第108話 クマちゃん、授業を受ける
学園長は瞳を閉じると目頭を押さた。
そしてゆっくりと瞼を持ち上げた彼は、学園長室のど真ん中、絨毯の上の存在へ視線をやり、それが白黒で、ぬいぐるみのようにもこもこしていることを再度、確認した。
愛らし過ぎるもこもこは、不安そうに、もこもこの手の先をもこもこの口にくわえ、つぶらな瞳でじっと、こちらを見ている。
早く声を掛け、安心させてやりたい。
「……もしかして、魔法で姿が変わってしまったのかな?」
この学園の誰かが魔法実験に失敗したのだろうと考えている彼は、出来る限り優しい声で、白黒のもこもこへ尋ねた。
白黒のもこもこは、まるで『何故わかったのですか?!』とでもいうように、もこもこの両手をサッともこもこの口元に当て、つぶらな瞳を潤ませている。
それからもこもこの両手をずらし、パンダっぽく見えなくもない帽子を結んでいる首元の黒いリボンの辺りに、そっと肉球を添えた。
きっと、『私が誰か分かりますか?』と言いたいのだろう。
学園長は、もこもこしてしまった誰かの名前をすぐに答えてやりたかったが、残念ながら元の顔が分からなすぎる。人間だった頃の姿が全く想像できない。
傷付けたくはないが、本人に聞くしかない。
「……すまない、君は――誰だったかな?」
彼は出来る限り優しい声で、ぬいぐるみのような姿になってしまった者へ尋ねた。
もこもこした誰かは『まさか私を忘れてしまったのですか?』と言うかのように潤んだ瞳でこちらを見つめ、口元をもふっと膨らませた。
そして、チャチャッと舌の調子を確かめ、ゆっくりと、もこもこした口を開いた。
「クマちゃん、クマちゃん」
幼く愛らしい声は全く聞き覚えがない。姿だけでなく、声も話し方も変わったようだ。
人間だった頃の名前を聞いたつもりだったが、彼、又は彼女はクマちゃんと呼ばれたいようだ。パンダちゃんでもいいらしい。
学園長は察してしまった。――元に戻れない覚悟を、決めているのだろう。
「――そうか、ではその姿の間はクマちゃんと呼ぶことにしよう……ところで、君は――教員、いや生徒か?」
妙に頭がデカく見えるパンダっぽい帽子について触れず、クマちゃんと呼ぶことにした学園長がもこもこへ尋ねる。
愛らし過ぎる姿と声のせいか、教員というには幼く感じてしまい、ならば生徒だろうと推測する。
白黒のもこもこが頷く。
「クマちゃん、クマちゃん」
幼く愛らしい声が『クマちゃん、生徒』と言っている――ような気がした。
本人――本クマ曰く、当学園の生徒なクマちゃんは、続けて「クマちゃん、クマちゃん」と言う。
「クマちゃんの教室、か……」
もこもこから教室の場所を尋ねられた学園長は、眉間に皺を寄せ考えた。
この姿で授業を受けて大丈夫だろうか。これだけ愛らしければいじめられることはないと思うが――協力者は必要だろう。
彼は頼もしい生徒の姿を思い浮かべ、
「では、君のことは生徒会長をしている彼に預けよう。君も知っていると思うが、白に近い金髪の、背の高い男子生徒だ」
と言った。
クマちゃんが『もちろん知っています』というように頷いている。生徒会長を知らない生徒はいないはずだから当然だ。
「これも知っていると思うが、この学園には侵入者を防ぐ強力な魔法がかかっている。姿が変わってしまっても、君を部外者として追い出すものは居ないはずだ。安心していい」
学園長は穏やかな声で、無垢な瞳でこちらを見つめるもこもこへ、安心するよう告げた。
目の前の愛らしいもこもこが、肉球が付いた両手を黒いリボンに当て、『それならこの姿でも安心ですね』というように、深く頷いた。
――現在の侵入者、クマ一、クマの保護者三。
◇
クマちゃんに『クマちゃん、クマちゃん』というよく分からない理由――なんとなくルークと聞こえたような気がする――で食事を断られた生徒会長は、学園長に会いたいというクマちゃんのお願いを叶えるため移動している途中で、他の役員から呼び止められ、泣く泣くもこもこを教員に託した。
もこもこへ『すぐに迎えに行くから待っててね。可愛いクマちゃん』と甘い言葉を吐き、教員には『すみません、この子が学園長にお話があるらしいので、案内をお願い出来ますか? ――とても大事な子なので、よろしくお願いします』と悲し気に告げ。
