第106話 クマちゃんとリオと動く絵本
少し遅い朝。二人と一匹の一日は、今日も暗い部屋から始まる。
森の香りが漂う神聖な闇の中には、赤ちゃんを楽しませるための音楽がかかっている。
眠る金髪。真上で回転する六個のオルゴール。
赤ちゃんの時代を大分過ぎた金髪の眉間に、何故か寄る皺。
ルークの暖かい胸元で丸くなるクマちゃんのもこもこの頭を、彼の大きな手が優しく撫でる。
もこもこは夜更かししたせいで眠いらしい。
彼より先に目覚めることもあるクマちゃんは、今日はルークの手に反応せず、もこもこした口をチャチャッと動かし丸くなったままだ。
腕の中の生暖かいもこもこを抱き上げ、ルークはそのままベッドを降りる。
反対側のベッドには、愛らしい音楽に苦しむ金髪。
「……さ……い……」というかすれたうめき声が聞こえたが、もこもこを撫でながら洗面所へ向かうルークの頭を過ったのは『根野菜』で、クマちゃんに食べさせる朝ご飯が『シチュー』に決まっただけだった。
今日はお店のアイテムを作ると言っていたもこもこのことを考え、専用の引出しから帽子を選ぶ。
赤くて可愛らしいそれに合わせたよだれかけを着け、まだ寝ているもこもこを眺めたルークは、無表情だが心なしか満足そうに見えなくもない顔で頷いた。
◇
ルークが注文した朝食が届くまでの間に起きたもこもこを、酒場のテーブル席に座る彼があやすように撫でていると、
「おや、今日のクマちゃんはイチゴちゃんなのかい? とても愛らしいね」
朝に相応しいシャラシャラという綺麗な音と、涼やかな声が聞こえた。
彼の言う『イチゴちゃん』とは、果物の苺のような帽子と、それに合わせた葉っぱのような緑色のよだれかけのことだろう。
イチゴちゃんの格好の可愛いクマちゃんと南国の青い鳥、彼と酒場へ降りてきたお兄さん、その後ろをスゥ――と浮いて移動してきたゴリラちゃん、ほぼ同じ時間に朝食をとりにきたクライヴが朝の挨拶を交わしていると、
「……リーダー俺も起こして欲しかったんだけど」
と朝から陰気なかすれ声が聞こえた。
うなされていた彼は、先程赤ちゃん用の音楽を聴きながら目覚めた。
そして、まわりにも隣の部屋にも誰も居ないことに気が付き、薄暗い部屋に一人で残された赤ん坊の気持ちについて考えながら身支度を整え――おそらく赤ん坊は嫌そうな顔で『一人きりはちょっと……』と言うだろうという結論を下し、一階へ降りてきたのだ。
しかし、彼の複雑な心を理解してくれる生き物などここには居ないと知っているリオは、すぐに気持ちを切り替え、
「おはよークマちゃん。めっちゃ可愛いじゃんそれ。イチゴ?」
とルークの膝の上の、今日も可愛いもこもこへ挨拶をした。
朝から皆に褒められ嬉しそうなクマちゃんが、小さな黒い湿った鼻をふんふんと鳴らし、テーブルの上のコップを肉球で押した。
「クマちゃん危ないって」というかすれた声に耳をかさないもこもこ。
水の入ったコップに透ける、ピンク色の肉球。
ゴッと倒れるコップ。
しかし中身が零れないコップは、生き物のようにゴロゴロとテーブルを転がりながら移動し、リオの前にピタリと止まった。
「動きおかしくね?」というかすれた声が響く。
――コップの超常現象のような動きはお兄さんの仕業だろう。
リオは、肉球とは悪さをするために付いているのかもしれないと思ったが、周囲からの圧力を感じハッとした。
まさか、クマちゃんはあの肉球で俺に水を――。
コップを掴んだ彼がイチゴの帽子を被ったもこもこへ視線をやると、もこもこはピンク色の肉球を上に向け、こちらへ差し出している。
あれは――クマちゃんの『どうぞ』のポーズ。
「――ありがとークマちゃん」
もこもこの思いやりに感動したリオが嬉しそうに笑い、イチゴちゃんのようなクマちゃんに礼を言った。
心優しいもこもこの頬を、ルークの大きな手が褒めるように優しく撫で、喜ぶクマちゃんが彼の長い指を甘えるように嚙む。
いつもなら『クマちゃん肉球でコップを押しちゃ駄目』と注意するリオだが、彼を気遣ってくれる優しい生き物はクマちゃんだけだ。
叱ることなど出来ない。
甘やかされ続けるもこもこの行動が変わることはない。
もこもことは、水が入ったコップを見ればもこもこの顔を入れたり、肉球を突っ込んだり、可愛いお手々を引っ掛け、倒したりする、猫のような生き物なのだ。
