいかも」
もこもこしたお手々に、イチゴの種、又はイチゴをスッ――と手の中に押し込まれる未来を回避するため、然程したくもない種蒔きをすることを決意した。
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