一般生徒が立ち入れない階の廊下をまるで駆けるように移動した彼は、学園長室の扉をノックし「クマちゃんを迎えに来ました」とやや早口で言うと、許可が下りると同時に扉を開いた。
今までの彼であれば絶対にしないであろう行いだ。
「失礼いたします。――可愛いクマちゃん、会いたかったよ。学園長への用事は終わった?」
一瞬だけ学園長へ視線を向け、すぐにクマちゃんに夢中になってしまった困った生徒会長。
彼は学園長からの説明を聞くと、真剣な表情で『わかりました。可愛いクマちゃんのことはすべて私にお任せください』と微妙に安心出来ないことを言い、白黒のもこもこを抱き上げ『可愛いクマちゃん、これからはずっと一緒だね』と口説きながら退室していった。
――彼は学園長の話を聞いていなかったに違いない。あのもこもこが生徒だと思っているならあんな態度はとれないだろう。
古い城の中のような石造りの壁と、深い色の木製の机、同色の椅子が並べられた、魔法学園の教室。
怪しげな雰囲気を纏う黒い金属製のランプには、蠟燭の火が灯り、壁をユラユラと不規則に照らしている。
窓の外は蔓植物で覆われ、あまり光が入って来ない。明り取りの役目は果たしていないようだ。
教室で寛いだり、次の授業の準備をしたりしていた生徒達の前に、担任の教師が現れ「今日からこのクラスで授業を受けることになった生徒の紹介をするので、席に着いてください」と告げた。
――微妙に休憩時間が減り、災難である。
「――入ってきて下さい」
シン、と静まった教室に教師の声が響く。
前列、入り口付近の席に座っている生徒がドアが開くのを待っていると、予想よりも少し高い位置に、男子生徒らしきものの手が見えた。
そのままそのあたりをぼーっと眺めていた生徒だったが、今度は視界の下の方で何かが動いたことに気付く。
――半分開いたドアから、きっちり半分顔と体を出している、白黒のもこもこが見える。
ドアに、もこもこの手を片方かけた格好で、つぶらな黒い瞳を片方と、小さな黒い鼻を半分だけ見せ、こちらの様子を窺っている。頭には、もこもことした黒い耳の付いた帽子を被っている。
彼は目を剝いた。
可愛すぎる。何だこの生き物は。
自分の他にも衝撃を受けた生徒がいたらしく、ざわついているのを感じるが、それどころではない生徒はもこもこから目が離せない。
まさか、この可愛すぎる生き物が『今日からこのクラスで――』という生徒なのだろうか。
生徒? ――――このもこもこが?
こんなに可愛くてもこもこしているのに、もこもこしていない、可愛くない自分達と同じ生徒だというのか。そんな馬鹿な。
胸のときめきが止まらない生徒の口から小さな呟きが漏れる。
「まさか――――これが、恋……」
――そんなわけはないのだが、動揺しすぎている彼には動悸の違いが判らない。
おそらく彼の症状は、子猫と目が合い、あまりの可愛さに『ふわぁぁ! 可愛すぎて死んでしまう!!』と悶え苦しむ人間特有の動悸だろう。良くあることである。
警戒心の強い猫のようなクマちゃんは、教室に入る前に、身を隠して中の様子を窺うことにした。
相手から見えないように片目だけ覗かせ、じっと教室に居る彼らを観察する。
うむ。『クマちゃんは入っちゃダメ!』と言っている人間は居ないようだ。クマちゃんも授業を受けていいらしい。
しかし、まだ変装は解かない方がいいだろう。
クマちゃんの本当の姿を見たら、また退学にされてしまうかもしれない。
パンダの帽子が脱げないように、首元の黒いリボンを肉球でキュッと押さえたクマちゃんは、スッと美しい所作で、もこもこの足を教室へ踏み入れた。
ヌルリ、とドアの隙間を通る猫のように教室に入ったクマちゃんを教師が抱き上げる前に、もこもこを静かに見守っていた生徒会長が後ろから抱き上げた。
抱っこに慣れた猫のようなクマちゃんは、出会って間もない彼の腕の中でも大人しい。
もこもこした手に付いている肉球をペロペロし、心を落ち着けているクマちゃんを抱いたまま、彼が教壇へ上がると、
「――自己紹介を」
という教師の声が響いた。
言い方は機械的だが、教師の顔にはもこもこを心配する気持ちが滲み出ている。彼も、もこもこ好きなのだろう。