◇
幻想的な蝶が舞い、淡く光る白い花の絨毯が敷かれた湖畔。
今からお仕事へ向かうルークとウィルとクライヴを、リオの腕の中のクマちゃんが見送る。
もこもこの幼く愛らしい声が「……クマちゃ……」と、花畑に切なく消えた。
『……クマちゃも……』と言っているようだ。
「クマちゃんお店のアイテム作るって言ってなかったっけ」
リオが腕の中の寂しそうなもこもこへ声をかけるが、生暖かいもこもこは彼の言葉を聞いていない。
「すぐ戻る」
低く色気のある声がもこもこへ別れの挨拶をし、
「魔石を回収してくるよ。戻ってきたらまた一緒に遊ぼう」
と南国の青い鳥が涼やかな声で約束をする。
冷たいが実は熱い視線を一瞬もこもこへ送ったクライヴは、愛しのクマちゃんにたくさんの魔石を贈るため、逸早く森へ入って行った。
黒い革の手袋に包まれた片手で、ぷにっとしたもこもこハートを揉みながら――。
悲しい別れに胸を痛めているクマちゃんを連れたリオは、花畑をゆっくりと歩き、イチゴちゃんなクマちゃんへ尋ねる。
「えーと、飲み物作るんだよね? クマちゃんの店に行けばいい?」
傷心なクマちゃんはもこもこした手の先をくわえ、彼の腕の中からリオを見上げている。
『可愛い』と言いそうになったリオは目を細め、ぐっと堪えた。今はハートを握っていないが、迂闊に褒めるとまた天使の格好のクマちゃんが出てきて『リオちゃんもかわいい』と言われてしまう。
イチゴなクマちゃんは肉球が付いたもこもこの手をスッと動かし、湖畔の家を指す。
リオは「え、あそこ作る場所なんてあったっけ?」と言いながら、もこもこの指示に従い家へと歩いて行く。
目を閉じ、花畑に立っていた妙に静かなお兄さんも、背後にゴリラのぬいぐるみを浮かべたまま、彼らの後ろをゆったりと歩き、ついて行った。
◇
「へぇー、奥ってこうなってたんだ」
リビングの奥、入り口が木で隠れている食堂のような部屋に初めて入ったリオが、感心したように呟く。
お兄さんは大きなテーブルの周りに置かれた椅子の一つに座り、また瞳を閉じている。
――ゴリラちゃんもテーブルの上からこちらを観察するように座っていた。
元気になる飲み物作りのプロ、クマちゃんが「クマちゃん、クマちゃん」と指示を出し、調理補助のリオが「いや絶対砂糖入れすぎだって」とかすれた声で呟き、もこもこを手伝う。
何が零れそうになっても闇色の球体が助けてくれる。
頼りになる仲間達と楽しくお料理をしたクマちゃんは、たくさん並んだ瓶を眺め、頷くと、満足そうに「――クマちゃん」と言った。
『――良い、です、ね』と。
「えぇ……クマちゃんまた何か格好つけてない?」
リオは話し方が怪しい――ような気がするクマちゃんを見たが、調理台に置き切れず、床へ置かれた瓶の前に立つもこもこは聞いていない。
目を細めた彼がもこもこへ視線をやると、肉球の付いた手をキュッと握り込み、口の横で水平に動かしている。
「まさか、クマちゃんヒゲ撫でてるつもりじゃないよね」
クマちゃんの口ヒゲ――ぬいぐるみのような姿のクマちゃんにそんなものは無いが――を撫でる仕草を見たリオが、胡散臭いものを見る目を向けたまま、イチゴのようなもこもこに尋ねたが、やはり返事はなかった。
作業が早く終わってしまった一人と一匹とお兄さんとゴリラちゃんは、現在リビングにあるソファで寛いでいる。
一人掛けのソファにはお兄さんが目を閉じて座り、その足元にはゴリラちゃんが居る。
リオは大き目のソファに仰向けで寝転がり、腹の上にクマちゃんを乗せ、もこもこの頬を撫でたり、もこもこハートではない、本物の肉球をぷにぷにしたりしていたのだが――イチゴのようなもこもこは、少し元気がないようだ。
「クマちゃんお絵描きでもする? それとも本――はまた今度で……」
ルーク達を待つ間、何かクマちゃんと出来ることはないかと考えたリオが、もこもこへ幼い生き物が喜びそうなことを提案するが――本には問題があることを思い出し、途中で止めた。
一つだけになってしまった提案は、今のもこもこの気分を盛り上げるには少し足りないらしい。「……クマちゃ」と元気のないもこもこに断られてしまった。
「――好きなものを選ぶと良い」
実は相当過保護かもしれないお兄さんが、頭に響く不思議な声でお金持ちのパパのようなことを言う。