生徒会長が小さな声で「可愛いクマちゃん、大丈夫?」ともこもこへ尋ねたが、腕の中のクマちゃんは頷いている。大丈夫らしい。
あちこちで「可愛すぎる」「凄いもこもこしてる」「何? あの帽子……変なのに可愛い」「いま会長クマって言った?」「やばい、可愛い、やばい」と話す声が聞こえる。
生徒会長がクマちゃんを抱いたまま片手を上げ、静かにするよう伝える。
再び静まり返る教室。
クマちゃんの口元がもふっと膨らみ、幼く愛らしい、
「……クマちゃ……」
という声が聞こえた。
『……クマちゃ、です……』と。
緊張で、パンダと名乗るのは忘れてしまったようだ。
魔法使いの卵である生徒達は興奮し「クマちゃ? やばい可愛い」「クマちゃん……可愛い」「そっかぁクマちゃんかぁ可愛いねぇ」と勝手に騒ぎ出してしまった。
クマちゃんは皆から好意的に受け入れられたようだ。皆もこもこ好きなのだろう。
◇
「では、この薬草が採れる場所を答えてください」
落ち着かない雰囲気のまま授業が始まり、教師が生徒達に尋ねる。
教室を見渡す教師。
上がる肉球。
「――では、クマちゃんに答えてもらいましょう」
教師はピンク色の可愛いそれに一瞬動揺したが、待たせては可哀相だとすぐにもこもこを指名する。
生徒会長の机の上に、ぬいぐるみのように座っているクマちゃんの可愛い口がもふっと膨らみ、そこから幼く愛らしい、
「クマちゃん」
という声が聞こえた。
『頭』と。
「…………はい。正解です。頭にも生えるかもしれないですね。――皆さんクマちゃんに拍手を」
クマちゃんの答えに無限の可能性を感じた教師は、もこもこの怪しい解答を正解にした。
人間は決めつけすぎるところがある。
自然界に生きるもこもこが『薬草は頭に生える』というなら、それも又、ひとつの答えなのだろう。
生徒達は「……そうなの?」「クマが言うならそうなんじゃない……?」「誰の頭に……?」とざわつきながら拍手を送った。
「可愛いクマちゃんは天才なんだね。自分がちっぽけに思えるよ」
自身の机の上を陣取る、偉大で愛らしいもこもこの大きな後頭部を見つめながら、生徒会長が甘く囁いた。
――彼らは忘れている。このもこもこはもこもこしているだけで、森の生き物ではない。学園長の説明では、もこもこはこの学園の生徒だ。そして、本当は今日初めてこの学園に来たクマちゃんは、毎日ぬくぬくと甘やかされている家猫のような生き物なので、植物には全く詳しくない。
おそらく薬草は、頭には生えない。
廊下ではもこもこを探しに来たリオ達が、誰よりも真剣に授業を受けている真面目で可愛いクマちゃんを見守っていた。
教室の中の様子は、お兄さんがクマちゃんに贈った魔道具に映し出されている。
「あの教師クマちゃんに甘すぎでしょ」
映像を見たリオは目を細め、複雑そうな声を出した。
クマちゃんに優しいのはいいことだが、何でも正解にするのはどうなのだろう。このままではクマちゃんの成績が下がってしまうのではないだろうか。
「うーん。でも不可能でないなら、不正解とも言えないかもしれないね。――生き物の、とは言っていないのだから」
可愛いもこもこを肯定する悪い男がクマちゃんの答えを正解にする方法を考えている。
シャラ、と装飾品を鳴らし、ウィルが腕を組むと、古城のような石造りの、深紅の絨毯が敷かれた廊下に巨大な闇色の球体が現れ、中から魔王城の主のような男と、冬の支配者のような男が出てきた。
「あいつは」
低く色気のある声の持ち主が、愛らしいもこもこは何処かと尋ねる。
この場所は何なのか、ということには興味が無いらしい。
彼が心配するのはもこもこの昼食の時間だ。
「城のように見えるが――あちこちに魔法の仕掛けがあるな」
美しい瞳で冷たい視線を向け、廊下のそれらを確認したクライヴは「白いのはどうした」と魔道具を覗き込んでいた彼らに尋ねた。
やはりこの男も、もこもこにしか興味が無いらしい。
こうして、侵入者を全く防げない学園に、マスター以外のクマの保護者が揃った。
教室では愛らしいもこもこが再びクマ的な解答をするため、ピンク色の肉球をスッと上げていた。
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