床の上に巨大な闇色の球体が現れ「でかっ! こわっ」とかすれた声の苦情が響き、それらが消えると――たくさんの、おもちゃらしきものが残された。
――クマちゃんに渡すのだからおもちゃだとは思うが、何なのかは判らない。
「何これすげー。……お兄さんこれって――」
見たことのないおもちゃ、のような物を目にしたリオが驚き、もこもこを抱えたまま床へ座りなおしたが、話している途中で何かに気付いたように言葉を止めた。
なんというか、見たことがない、というだけでなく、違和感がある。
森の街の魔道具には、木製の物や金属、魔石を加工して作られたものが多い。
しかし、目の前のおもちゃは、街で見かける魔道具のどれとも違う。すべてではないが、妙にツルツルしている。
彼の感じる違和感は『この世界の物っぽくない』というものだったが、それは漠然としすぎていて、本人にも分かっていなかった。
見慣れないが、お兄さんがクマちゃんに渡す物なら、危険ではないのだろう。
「これお兄さんの?」
不思議なおもちゃ自体も気になったが、お兄さんがおもちゃを持っていることも気になったリオは、ソファに座ったままの彼に尋ねる。
「――知人が持ってきた物だ。子供達に人気があるらしい」
お兄さんはリオへ答えると、また瞳を閉じてしまった。
リオは何となく思う。お兄さんもよく知らないのでは――。
「クマちゃん何か気になるのある?」
リオに聞かれたクマちゃんは彼の膝を降り、目の前のおもちゃたちに近付いた。
不思議なものがたくさんある。
真っ白でツルツルしたものが気になったクマちゃんは、重要な事から確かめることにした。
スッと両手でそれを持ち、鼻を近付ける。
――よくわからない。余り匂いはしないようだ。「クマちゃん鼻のあとついてる」風のささやきが聞こえる。『クマちゃん無臭だね!』と言っているのだろう。
丸や十字の何かが付いている。ボタンだろうか。爪でひっかくが、取れそうにない。
肉球で押してみる。――癖になる手触りだ。つい押したくなる。うむ。
真ん中の、四角い黒い場所は何なのだろう。何故か濡れたあとがある。雨漏りだろうか。
あちこちさわっていると、黒い四角い部分がパッと明るくなった。
「何これ? 絵を見る魔道具? ……これってお兄さんとこの文字? 全然読めないんだけど」
もこもこがカチャカチャいじっている魔道具が気になったリオは、それを持ったクマちゃんを膝の上に戻し、もこもこと一緒に眺めていたが――おもちゃの中央に映った画像を見てお兄さんへ尋ねた。
映像を記録する魔道具なら酒場でも見たことはあるが、それらは仕事に使うものだ。
リオとクマちゃんが見ていた魔道具が、闇色の球体で持ち去られた。
「こわっ! クマちゃん肉球大丈夫?」
クマちゃんの手元に現れた球体に驚いたリオが、もこもこの肉球や可愛い鼻の無事を確かめていると、
「知人のところの文字だろう。――これでお前たちにも読めるはずだ」
と頭に響くお告げのような声が聞こえ、闇色の球体が彼らのもとへ白い魔道具を戻した。
「お兄さんありがとー」
細かなことを気にするのをやめたリオは、膝の上のもこもこに白い魔道具を持たせ、再び目を閉じているお兄さんへ礼を言う。
読めるようになった画像に書かれている文字を、声にだして読む。
「……はじめから? どういう意味?」
リオと一緒に首を傾げているクマちゃんが、肉球で魔道具の、ボタンのような何かを叩いた。
綺麗な絵が動いている。同じ服を着た青年が何人か出てきたが、何の意味があるのかよくわからない。
同じくよくわかっていないクマちゃんが、肉球で丸いボタンを叩き続ける。
「あー、もしかして、これ絵本? ――すげー。動く絵本とか初めて見たんだけど」
ようやく『はじめから』の意味を理解したリオが、すっきりしたような声で言い、膝の上のもこもこの様子を確認した。
先程と違い、落ち込んではいないようだ。
この珍しい絵本を一緒に読めば、寂しがり屋のもこもこも楽しく過ごせるだろう。
「えーと、学生の話? …………名前聞かれたんだけど? 何で?」
仲良く動く絵本を読み始めた一人と一匹に、最初の試練が襲い掛かる。
この絵本は、彼らに主人公の名前を聞いて来たのだ。
そんなこと、この本を初めて読んだ一人と一匹が知るわけがない。
膝の上のもこもこが幼く愛らしい声で「……クマちゃ……」と呟く。
クマちゃんもご存じないらしい。
「これクマちゃんが貰った本なんだから、クマちゃんが主人公なんじゃね?」
リオは閃いた。主人公はクマちゃんだ。間違いない。
主人公は明らかに人間の女の子の形をしているが、リオはそういう細かい部分は気にしない。
「へーこのボタン? で動かすんだ。すげー」と言いながら、もこもこの手を自分の手で包み、文字を選んでいく。
動く本の主人公の名前が『クマちゃん』に決まった、感動の瞬間である。
無事試練を乗り越えた二人は、話を読み進めた。
クマちゃんは転校生らしい。魔法を学びにきたようだ。――意外と普通である。
主人公のクマちゃんは廊下を走り、誰かにぶつかってしまった。
「え、何これ。選べってこと?」
一人と一匹に次なる試練が襲い掛かる。選択肢が出てきてしまったからだ。
『ごめんなさい』
『魔法で攻撃する』
『逃走する』
『金を渡す』
リオは正解が判らない。しかし、選択肢の意図はなんとなく理解した。
敵か、味方か――情報が少なすぎるが、見極めろということだろう。
彼は膝の上のもこもこに尋ねる。
「クマちゃんどうする? こいつあやしくね?」
見知らぬ人間を警戒するリオ。いつも明るい彼は人懐っこそうに見えるが、意外と警戒心が強い。
――自分達の不注意でぶつかっておいて、ひどい言い草である。
イチゴのようなクマちゃんは、悩み、肉球をペロペロしている。
そして、ゆっくりと頷き、幼く愛らしい声で「――クマちゃん――」と決意するように言った。
『――お金ちゃん――』と。
「金かぁ。確かに敵か味方かわかんないし、有りかも――」
主人公クマちゃんはぶつかってしまった格好いい男子学生に金を渡し、帰途へついた。
物語を進めて行くと、主人公クマちゃんが仲良くなった同級生の男を遊びに誘いたいと悩んでいる。
選択肢は『誘う』『誘わない』の二択だ。
イチゴのようなもこもこが、もこもこした手の先をくわえながら真剣に考え――幼く愛らしい声で「――クマちゃん――」と言った。
『――誘わない――』と。
「クマちゃんめっちゃ慎重じゃん」
学園の中の人間は皆怪しい。主人公クマちゃんは孤独に生きる。
そして一人と一匹は物語を進めて行く。
普通に魔法使いを目指す学生の話だと思っていたが、主人公クマちゃんは学園で怪しい魔法陣を発見してしまったらしい。
犯人を捜し目的を吐かせるのがいいだろう。
一人と一匹の前に再び難問が現れる。
『教室』
『学園長室』
『校庭』
『屋上』
「えーどこだろ。クマちゃんどこがいい?」
もこもこは肉球をペロペロし、推理している。
頷いたクマちゃんが「――クマちゃん――」と言い、主人公クマちゃんは単身学園長室に乗り込む。事件は何も起こっていないはずだが、黒幕は学園長なのだろうか。
「クマちゃんここ何もないっぽい」
すっかり魔道具の操作に慣れたリオが、もこもこの手を覆うように包み、ボタンを押し、あちこちを探すが、何も見つからない。
そして再び現れる選択肢。
『諦める』
『別の場所を探す』
『爆破する』
『仲間を呼びに戻る』
悩むもこもこ。クマちゃんのもこもこした手をもこもこと握りながら「手触り良すぎ」とかすれた声で呟くリオ。
イチゴのようなもこもこが頷く。クマちゃんが「――クマちゃん――」と言い、主人公クマちゃんの行動が決まる。
悩んだもこもこが告げた答えは『――爆破――』だ。
そして、暗転する画面。
主人公クマちゃんは、学園長室を爆破し、学園を去った。
「え、クマちゃん退学になったっぽいんだけど」
一人と一匹が楽しく読んでいたクマちゃんの学園生活のお話は、強制的に終了してしまった。
なんてことだ。
この学園はクマお断りなのだろうか。
落ち込む一人と一匹だったが、物語は何度でも読めるようだ。主人公クマちゃんを退学のまま終わらせるわけにはいかない。
彼らが主人公クマちゃんを操作し、今度は大人しく学園生活を送っていると、
「お店の売り物はもう作り終わったのかい? ――おや? 不思議なものを持っているね」
シャラ、という聞きなれた音と、涼やかなウィルの声が聞こえた。
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